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総勢45人が西明石・花園B1に参集。2時の開始が2:30にずれ込んだ。 そんなことを誰も気にしていない。久しぶりに見る顔に歓声がわく。35年ぶりやねとの声まで聞こえた。
なにせ昭和41年家業を継ぐためターヤンが明石に戻って以来のお付き合いのあるJAZZ野郎の集まりだ。
多分前期高齢者がその殆ど。中には後期とみられる方もチラホラ。 しかしここで感心させられたのはそんなお年を召した方々の方がお洒落で、粋で、若々しい。 ターヤン最後のバンドとなった花園グル―プ。それもトコトンお付き合いしてくれた4人が舞台に登場。代表の今井正芳君が開会の挨拶。思いが募ってか声がつまり会場にその思いが広がる。 かれこそが明石での45年のお付き合い。その気持ちも当然だ。
続いて私が挨拶を指名された。15年前にボサリオを閉店し、ターヤンの演奏場所を提供出来なくなった負い目があり、本来ならご挨拶する立場ではないんだが、偲ぶ会となれば私がマネージメントしていた1973-1988までのさまざまな活動有様だけは報告する義務がある。この17年の内活発な演奏活動をしていた黄金の8年をレズメに纏めて配布し言葉を加えた。
発表して良いエピソードと、これだけは云ってはならない其れとを仕訳ながらのおしゃべりは止まるところを知らない。ふと横を向くと、進行役の平川ポンタが手をぐるぐる巻いている。早く切り上げろとの合図。
しかたなく切り上げて、これも御指名の「ヨモギの歌」を歌って役目を終えた。
あとは、各グループによる演奏やら思い出のスピーチやら。
関学時代からのJAZZ仲間 丹野能和・菅野忠雄両氏の話に聞き入る。
GREAT BLUE のオーナーPIANO 安藤義則氏のターヤンPIANOの披露に吹きだす思いだ。48年前からターヤン流PIANO奏法は変わっていなかった。
バンド名も多彩で ブラック・スミス、デキシーランド・アンバサダー、フラット・ファイブ、ザ・ビッグディッパーズ、ホット・ギャング、ボサリオ一座、姫路キャッスル・ジャズバンド等。
まあ聞かせたのは大森重志名バンジョー率いるロイヤルフラッシュのメンバーによる演奏だった。
ボサリオの明華・明石純さんも引っ張り出されて懐かしいナンバーを披露して、やんや・やんや。
席上、ソネのママの訃報と、今朝亡くなられた姫路キャッスルの桔梗更三CLA氏の訃報も。
度々ヒートアップした故かブレーカーが落ちで、店内真っ暗になるも、そんなことお構いなし。
次々とメンバーが交代しては演奏はいつ果てるともなく続いた。
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   伊藤隆文とボサリオ一座・アーカイブ

1973.10.10(S48)MUSIC・INN ボサリオ・オープン
明石駅前 新納ビル
2階)(週一ビッグ・ディッパーの皆様にお世
話になりました。)

1974.3.3『Let‘sGO DEXIE』人丸ライオンズ5周年記念

ゲスト・南里文雄 ジ・アンバサダーズの皆さんレッツゴー3匹

1974.5.18 第9回 全日本デキシーランドフェステイバル 

1974.12.5サンTV放映ー南里文雄・デキシ―キングス・森サカエ

1975.4.23 第1回 GOODTIME JAZZ CONCERT司会 安達治彦

1975.5.18 第10回 全日本ディキシーランドフェスティバ

1976.4.28 第2回 GOODTIME JAZZ CONCERT司会 末広光夫

1976.11.5     JAZZ街 あかし  ゲスト・北村英治

1977.4.20 第3回 GOODTIME JAZZ CONCERT司会小山のり子

1978.4.4 第4回 GOOD TIME JAZZ CONNCERT ゲスト古哲

1978.6.3 第13回 全日本ディキシーランドフェステイバル

1979.6.3  5回 GOODTIME JAZZ CONCERT【サTV出演】 

1980.7.16 第6回 GOODTIME JAZZ CONCERT
『トランペット・メルヘン』   
ゲスト 森寿男とBLUE  COATS
【明石が生んだ4人の名トランぺッターが一堂に会す】
伊藤隆文・森寿男・本木英夫・片岡学
司会・末広光夫 明石市民会館 1600人
1980.12.7   ボサリオ  ジャスコ8階移転オープン
1988.8.31   ボサリオ  閉店


