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前々回、学芸会で思いがけず大役を演じたはなしをしました。もちろん主役ではなくて、ひねくれ子役で、みんなに迷惑をかけるが、最後に土下座して謝るという損な役回りだった。その時の写真が残っていました。講堂の舞台上での集合写真。めくりに「劇・友情 6年い組」とあります。男子は野球のユニホーム姿でならんでいますが、僕だけが選手の中で、ユニホームを着ていない(前列右から3人目)。
やはり覚えていたことに誤りはなかったようです。けれどキリットいい顔で写っていますこと。
野球は苦手で夢中になることはなかったが、サッカーにはのめり込みました。手で球を扱うよりも、足での方がスムーズにいく。ある意味、天性を自分で感じていたのかも。4-6年は、センターフォワード定位置でエースストライカー。ある対抗試合で、5-6人ごぼう抜きで、GOALを決めた覚えがあります。もちろん中学に進んでも、サッカーを続けるつもりでおりました。これも吉井先生のご指導のお陰。
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もう一枚写真が残っていて、小学校の正面玄関前で撮った卒業記念写真だったと思う。
正面最前列中央に清水先生、その右隣が横山副担で左隣が長井校長。やはりこの写真で見てもシミキンに遠慮して、肩身の狭い姿で写っておられる。先日の小学校い・ろ組合同同窓会で、長井校長の娘さんのえっちゃんにお話を聞いたところ、校長はシミキンにやられて、遠慮して、事件の際はノイローゼになっていたとか。その後ろ、前から3列目の左端が私。日頃の厳しい試練を耐え抜いて、あくまでも厳しい顔で写っています。・・・さあ卒業、中学だ。



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その清水先生が育友会費の使い込みが発覚して大事件になったのを聴いたのは、同じ敷地内に隣接する附属明石中学へ進学して間もなくのことでありました。こんなことを書くと怒られるが、附属小の同級生を見ても、ほとんど兄弟・姉妹が入学している。事実わが3人弟妹も入学した。どうやら、弟・妹はすんなり入学したが、私は実は幼稚園を受験して滑っている。何かの関門があると必ず滑るクセはこのころからのこと。やっと入学を果たしておふくろにご褒美の饅頭を貰ったのがむしょうに嬉しかった。
ある意味先生と育友会・父兄との癒着があったんでしょう。戦後10年経って、シミキンは県下で一番若い教頭先生に出世しておられた。コアカリキュラムの研究に明け暮れて、お酒がすきなのが災いして、研究会の後は若手・古手をひきつれて福原へ繰りこんでいたとか、いやそこまで贅沢はしていなかったとか。父兄のお母さんともややこしくなったりして、今で言う内部告発にやられたんだ。
そりゃ明石の教育界どころか、関係者一同が警察に引っ張られて、かなりやられたらしい。当局もまだ戦前の名残があってかなり徹底しての取り調べだったとか。口を割る者、黙秘する者。しかし所詮世間知らずの先生方。全部白状しちゃって、結局シミキンが一人罪を被って幕引きとなった。
それを聴いたわれわれ教え子には本当にショックな出来事でありました。なんといっても、一番お世話になった先生でありながら、この事件のため、その後一切接触することがありませんでした。
それが昭和45年ころ、明石駅前に「てんぷらマルイチ」を開店して間もなくのこと、無性に先生に会いたくなって、藤江というところに住まいされていると聞きこんで御尋ねした。先生は教員を退職後、教科書会社に就職されておられたとか。やっと訪ねあてたところ、あれは七夕のころでしたが、一年前の七夕のころ亡くなられたとの御話し。同居のご婦人から、よくあなたのことを話していましたよと聞かされてやっと自分が先生孝行の一つもしていなかったことに気がついて、いまさらながらに悔やまれました。せめてもの形見にと無理をいってもらってきた写真が前回UPしている肖像写真であります。            
                                清水先生ありがとうございました。

