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 その半生を附属中に捧げられた副校長中島幸男先生は引退され姫路市飾西にお住まいでありましたが、中学を住吉に統合する案には反対の意見を持っておられた。
そもそも明石附属小学校は1904年兵庫県明石女子師範学校附属小学校として開校しており、中学は昭和22年になって義務教育とされ、中学が開校された。
その母体たる明石女子師範をもって発足したともいえる神戸大学教育学部の本流は我々だという矜持を持っておられた中島副校長の、統合するにしても、明石に近いところで場所を探したいとの念願があった。
実際、バブル全盛の時には山下町の本校敷地を売却し、神戸市西区当たりで移転地探された事実があります。
3-4年前、その中島副校長を飾西のお宅にお尋ねし、西区の具体的物件をhご案内したことがあります。
先生は私の事を覚えていて下さり、さんよう喫茶の津野君かと懐かしんで下さった。
そして、なおこの物件を以て明石近辺での移転先探しを頼むと仰り、附属中OBである西村衆議院議員に交渉するようにとの特命を仰せつかったものです。
実際、急遽レポートを作成し、中島副校長の御意見として西村議員に提出した。
残念ながら、統合は可及的速やかに進み、明石近辺での移転は叶えられることはありませんでした。
今にし思えば先生最晩年にお会いでき、そのご意志の一端に触れたことを持って身の幸いと銘しております。
かくしてOB会であるユーカリ会も60周年を迎えると同時に附属中学が閉校となります。
その節目の総会を9月16日舞子ビラで開催の案内。同時に学年の同窓会を開こうとの案内が米沢淑介氏から届いた。
ここはやはり顔を出して最後の締めくくりとすべきでしょう。
手許にある『附属中学30年のあゆみ』という記念誌の中で、音楽教師・神谷好先生、川端敏夫先生が我々津野兄弟の事を特に名前を挙げて懐かしんで下さった。
もしかして、何がしかの感慨が得られるかもしれないとの期待があります。
それにしても、出身中学が無くなり、神戸商科大学が兵庫県立大学神戸と名を変えた。
小学、高校を含めて巡り合った恩師の面影だけは忘れる事はない。

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 明石の街で附属へ行ってますと言えばちょっとしたステータスで、私が小学生の頃の附属と言ったら完全なお坊ちゃんお譲さま学校で、未だに喫茶店・水商売の我々兄妹3人が揃って入学できたのが信じられない。
どうやら、いろいろと裏があったようで、走り回った親父の苦労も大変だったんだ。
しかし、場所を間違って入学させられた私にとっては大迷惑。まあ小学5年くらいまでは、確実に独自の道を歩んでおりました。ところが、4年生の運動会予行演習の昼休み、校舎の3階屋上から階段の手すりの合間を見事に墜落。前頭部・おでこを強打しながらも一命を取り留めて以来、学業はみるみるUP。
卒業写真を見るにキリリと顔付きさえもひきしまっている。
そのまんま進んだのが神戸大学教育学部付属明石中学校。小中と教育学部の実習の場。一年を通じて教生先生がひっきりなしに入れ替わって担任の補助をする。
小学校からのエレベーター組と中学からの入学組半々の学級構成。世間の荒波も知らずあどけない中学生活。
高校受験間際になって附中での勉強だけではとてもじゃないが通用しないことが判明。
それでも何を勘違いしたのか親父は灘高校を受けろと言う。
なにせ長男は特攻隊のようで、無理やり突撃してあえなく自爆。それでも明石高校は悠悠滑り止めだ。
そんな思い出しかない中学が、住吉に統合されるらしいと耳に入ったのがもう3-4年も前。
校庭の手狭なことと、いまさらながら中高一貫を目指すためには、明石を閉鎖して住吉に集約するしかないとの結論だ。

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 2008.5.17-7.16の恩師の面影のカテゴリーで鈴木先生の思い出と今、如何しておられるかの問い合わせに2008.5.9に御逝去の事を知った経緯を書いた。
やはり、先生の消息を何とかして知りたいとしたことのもとは、虫の知れせであったんだと後悔迫に立たず。
なお、遺族の方のその後を含めて問い合わせたが、先生の事までで精一杯の状況でした。