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 29日の挨拶をせよとのお達しで、改めて 伊藤隆文とボサリオ一座のアーカイブを書きだしている。
そんな中、1975年KOBE JAZZ FESTIVAL  と題して11月20・21日に多分国際会館で行われたコンサートのプログラムが出てきた。
油井正一監修、いソノてルヲ司会で北村英治・松本英彦・渡邊貞夫・ジミー武内・八城一夫・原田政長・沢田駿吾・増田一郎という錚々たるメンバーで組まれた全日本スイングオールスターズを筆頭に、豪華絢爛たるメンバー・バンドが集った。まあ1975年によくぞこれだけのメンバーが揃ったもんだと感心させられる。
そのプログラムの中に同じ1975年8月4日に亡くなった南里文雄(TP)への追悼文が掲載されていた。
南里文雄の一番弟子を任ずる伊藤隆文が献じたものとあった。
勿論、伊藤さんにこの追悼文を書く要請があったのは当然のことで、この2・3年南里師匠は明石・ボサリオでの南里文雄を囲む会と称するジャムセッションに、付き人も連れずお一人で参加下すっていた。
確か訃報に接したのもボサリオでの演奏中では無かったか。
暫くして、ターヤンが困ったような顔でお店にあらわれて「南里文雄師匠の追悼文を書くよう頼まれてん。僕そう結うのが苦手やねん。頼むから伸ちゃん書いてくれへんか」と実に困った顔で相談された。
南里師匠の突然の逝去を悼む気持ちは我々一座の者全員が感じていたし、そんな気持ちを書けば良いんですよねと返事すると「そうやねん、其れ頼むわ」と言うことになってしまった。
実は、ライオンズの5周年事業でレッツゴ―デキシーと題して伊藤隆文率いる最高のバンドージ・アンバサダー
と南里文雄、そしてレッツゴー3匹の漫才トリオで構成したステージで、厚かましくも南里さんと千代夫人の純愛を映画化した際に作曲された『限りなき愛情』を歌わせて貰った経緯もあって喜んで代筆させてもらうことになった。全くの確信犯でありました。
その文を今読み直しての感想と言えば、「我ながらよう書けとるがな」の一言です。
なんと師匠2人も追悼する羽目になることだけは予想して居りませんでしたが。
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 この29日、西明石の花園B1で開かれるターヤンの追悼の会の打ち合わせがあった。
先のブログでもうターヤンの事は書かないと宣言したが、やはり思いは35年前に遡って終う。
結局ジャスコ8階へ移転して私の力が至らずに閉店を余儀なくされた昭和63年(1988)までの15年間、演奏者の一員として伊藤JAZZ教室を堪能した。この間6回に及ぶGOOD TIME JAZZ CONCERTを開催。2度のTV番組借り切っての出演。そして数々の催しのアトラクションとしてステージを踏んだ。
外人倶楽部のダンスパーティでの演奏はまるで異国に連れて行かれたようだった。
謂わば、ターヤンのプロ時代のネットワークを使って、明石へ帰ってからの全盛時代を共に過ごさせて貰った。
それからでも20年経つが、未だにターヤン節が身に沁みついている。
その追悼の会の初めに、名曲「ヨモギ」を歌えと言う。
この曲は昭和53年頃か、ターヤンが誰を想って書いたのかは知らないが、誰にも知られずに山の隅に生えているヨモギが3本あると言う。その一本はターヤン自身なのだろうが、あとの2本が誰を指すのか未だに論争の的となる。
ひっそり明石の田舎でラッパを吹いているボサリオ3管(1PET・2BONE)を言うのか、あるいは単なる言い回しなのか、未だに分からない。
作曲された当時はあまり良さが分からなかった。所がメンバーの細君がこの歌を自ら歌いだして、ヨモギと言えば彼女の持ち歌と言うことになった。
その彼女が惜しくも逝去されて丸1年経った。
その彼女の葬儀の際、ターヤンにヨモギの歌詞を確かめてブログにUPした。(2009.8.2)
何か虫が知らせたのではないのかな。一年後その歌を献じることになろうとは。
打ち合わせの場に、ターヤンと我々兄弟の2BONEでの演奏CDを持ち込んで、花園グループのみんなに聞いて貰った。その感想は「こんなターヤンは聞いたことが無い、知らなかった」とこれ程の吹き盛りにご一緒できて羨ましい限りに尽きるとのこと。
改めて良き時代にターヤンを演出出来たことの幸せを噛みしめた次第です。

