忍者ブログ
書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
[1]  [2
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 この地に在った、魚住城(魚住古城)は南北朝の文和年間(1352-56)赤松則祐に従った赤松一族の魚住(太夫判官)長範が住吉神社の社領魚住荘の領主として魚住町中尾の瑞雲寺ー住吉神社付近に居館を構えたのが始まりと云われ、応仁の乱には赤松正則に仕えた魚住長秀が軍功をたてたと云われています。
時代は下がり、天正6年(1578)加古川城(糟谷氏)における毛利攻めの軍議の決裂で別所氏が織田信長に叛いたため、羽柴秀吉による三木城攻めが始まると、別所氏についた魚住(左近亟)頼治が毛利軍の播磨の前線基地として、高砂城と共に兵糧攻めにあった三木城籠城の軍を支援するため、毛利軍からの兵糧等物資輸送の一大補給基地として魚住町中尾の城から、赤根川によって東面を遮断する大久保町西嶋の丘に城を移したとされている。魚住左近が在城していたとされますが、魚住氏の居城は魚住吉長の代(1560-1570年代頃?)には安田城(加古川市尾上町・赤松政村の頃の城主:魚住左近太夫)に移っていたようです。

俄か造りの魚住城は掘割に柵を巡らしただけの簡易な城だったようだが、毛利氏と別所氏を繋ぐ連絡の城として、三木城支援の紀州雑賀衆を迎えいれ、毛利氏からは吉川元春・小早川隆景等が魚住城に入り、2万の大軍を率い軍船数百隻には兵糧が満載されて播磨五泊の船泊港の「魚住の泊から高砂泊」にかけて碇泊したと云われます。梶原(平三兵衛景行が守備する高砂城からも加古川を遡上して三木へ搬送されていたが、「三木の干殺し」と云われた悲惨な作戦に、同年10月頃には秀吉側の大軍に攻められた高砂城は、梶原氏は毛利の援軍を待てずに城を放棄し三木城にはいっている。・・・(HARIMAuozumiから)
日ごろ何気なく行き来している、魚住町中尾、高砂、加古川尾上などが、歴史の舞台になっていた。

拍手[0回]

PR
 宇喜多直家の毛利から織田への寝返りを受けて、領地安堵の許しを信長に得るべく安土へ向かった秀吉は、信長の「宇喜直家の如き薄汚い者を許すわけにはいかぬ」と一蹴される。
備前美作50万石の所領を持ち、三十の城と1万5千の兵を持つ直家の帰趨がその後の毛利との戦の勝敗を握ることは自明。信長からは、よくぞやったと褒められるつもりの秀吉は、信長のこの判断に大いに戸惑う。
続いての「小城の二つ三つならともかく、備前美作五十万石の大領を許す訳にはいかぬ。余計な策など練らず、早々に立ち帰って戦に励め」の信長の言葉に、今自分が立たされている危うさに気付き、三木攻め専一の結論を出した。となれば、一刻を争って播磨に戻り、何が何でも結果を出さないことには、己の首も危うくなる。
帰路を急ぐそんな時も時、有馬の湯あたりで「本日未明丑の刻(午前二時)、毛利の水軍二百隻ほどが魚住に来襲しました。大勢の兵と強力(運搬人夫)を伴っており、三木城への兵糧搬入を企てるものと見られます。」との注進が届いた。
この地魚住の名が初めて出てまいりました。

拍手[0回]

 神戸新聞ほか多数の地方紙に連載された『親鸞』に引き続き、堺屋太一の『3人の二代目』を愛読中だ。
堺屋の歴史観に基づいて、戦国信長ー秀吉の時代を生き抜く3人の二代目(毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)の生きざまを活写していて、知られなかった事実?も多数あり、面白く楽しんでいる。
ところで、今週の天秤傾くー運と勇気(4)になって、秀吉の三木城攻めの下りに、話は進んできた。

この魚住にいわば昼逃げして来たのが平成2年バブルが弾ける寸前。勿論、事業を立て直して、必ず明石に戻ろうと必死にあがいてきましたが、あっという間にもう20年過ぎてしまった。
最近では、実に便利な田舎感覚で、8Fマンションの1階を住まいに、庭いじりを楽しみ、8階は広々、事務所と客室スぺースに活用。まあ変形メゾネットといったところでここ魚住に住みついちゃった。
長男も魚住に永住かと皮肉っていたが、息子3人が東京で飯を食っていることだし、このままでも良いんじゃないかな。

というわけで、20年も住んでいますと、多少その地のことも分かり、歴史も耳にする。
たとえば、明姫幹線・江井が島中近くには、首洗いの池があり、いまだに祟りがあるとか。
なんでも、秀吉の三木攻めの際、魚住で毛利に協力して、お城に兵糧を運びこむ協力をしていたものが、捕まり、刎ねられた首をこの池で洗ったとか。
このことが、もしかして出てくるんではとの期待があり、最近は切り抜きまではじめることに。

拍手[0回]

 2009.6.30のブログ「さくらんぼうと玉の緒地蔵」で意外な場所で三島由紀夫慰霊の碑を見つけたと記載している。あの市谷駐屯地に殴りこんで割腹自殺して果てた三島由紀夫が、意外や意外、加古川の志方出身であることは、ほんまかいなと念を押したほど結び付かなかった。
その後も気にはなってはいたものの、三島文学にそう惹かれることも無かったことから、実際に調べてみようという気にはなりませんでした。
そして偶然開いた塩田晋座談の中で先生が加古川ー三島由紀夫の関係を述べておられるのに出くわした。

