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発表によると、いろは丸と見られる絵図は、幕末の1844~68年に佐賀藩士が長崎港に入港した艦船などをつづった記録誌「白帆注進外国船出入注進」(鍋島報效会所蔵)に掲載されていた。絵図には、「十月二十四日 深堀亀ヶ崎出船」という添え書きがあるが、船名や所有者は明記されていない。

 企画展の準備の際の点検で、中央のマストに掲げられた旗印や船体の特徴がいろは丸に酷似しているのに気付き、坂本龍馬を研究する「現代龍馬学会」(事務局・高知市)の織田毅さん(48)に鑑定を依頼。その結果、赤地に蛇の目が入った旗印がいろは丸を購入したとされる大洲藩(愛媛県)加藤家の家紋とわかり、さらに〈1〉船の解説に「四国船」と記述がある〈2〉長崎を出航した時期が大洲藩の記録と合う――などから「いろは丸にほぼ間違いない」と結論づけた。

いろは丸はイギリス製の蒸気船で、大洲藩が購入後、海援隊に貸したとされる。1867年、海援隊の航海中に瀬戸内海で紀州藩の軍艦と衝突事故を起こして沈没した。
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龍馬研究第174号が送られてきました。日本一熱心に龍馬さんを研究し続けておられるグループ、高知の龍馬研究会の会報です。そのうちP8の佐々木高行についての研究のうち、「いろは丸の賠償金も処理」の項を以下引用いたします。

『いろは丸の賠償金、7万両はどこへ行ったとよく聞かれますが、これも、佐々木高行が全て処理している。
慶応三年十一月十日、いろは丸賠償金再交渉を受け、長崎にて七万両に減額妥協。海援隊士中島信行が6500両を携帯し出航。龍馬亡き後、十二月三十日、長崎にて、海援隊士一同に対して、15,345両余りを分配。大洲藩へ42,500両をいろは丸の賠償金として返済している。』

この金を岩崎弥太郎がどうにかしたのではなどという疑いは、まったくのデマと知れる。

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