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この四郎兄には、前に書いたように、このあと何かと世話をかけることになりますが、尋常高等小学校を卒業後、役場の給仕を勤めるかたわら、独学で会計士の資格を取ったという出来人で、この明石税務署勤務中、会計検査に入った日本工具株式会社を余程締め上げたのか、後に名物社長・矢野松太郎氏に請われて.この日本工具に経理主任として入社。財務担当常務取締役まで勤めあげた。有名な白木屋乗っ取り事件にあい、その対策に手腕を発揮したことで勇名を馳せている。・・どうやら津野というのは、秀才の血筋であったようで、司馬遼太郎著「街道を往く」。梼原街道に「津野氏は、中世土佐の名族だった」に始まる文中に書かれている文化的背景を連綿と紡いで来たに違いない頭の冴えを示す一人と言えます。・・引用「鎌倉末から室町末にかけて、禅宗(臨済宗)の本山で詩文がさかんだった。鎌倉五山、京都五山といういわばアイビー・リーグ風の呼び方が当時あったところから、五山文学とよばれる。その五山文学の中でも、双璧というべきものが、義堂(義堂周信)と、絶海(絶海中津)だった。この両人とも土佐人であるだけでなく、いずれも梼原(当時津野庄)のひとであることが感動的である。さらにふたりとも津野氏の出だった。これによっても津野氏の文化的土壌のふかさを思わざるをえない。」(「世間への黙劇」の章より。・・この津野という名を大切にすることでも四郎兄は兄弟のうちで飛びぬけていましたが、その後、下宿先の警察署長親父に見込まれて養子にはいり、一層津野の名前・ルーツを研究することになったとか。事実、四郎伯父には深尾叶著「津野氏興亡史」の手ほどきをうけることになる。

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その頃の悪友の一人が、鍋島平八郎小父さん。網が下りたときも一緒に捕まった仲間。親父が大切に保管していた100枚つづりのネガブックにも度々顔がでてくる。究めつけは、神戸・湊川神社でのお袋とのデート写真にまでその姿がある。本当に嬉しそうに、親父とへーさんとが写真の撮りあいっこをしている様子が彷彿と想像される。1-2年を養生もかねてブラブラしているうちにも養蚕教師の免許を取っていたらしい。土佐の険しい山間の農家を訪ねて歩いた頃、目の前に見えている隣の農家に辿り着くために、ほんと深い谷を下って登って半日がかりで歩いたものだそうな。中には家の婿になれと散々口説かれたこともあり、かなり心動かされる娘もいたとか。そうなっていれば、今の我々は存在しなくなる理屈。チョット複雑。・・そのころ高知の町に出かけて初めてカレーライスを口にした時には、口のなかが火を噴いたかと思うくらい熱かったと大笑い。・・時代は昭和10年代、第一次世界大戦後の不景気でまともな職が高知にあるはずもない。兄弟のなかで、親子ほども歳の違う長兄・清寿(きよとし)は実際兄弟の親代わりとも言える存在で、彼だけは旧制中学を卒業して、早くから東京へでており、確か国策会社・満州鉄道関連の会社で活躍。親父達の学校の通知簿を送らせてはご褒美と激励を欠かせない実の親父・信太郎さんより怖い存在であったとか。後には青島で終戦を迎え、命からがら引き揚げてきたことから、僕たちは青島(チントウ)のオンちゃんと呼んでいた。その長兄を頼って、決死の覚悟で東京に出たらしい、その東京で一通り見物がすむと、肝心の就職の世話もされず、というより職もなく、親父曰く追い返されたとのこと。多分懐もさびしく、邦におめおめ帰れもせず、四兄・四郎が明石の税務署に奉職していたのを幸いに、明石での途中下車。というよりも明石までの汽車賃しか無かったというのが実情だったらしい。・・やっと話は明石にまで辿り着いたわけです。