『三島由紀夫さんは、本名平岡公威さん。加古川の人だというのを加古川では知らない人が殆どですね。
徳川時代、先祖が西神吉の宮ノ前から志方・上富木にやって来た。もう何代も前ですがね。私の親父が小学校時代に、三島由紀夫のお祖父さんが志方を出まして、(帝国大・現東大法科卒ののち)岩手県の小沢さんの関係がある原敬という平民宰相。この人の懐刀でやっていた。樺太長官から満鉄総裁になるときに、それが実現しないで引退した。これがお祖父さん。内務省の名簿を見ますと、平岡定太郎、お祖父さんは明治25年の採用なんです。
私は昭和25年の採用で同じ名簿に載っています。息子さん、つまり三島由紀夫のお父さんも農水省、当時、岸信介と同期生で、一緒に東大を出て農商務省に入った。
当時、そのあと商工省と農林省に別れた。
岸さんは商工省に行き、平岡さんは農林省に残った。最後は農林省の局長をやりました。
岸信介は総理までなりましたから。親父さんはそうゆう関係。
息子の三嶋由紀夫さんや弟さんも皆官僚だったんです。
三嶋由紀夫は御存じの通り大蔵省で、弟さんは外務省。「仮面の告白」に少し出てくるんです。
志方に帰って徴兵検査を受けた。加古川で受けた。ということは本籍が亡くなるまで志方にあったんです。(注結婚に際して戸籍について確認騒動があり本籍を東京に移している。)
お祖母さんに言われて「お前は体が弱いから田舎に行って徴兵検査を受ければ兵隊に取られないだろう、行って来い。」と。
私と同年輩ですから、一緒の人が徴兵検査を受けた。その時、学習院の服装で来ていたものだから目立っていたでしょうね。見ていると、これくらいの米俵を地元の青年が軽々何回も上げるのに彼は胸までも上げられない。青白い。それでボデイビルをやったんです。そんな状況です。
すべると思っていたのに通つてしまった。それで入隊して病気になって帰ってきた。
親父さんと一緒に東京へ志方から帰っているんですよ。それでそのまま終戦になったんです。
もっと三島由紀夫を大事にしなければいけないと地元の人に言っているんです。
命日が11月25日で、私はちょうど当時、福岡県の労働部長をやっていたんです。
知らせが東京から入りまして、そのうちに亡くなったらしいと聞いてびっくりしました。
「なんで、死ななくてもいいのに。」と。
そのあくる年び志方に帰って、成人の日に、三島由紀夫の話をしたんです。
「皆さんと同じ、当時はまだ志方は町でしたからね、志方町に本籍があったんですよ、皆さんと戸籍が同じだったんですよ」と。志方には記念碑が立っている。そこに大阪や姫路からボランティアーで清掃してくれることが何年も続いている。私もずっと行けなかったのが、2・3年前から行くようになりました。この間も一緒に清掃したんです。
三島由紀夫のお祖父さんのお兄さんが平岡万次郎、お兄さんが次郎で、弟さんが太郎と言うんです。
この方が国会議員として明治の初めから4期、務められた。そういう意味では私は志方の2代目なんです。そんなことで色々な関係があります。』

拍手[0回]

 日本のケネデイを目指されておられた淡水OB・塩田晋元衆議院議員(高商16回)の座談を淡水第50号記念号(平成16年)で拝読。
昭和51年ー61年先生の選挙区が3区明石・加古川の当時、高木学長の号令の下、淡水会明石支部はほとんど塩田晋選挙対策本部と化しておりました。
川崎重工明石事務所長藤田修作先輩を司令塔として、川重労組(民主党)と協力。たびたび決起集会を開き、選挙公示日には川重のJAZZBANDととも私もラッパを抱えてトラックに乗り込み明石市内を練り歩いたり、挙句は明石デパートでの決起集会では応援弁士まで勤める肩のいれようでありました。
その塩田晋先生の懐かしい座談を淡水誌上に発見。選挙結果も詳しく書かれていて、結局は国政選挙5勝5敗であったことを確認。
東京の往き帰りにお店に顔を出していただき、食事を召し上がりながら政局を語っていただいた。
引退されたのち、側近グループの一員として淡路へ記念旅行にお招きいただいた思い出も思い浮かぶ。
先生はそのあと平成17年12月11日にお亡くなりになり、加古川の事務所に駆け付けた有様も今は懐かしい。
御話では神戸商船大ー神戸経専(神戸商大)ー神戸高等商業(現神戸大学)ー京都大学と承って居りましたが座談では商船が抜けておりましたね。
戦後労働省での苦労は大変なもので、今では信じられないほどの労働争議も多発するなか、志を持っての政界進出であったとか。
一昨日のブログにも書きましたが、商大の性格上政界で活躍されたOBも希少で、市会・県会議員まではちらほら見かけますが、国会議員となりますと塩田先生一人という寂しさでありました。
その先生が古里加古川・志方を懐かしむなか、三嶋由紀夫について触れられております。

PS. 学部16回同期の岡田述史の御子息が加古川選出の民主党・岡田康裕衆議院議員であると昨日知りました。なにやら因縁めいたものを感じます。

拍手[0回]

[1]  [2
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
[01/30 つのしん]
[01/30 さくら]
[01/30 さくら]
[10/06 かめいち]
[10/03 庫山堂]
最新TB
プロフィール
HN:
つのしん
性別:
男性
職業:
企業向不動産仲介・企業立地
趣味:
ボランティア活動
自己紹介:
ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
バーコード
ブログ内検索
カウンター

Copyright © 『つのしんの独り言』 All Rights Reserved

Template by ゆうじ

忍者ブログ [PR]