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 長次郎2度目の出府の際、富士川を渡る時、雨後の逆流で舟が転覆し持物を全て失って裸同然で土佐藩砂村下屋敷に到着した。この砂村には土佐藩抱工刀鍛冶左行秀が邸内に鍛練場を造り刀鍛冶、鉄砲鍛冶として働いていた。長次郎はこの行秀を頼りにして出府した。
高知出発の時、岩崎弥太郎がその志を誉めて刀を一振り、長次郎にお贈ったが、それも富士川で流してしまい丸腰であった。
行秀には子供が無く、長次郎を我が子のように可愛がったと伝えられている。
その行秀が長次郎に差料を造ってやったのではないか。
それは長次郎の写真を見れば分かる。実に長大な刀を指している。まるで刀が主人のような写真だ。
見れば、長次郎の顔よりも長い白色の柄。鞘も写真の枠をはみ出すほど長い。
左行秀の鍛えた刀の中に、写真のような反りが少ないものが少なくない。
土佐藩はこの砂村藩邸で洋式小銃を造っていた。
藩邸は6000坪以上あり、広い鍛練場を建て、輸入した小銃をモデルに、和製洋式銃を生産していて、その工場長が行秀であったわけだ。
工場で働いていた若者は50人位いたそうだ。
裸同然で長次郎が転がり込んできても、問題は無かったのであろう。
長次郎が見つけたこの居場所から、砲術を縁として海舟との出会いが生まれている。
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 NHK龍馬伝の毎回必ず姿を見せるのが山内容堂である。御隠居様、老候と言われているが、まだ33歳の筈。しかし、近藤正臣演じる容堂の髪はかなりの老人を彷彿させる。人物考証もしっかりやって欲しいもんだ。
その容堂は井伊大老から一橋派とみなされて土佐藩品川下屋敷で安政6年9月4日から文久2年8月11日まで37ヶ月謹慎させられている。
謹慎生活といってもあまり応えた様子は無く、漢詩と酒を愛した酔鯨公の名に恥じぬものだったようだ。
しかし、桜田門外の変で井伊直弼が首を打たれるの知らせに接するや否や、次のような詩を詠じ本心を吐露している。

亢龍喪元桜花門    亢龍元(くび)を喪う桜花門(おうかもん)
敗鱗散与飛雪翻    敗鱗は散り飛雪となって翻う(まう)
腥血如河雪亦赤    腥血河の如く雪亦赤し
乃租赤装勇無存    乃租の赤装勇存する無し
汝到地獄成仏否    汝地獄に到りて成仏するや否や
万頃淡海付犬豚    万頃(ばんけい)の淡海犬豚に付せん

多分大雪の朝、品川下屋敷で雪見酒を煽っていた容堂のもとに桜田門外の変が伝えられた直ぐ後に詠んだに違いない。
乃租とは先祖の事であり、赤装とはかの有名な武田の赤備えをいい、井伊がその遺臣を多数召し抱えて赤具足として勇名を馳せていた。その赤具足の勇者などおりはしなかった。お前は地獄に落ちて、成仏など出来る筈が無い。淡海(琵琶湖)など犬豚にくれてやれと罵る。
相当恨みは深かったようだ。

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 高杉晋作が龍馬さんに護身用として贈った拳銃と同じものが松山市で発見され、持ち主から高知県立坂本龍馬記念館に寄贈された。喜んだ記念館は早速それまでのレプリカと入れ替えて展示を開始した。
やっぱり本物は手ごたえが違うのうてなもんだ。森健志郎館長自ら早速新聞発表となった。
ところが、今日の新聞によると高知県警から銃刀法違反の疑いがあるとの理由で展示にストップがかけられた。
県警によると、博物館での展示を認める銃刀法4条は拳銃を対象から除外、但し同法3条で公務員が管理する場合に限り展示が赦されるそうな。
火縄銃と同じくらいの時代の銃の展示を取り上げて当局も何を無粋なことを言うのか。実際銃に殺傷能力が有るのか等と思い、少々調べてみると、之が充分人を殺せる代物らしい。
業界ではクラッシック拳銃の逸品というれているほどの拳銃と分かった。
確か高杉晋作が上海を視察した際に買ったものを、余りにも無防備な龍馬の身辺を気遣って与えたものと言われている。実際伏見寺田屋事件の際はこの拳銃をぶっ放して逃げ切り、一命を拾った。
その際どうやら捕り方の2-3人を殺傷した可能性がある。となれば立派な殺人犯・お尋ね者ということか。
それにしても、なにかと龍馬さん縁で賑やかなこと。
最近では横浜のお龍さんのお墓にお参りする人々がうんと増えちゅうそうな。
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 龍馬は1862年武市半平太の書状を持って萩に行き、10日間滞在した。
この間、長州藩・有備館道場で剣術を披露、また久坂玄瑞等と接触し、在野の志士が決起すべし(草莽倔起)
との教示を受けた。
その結果、2ヶ月後の脱藩につながった。
ここまでは数ある脱藩志士の行動と変わりはない。
果たして、龍馬はどの時点で龍馬独自の路線へと舵を切ったのだろうか。
その路線変更が無ければ、この日本は一体どうなっていたことだろうか。
有備館は木造平屋建てで板間の剣術場と土間の槍術場がある。
長州藩の藩校「明倫館」の敷地内に1849年に建てられ、藩士やほかの藩の修行者が剣・槍の腕を磨いた。
龍馬も早速道場に引っ張り出されて腕を試されたに違いない。
武士・侍たるものいくら弁が立っても、最終剣術の腕が無ければ通用しない時代だ。
また、この剣術修行は藩に対して江戸・京に出て行く上での大義名分となった。
多くの若者が青雲のあるいは国を思う余り、剣術修行と称して藩を飛び出していった。
勿論、それぞれの藩ゆかりの道場で修行した訳だが、全国各地から集まった弟子同士での情報交換・情勢分析が行われ、その絆を強めていくと言う効果もあった。
云わば情報伝達のメディでもあった訳である。
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 いろは丸関連をもう一件。

竜馬の「いろは丸」契約書発見 瀬戸内で沈没

 坂本竜馬が瀬戸内海で乗船中に衝突して沈没した蒸気船「いろは丸」を、大洲藩が購入した際のポルトガル語の契約書が見つかり、愛媛県大洲市が23日、内容を翻訳して発表した。

 これまで、オランダ人から購入したと言われていたが、ポルトガル人領事からの購入だったと判明。衝突時に大洲藩の代金の支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも分かった。

 契約書は縦約30センチ、横約40センチ。1866(慶応2)年、長崎でポルトガル領事ロウレイロから大洲藩の元郡奉行、国島六左衛門が蒸気船「アビゾ号」を購入し、この船を「いろは丸」とすると大洲藩が宣言。購入時に藩が代金を全額支払ったとの内容が書かれていた。

確か、いろは丸沈没で受け取った賠償金の内、4万余両は大洲藩の船価未払いに当てられたとの記述も記憶に有ります。
とすれば、海援隊員への分配金等の他のこの4万余両が岩崎が九十九商会を引き継ぐ際の元金になった可能性が出てきた。

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