今日、突然知らないナンバーのそれも026局番の電話が入った。
「明石の津野さんですよね。私は長野県茅野市の不動産業者ですが。」
一瞬、長野方面で何か案件が有ったかどうか考えた。・・・
すると「鈴木先生の消息をお尋ねになっていた方ですよね。」
「そうです。失礼しました。確か先生の著書出版社の担当の方にお尋ねしておりましたのは、私です。」
「何処からか、先生のその後のお尋ねのFAXが入り、それに津野さんの電話が記してあります。」
「ありがとうございます。ところで先生の奥様はどうされておられますか。」
「私は10年前、先生が茅野市にお住まいを探しておられた時、今のお宅をお世話したものです。先生御逝去のあと、御婦人も養護施設に入られて、そのお宅の処分も致しました。先生のお墓は上諏訪社近くの法華寺に祭られています。詳しい事は週末FAXいたします。今日はお知らせまで。」と電話が終わった。

今迄に下諏訪は2回、上諏訪は一度尋ねている。備忘録を開くと、2006.4.30-5.7の東京行大作戦の途上、永平寺にお礼まいりー九頭竜川を遡って郡上八幡、下呂と走り、裏木曽街道を通って中津川IC-岡谷ICから下諏訪神社、上諏訪神社とお参りした。
その頃には、先生は茅野市にお住まいだったんだ。
よもや、そうとも知らず、お会いするチャンスを逃していたとは。今更の悔しさがこみ上げて来る。
おまけに、今地図を広げると、軽井沢ー佐久市ービーナスラインと遊んだルートはまさに茅野市そのものだ。
過去2回もニヤミス。申し訳ないという言葉しか出てこない。
奥様をお尋ねしても、先生の教え子のなかでも落第生のことなど話されている訳が無いだろうし、せめてお墓をお尋ねすることしか遺されていない。



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先生は昭和24.11.30から昭和43.3.31まで教鞭をとられた。戦後学校制度が再編成される激動の時代、新制大学としての神戸商科大学に赴任されたわけだ。担当講義はドイツ語と教養・倫理学でありましたが、今思えば、そのどれもが先生には苦痛そのものであったろうと思われる。専攻のギリシャ哲学(プラトン・アリストテレス)を学ぶための古典ギリシャ語と古典ラテン語、中世哲学をまなぶための中世ラテン語を駆使される先生にとって研究のための片手間仕事とはいえ、馬鹿なわれわれを教えることでどれ程貴重な時間を費やしたことかと、いまさらながら反省。先生には研究のみに没頭されるのが一番似合っている。先生はその後、大学を換わられることはあっても、研鑽を積まれ、エレア派、ヘラクレイトス、プラトン、マルクス・アウレリウス、ギリシャ抒情詩を論じ続けられ、2006年にはマルクス・アウレリウス『自省録』の新訳を世にだされた。齢87歳の時にであります。大正7年のお生まれと聞いておりましたから享年89・90歳。よくぞ頑張られた。

卒業してのちの先生との御縁は、昭和42年(1967年)10月、私の結婚式に来賓としてお招きし、スピーチを賜ったのが最後となりました。神谷先生(中学)住田先生(高校)栗田教授(商大ゼミ仲人)田中博神戸商大名誉教授(サッカー部顧問)からのスピーチは、がさつで元気だけが取り柄とのお言葉を頂いたが、鈴木先生からは「かれはなかなかのロマンチストで文学的教養も身につけている」との言葉をいただき、実のところこれが一番嬉しくて、自分の本性を見抜かれたここちがしたものです。