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4年生の秋、階段を8m墜落したころから、なぜか勉強に勢を出すようになりました。なにしろその当時コimg3.JPGアカリキュラムと称して戦後の民主教育の旗頭となっていた清水一郎先生に、あろうことか、親父が「ちょいと、絞めてやって下さい。」と頼んだらしく、親公認のシゴキとなりました。なぜかいやに俺にだけは念のいった絞り様。席を前後していた同じくヤンチャ者のタッスンこと田角君と両名が、「コラ、ツノ・タスミ屋上を往復20回走ってこい」等と謳うような口調で命じられる。副担当の横山先生からも目の敵。良い子と仕方のない子との色分けは、一度されると絶対変わらない。生徒の出来不出来によるのか、家庭事情によるのかよく分からないが。文化祭の劇の配役においてもその原則は守られて、右柳(うりゅう)君やアッサンは常に主役で、5年の時、大きな役を貰ったけど、野球チームのはぐれ役で、劇の最後に泣いて土下座する役回り。悲惨な思いで話は尽きることがない。
一方、シミキン(清水先生)の授業は、まさに当時最新のグループ授業のモデルといえるもの。連日全国の学校からの参観があり、教室はそれらの先生でごった返すほど。いや、シミキンには勢いがありましたね。あのタバコのヤニ臭さと、皮製の頑丈なスリッパを頻りに思い出すのは、いつも叱られるとき下を向いている目に入るのがこのスリッパで、両切りのピース御愛好ゆえに、ヤニの匂いが漂っている。
しかし、この厳しさの御蔭で、成績はこれが同一人かと疑うほどの変わり様。きっと墜落事故のせいだろうと散々からかわれました。
ちょうど4年生からは、校内競技大会が始まる。これがなぜか附小ではサッカーでありました。たいがいの小学校が軟式野球であったのに。後年その理由が分かったのだが、その当時の体育担任の吉i井生が、サッカーの兵庫県教員チームの補欠だったことからサッカーを取り上げたとのことだった。そしてこれが私のサッカー人生の始まりとなったわけです。

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云わばさんよう喫茶を基地にして、日ごと夜ごと映画館街5軒を順繰りに顔パスで木戸・モギリをくぐり抜けて、映画を見続けた。その当時、私ほど映画を見ていた餓鬼は居なかったことだろ。それも歳を食ってくるに従って、洋画を好んで見るようになった。実にハリウッド映画はまぶしくて魅力的であったことは間違いない。
街で米兵にGIVE ME CHOCOLATEとやる勇気はなかったが、スクリーンを通してアメリカ文化の洗礼を受けつづけたわけだ。素晴らしい映画には決まって素晴らしいスクリーンMUSICが鏤められている。また町に流行る音楽もスクリーンMUSICが主流を占めていた。
初めて歌詞を覚えた曲が、EDDIE FISHERがカバーしていた「CINDY,OH CINDY」。なにがああまで惹きつけられたのか。ドーナツ盤を買ってきて、店のプレーヤーで開店前に掛けては悦にいっていたものです。
ポップスなら1957年のポールアンカのDIANAも衝撃的だった。YOU ARE MY DESTINEYとこの2曲も歌詞を覚えるほど聞きました。女優ならなぜか、ピアアンジェリ(PIER ANGELI)という名が印象にのこっていて、イタリア女優に珍しい清純派だったと思っている。たしか、ポール・ニューマンとの共演で、「傷だらけの栄光・SOMEBODY UP THERE LIKES ME」に出ていましたね。あのジェームス・ディーンが惚れたが、イタリア人以外はお断りの母親が、それを許さなかったとか。他にはフランソワーズ・アルヌールの気だるい色気も良い。ビングクロスビーとSTメリーの鐘(1945年)に出ていたイングリッド・バーグマンも冒しがたい美しさでした。
なにしろ見た映画数は半端じゃない。女優・ひいては女を見る目が肥えて当然であります。
そんななか、巡り合ったのが、1953年から1958年にかけて公開された、MUSICIANを主人公にとりあげた三本の洋画であります。
                 1953年 「グレンミラー物語」
                 1955年 「ベニーグッドマン物語」
                 1958年 「五つの銅貨」  

 