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今夜は瀬戸啓二のピアノを聞いた。
前回の中山ベーストリオの際の彼を世戸啓之とすれば、今回はまさに瀬戸啓二だ。
ライブハウスの瀬戸フアンのため、かなり選曲に苦心して、スタンダード・スクリーンミュージックを中心に、我々年配にとってはお馴染みの曲が披露された。
相方のベースが違えば、かくもピアノの雰囲気が違うものかと驚かされる。
もともとは、薮内良治君のなにわJAZZ大賞受賞パーティーで聞いた、DARK EYESをEVER GREENの名残を残しての世戸編曲に新鮮ながら懐かしい感激を味わったのが発端。
明石高校OB吹奏楽団のラッパ吹きばかりの中で、こんなピアノが居たんだと言う発見に驚いた。
特に、JAZZPIANOとなれば高校8回卒の進藤悟郎氏と世戸君しか存じ上げない。
今日も施餓鬼でお会いした、OBの荻野晋一先輩から同級生の進藤悟郎氏の噂を聞いたばかりだ。
昭和12年生まれの進藤氏は特に昭和40年大阪で結成されたファインメイツの初代ピアノとして有名だ。
残念ながら氏のピアノを聞く機会には恵まれていないが、進藤氏と世戸君を応援する気持ちに違いはありません。
2度目の中山トリオでの演奏ぶりは、何とか中山ベースの要求を満たそうとして必死の演奏姿勢がアリアリの緊張漲るセッションでした。
その演奏を聞いての感想で、欲を言えば少々弾き過ぎなんじゃないかと書いたが、本人曰く付いて行くのが精いっぱいで其れどころでは無かったとか。
其れに比べれば3回目のとなる今夜は、気の置けない相方ベースとの組み合わせもあって、悠悠余裕を感じさせる演奏ぶりだった。
私が思い描くと殆ど同じ曲想でアドリブが進行して行く。テクも申し分なくその限りを尽くす。
そこで欲を言えば私めを驚かす新鮮なメロディーラインを含めたアドリブを聞かせて欲しかった。
くそ難しさではなく、素直で伸びやかなエバーグリーンなアドリブを。
シェルブールの雨傘が最後には乗り過ぎて番傘の一歩手前と感じた。
指先よりハート。激しい場面も、優しげな場面も殆ど弾く姿勢は変わらない。
もっと感情に任せた弾き方で良いんだよ。律義で腰の低い珍しいピアノなんだけど、そろそろ本性を現して世戸らしい自信漲る演奏ぶりで良いんだよ。
参照
 進藤 悟郎 ピアノ
昭和12年生まれ。
昭和31年、コンボバンドに参加、以後、色々なバンドに参加。
昭和40年、フルバンド新規結成に際しファインメイツに参加。
年一回のスクリーンポップスコンサート(於フェスティバルホ-ル)出演の他、多くのテレビ番組、ラジオの録音、ジャズコンサート等に出演した。
平成11年末にフリーとなり、その後ソロ活動を一年間行い現在に至る。
好きなアーティスト オスカー・ピーターソン、バド・パウエル、ホレス・シルバ-等
 

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