先生への想いは潜在的に、通奏低音のように絶えることなく、仰ぎ見る知性のシンボルでありました。

気持ちの上では連絡を取りたいのはやまやまなれど、きっとお邪魔することになると考えると、どうしても一歩が踏み出せず、40年を過ごしてしまいました。普通なら、年齢的にどうにかなって不思議でない今、去年の早い時期に、しきりに先生にお会いしておかなければとの思いが込み上げて、消息を調べるべく検索したところが、東海出版の近況報告というHPに鈴木照雄と名前のみが掲載されているのを発見。あつかましく先生との関係を書き込んで、住所・電話を教えろと、強引なメールを送りました。それが9月20日になって担当者から、茅野市の住所と電話番号を知らせるメールを受け取りました。ある意味やっと消息がわかり、御存命がわかったことで一安心をしたのが仇となった。長男が神奈川市に新居を構えたお祝いに行く道中。中央道・諏訪湖経由で先生に会いに行こうと計画をたてていた。しかし、当初4月10日ころの予定が、長男の家のかたずけが遅れ、来てもいいよと声がかかったのが、この18日。総領孫の誕生祝い・新築祝い・小学一年の運動会と盛りだくさんな計画で、途中29日に茅野市と考え、念のためもう一度検索したところ入江幸男教授のブログ「哲学の森」で、5月9日ご逝去と知った。先生にもう一度試験の点を直していただくこともかなわぬことに。まことに出来の悪い教え子でありました。こころよりお詫び申し上げます。

ご冥福をお祈りします・・・合掌

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先生に頂いた幸いの②は、このゼミでの「プロテスタンテイズムと資本主義の精神」でのマックス・ウエーバーの近代社会の未来像を「化石化した無味乾燥な社会にと成り果てる」との予言が心にとまり、4年時、栗田真造教授の経営学ゼミでの卒業論文のテーマを、「経営原理の考察」などと捉えどころのないくらい、漠然とした表現をし、そのなかで、マックス・ウエーバーの予言を打ち砕くための、真の経営原理の提言を書き綴ったものでした。曰く「価値合理主義こそ近代合理主義の次に来るべきもの」。
一言で言えば、同一・同品種・大量生産の近代社会での経営原理は、まさに如何に、優れた同一品種を大量に安価に供給し、人々がそれを選択するまでも無く、受け入れて良しとする社会。これを打破するには、個々人が自身でなすあらゆる選択の判断原理を唯物的数的お徳感覚でおこなうのではなく、其々の信じる価値判断により多種多様に行うべしということ。言ってみれば、ブランド物の高級万年筆よりも、我が子が少ないお小遣いの中から選んで買ってくれたありきたりかも知れない万年筆の方に価値(ねうち)を感じるということか。・・サッカーのリーグ戦が終わって、3部落ちをまぬがれ、二度とサッカーなどするものかと、同志社・香露園のグランドにシューズを捨てたのが11月22日の我が誕生日24歳。その日から、卒論提出期限のたしか十二月十五日まで、かかりっきりでデッチアゲタ卒論がそれ。審査担当の加地教授ももひとつ分からない様子。栗田教授もまあいいだろうぐらいのこと、しかし、あれから40年、いま図書館に保存されている我が卒論を以前読み返した時の感想は、まさに「マックス・ウエーバーもP・F・ドラッカーも超えた。」・・ちょうどリーグ戦突入寸前、昭和41年の就職戦線は前年までの青天イケイケとは違い、一転暗雲がたなびき出したような状況に転じていた。サッカー部のキャプテンを申し付かっていた私にとって、この際津野の代で3部落ち必定などとの先輩の声もあり、就職どころの騒ぎではない状況。(実はこれが人生の最大の痛恨事、就職先の選択が一番大事と今になっておもいしる。)YAMAHA。野村不動産・阪和興業・杏林薬品などと受けてみるが内定が出ない。一年上ながら、留年してともに就職先を探しているK先輩も、おなじ状態。お互いに情報を交換するうちに、K先輩が先日うけた(株)入江商店が再募集との張り出しを発見。受験にあたり、Kさんに先日の試験問題を教えてもらって傾向と対策とするつもり。ところが、入江商店総務があろうことか同じ問題を使いまわし。当然私は全問正解。開闢いらいはじめての100点満点。さあ大変な秀才がきたものよと大騒ぎとなったらしい。早速、社長・重役面接の通知を頂いた。この当時の入江商店社長・入江一雄といえば、大阪道頓堀に本社を構え、八幡・富士製鉄の資材納入窓口商社として大変な勢い。ブルドックのような社長の風貌も、威厳あたりを払っている。開口一番、クラブ活動と、卒論のことを聞かれる。
学業成績は優が35ケとかなりの線。ただし、専門科目・語学を除く一般教養で稼いだわけ。ちょうど構想ちゅうの、価値合理主義を拙くも説明していると、社長が突然私を指差し「お前、明日から来い。」と一言叫んだ。あとで知るに、価値合理主義の説明がいたく気に入られたとか。

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