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79歳のY老夫人の今夜お通夜に出かけた。この話は生々し過ぎて実名を書くわけにはいかないだろう。
あれはいつのころだったか、東京に居たはずの、親父の長兄・清寿の息子・二人の兄弟が明石にやってきた。長男は東京工業大学卒の技術屋で、次男は明治大学在学中学徒動員され一式陸攻の通信兵で、特攻前夜空襲を受けて、搭乗予定の飛行機が破壊され、ために命拾いをした、特攻くずれ。それこそ戦後間もなく、食い詰めて明石の伯父さんを頼ってのことだった。四郎兄との相談の結果、長男は四郎兄が就職を斡旋し、次男は清志(おやじ)がさんよう喫茶を手伝わせるという手筈となった。次男Rのその時の様子は、小さなボストンバック一つを手に持っただけの姿で、そのとき着ていた上着も友達からの借り物だったとか。親父にすれば、10数年前、東京の長兄を頼った揚句、追い返された恨みはなかったのか、それでも肉親の情がそうさせたのか、店を手伝わせだした。Rは教養もあり、小柄ながら、一見ニヒルな色白二枚目であります。そのころの大学出か中退かは聞かなかったけれど、我々兄弟にとっては、良い兄貴分に思えて、よくまとわりついて話を聞いた覚えがあります。喫茶仕事も熱心で、たちまちコーヒーのブレンドも研究し「さんようブレンド」なるものも、親父と合作で作り上げていた。とくに絵画が好きで、筆をとるわけではないけれど、審美眼はかなりのもの。そのRの最大の欠点は酒好きなこと。それも並み大抵のものではありません。酔って暴れるというのでもありませんがなにしろ、飲み出すととめどが無い。顔は飲めば飲むほど青白くなる。お店のカウンターの中での仕事中に盗み酒をやらかして、あげくが突然ばったり昏倒することの繰り返し。それと女性にもてるらしく、あるとき、店の中で、親父とRが神妙な顔付きで話し込んでいた親子連れの娘さんのお腹が妙に膨らんでいたように覚えている。それでも親父は頼りにしていたんでしょう。明石で店を出した時から世話になっているN氏の奥さんの末妹との縁談が持ち上がり、N氏の興業関係で加古川で初めての駅前映画館ビルがオープンするに伴い、その2階にさんよう喫茶・加古川店を出店し、その店をR夫婦に任せることとなりました。その縁談の相手が今夜のお通夜のY婦人というわけ。そう昭和31年のことでした。
親父が血縁関係でお世話をした人は、10人は下らないが、このRにはN氏の関係からか、とことん尽くしあげたように思う。そのころの私の口癖は、「うちの親父は親にもつより、伯父さんに持つほうが上だね」であったほど。せっせせっせと加古川に通い詰めていた親父が、数年経って、N氏に言われて、現地で購入してこの夫婦を住まわせていた寺家町の家と、加古川店すべてをRにiゆずり渡したのが、昭和35-6年ではなっかたか。まあひと財産くれてやったわけだ。そのときの税務上取っていた金100万円の借用証が未だに手元に残っています。R氏も確か100万援助してやるとかで、泣く泣く無償譲渡したわけだ。これも浮世の義理なのか、なにを馬鹿なことをと思いながらもその後、R氏の贔屓で明石での出店が可能になったもとを考えると、仕方がなかったんでしょう。それほど親父はこのR氏には尽くしましたね。
ただ私がずっと持っている違和感は、このR夫婦のその後の行状にあります。加古川での夫婦のあり様はRの行状にやきもちをやいて、熱湯入りの薬缶をRのおでこめがけて投げつけたとか、生傷の絶える間がないような話が聞こえてくる。事実そうだったんでしょう。そうこうするうちに、N氏の奥さんとYとが相談のうえ、ちょうど明石の人丸前に売りに出ている、新築の商店を買って、お互い近くでいようとなったようだ。親父に相談もなく、加古川の家とお店の設備と暖簾を売り払ってしまった。そしてオープンした画廊喫茶が今年で開店43年となったらしい。Rは画廊喫茶のほかに、明石駅前のジャスコ店6階家具のアイ店で画廊・画材の店を出したりしていたが、これは赤字つづきでいたらしく、いつのまにかなくなっていました。なにしろ、そんな経緯からRは私たちの前には姿をほとんど見せないありさま。心底語り合うこともなく、親父にありがとうとの感謝の気持ちを持っているようにもかんじられなかった。・・・そのうち何時ごろだろうか、Rが酔っ払ってお風呂に入っていて、心臓麻痺で死んだとの知らせが来て、それでも葬式の世話を焼いていた親父のことを思い出す。爾来30年ほとんど交流もなく、私が困りに困って、100万の証文を見せて、何とかと頼み込んだ時も、門前払いの仕打ちだ。これほど尽くして尽くしがいのなかった奴は我知らずの境地。・・・そのことを喪主として並んでいる兄弟はどこまで知っているのやら。
たいがい恨み節は云わない私ですが、この件に関しては、とうとう胸のつかえが下りることなく、幕引きとなってしまった。

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