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山陽電車の経営する映画館・山陽座附属の喫茶。あえて『さんよう喫茶』と平仮名にしたあたりが、清志さんのセンスのみせどころか。ここで親父について脱線する。・・・親父・清志さんは土佐の須崎は上分在で9人兄弟の8番目の五男。信太郎爺さんのアイデア倒れの事業失敗が祟り、家は赤貧洗うが如しの貧乏。なにせ爺さんは営林署勤めながら中学出の田舎インテリで鳴らしたらしい。爺さんの若かりし頃は、競馬馬の2・3頭も持ち、上分から須崎の町まで他人の土地を踏むことなく行けたほどの豪農であったとか。この爺さんがなかなかのアイデアマンで次々と事業をてがけたのが不幸の始まりといえる。新庄川に有料の丸太橋を架けて悦にいっていたところが、台風の大水で一瞬の内に橋が流されてしまう。営林署勤めのつてから奥山の材木の払い下げを受けたまでは良かったが、時あたかも日露戦争開戦となり、人手不足に祟られて、伐採期限を流してしまい莫大な損害を蒙った。兄弟して玄界灘へ生ボートを出して漁業に転進、一攫千金を狙ったが、嵐に遭い船は転覆、命からがら逃げ帰るといったありさま。弟はそのまま現地・佐賀にとどまったとかで佐賀に親戚がいるらしいとは聴かされています。爺さんはほとんど須崎には居らず、たまに帰ってきては子供を作っての繰り返しが9人とか。政祖母さんもよく頑張ったものです。時には味噌・醤油を近所に借りにいかされた辛い思いもしたわりには、清志さんは朗らかに育ち、新庄川で今や幻と言われている「にほんかわうそ」と泳ぎ比べをしたもんだが口癖でした。そんな家庭事情では学費のいる中学進学は叶わぬ夢。唯一学費免除の師範学校を目指すも入試不合格となったとか。しかたなくこれも学費の要らない水産学校に入学し、人一倍実習訓練に励んだが、遠泳の無理が祟って心臓弁膜症を患い一時は医者も見離したほどの病状に。そのころ家を継いでいた良幸兄(次男)が朝日新聞の代理店の権利を売って高知から名医と噂の先生を招き、身を一寸も動かせないなか、床下から床板・畳ごと切り取って病院に運び込みなんとか一命を取り止めた。このとき世話をかけた良幸次兄と下の面倒をかけた産婆見習い中であった末子三姉には一生を通じて恩返しに励んでいた姿を覚えています。その後、ぶらぶら養生に励むうちに丁半博打に誘われて賭場に出入りするうちに、ある日網がおりて留置所行きとなったとか。その時ばかりは、代書屋の筆が滑りすぎて長らく未決にほり込まれた経験のある信太郎爺さんが駆けつけて『清志待とれ、すぐに出しちゃるき』と言ってくれたのがホント嬉しかったと聴かされた。

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今になって、この66年を振り返ってみると、時には穏やかな表情をみせるかと思うと、まるでJETコースターに乗せられて、しがみついているだけで精一杯の奔流に姿を変える一筋の流れ(人生の表層)ながら、その底辺には通奏低音の如く、響き続けている、さまざまな要因・環境があることに気づかされる。
①で記したように、JAZZ・STANDARDが身にしみこむように感じるのも、実は育った環境によることは確か。・・親父が終戦から3年目の昭和23年のこと。なんとか自立の手立てをとたどり着いたのが、喫茶店開業でした。それも、他の人が店をひらくのを手伝ってくれと頼まれた時に、四郎兄の助言もあり、是非自分にやらせて貰いたいと強訴に及んでやっと許しを得たとの話。今で言うなら、元ダイエー明石店西館のあたり。その頃山陽電車経営の映画館『山陽座』の隣接スペースにコーヒーカップと紅茶カップそれぞれ6ヶを用意して『さんよう喫茶』を開店したそうな。やっとケーキらしきものもケースに陳列し、喫茶らしい店作りに励んでいると、私と弟の啓三が、そのケーキを目当てに毎日のように、上の丸の家からやって来る。まるで高崎山のお猿さんだ。数少ない商売のケーキを毎日食べられては堪らないところ、親父はお袋に、黙って食べさせておけと言ったそうな。焼き芋を与えてやれなったことの償いの意味もあったのかな。そうするうちに1ヶ月もすると、ケーキには目もくれなくなったとか。俺的にはコーラもアイスクリームも美味しかったなあ。場所としては、明石一の繁華街・映画館街で、東から日活・白鳥座(洋画専門)・明石東映・山陽座(東宝)・明石松竹と並んだどの館もその後、連日大入り満員の大盛況を迎えることになる。そんな場所を得られたのも、親父が世話になった鳴尾組大番頭・永田政一が明石の興業界にも顔が利いたことからだったと思われる。後に明石のフィクサーとなる永田ゴッドファーザーも若かりし時はジンタのクラリネットを吹いていたとか。そのころ無声映画の活弁には生バンドがつきものだったことなど今の若者は知るはずもないか。・・・続く

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土陽会事務局長・島本和幸氏から、3月31日、再手術のため神戸中央市民病院に入院が決まったとの連絡あり。となれば、第5回龍馬IN神戸の雑用からなにから、ひとりでやらねばならないことにとなりにけり。氏の無事を祈りつつも、30日3時ころから、神戸ポートタワーへ出かけて、昼食会場(メリケン食堂別館・波止場町5番館)・神戸市民高齢者一括割引の交渉(神戸海洋博物館)・スプラッシュ神戸係り(高岸氏)へのご挨拶を済ませる。・・・その足で、今年度近畿連合会総会への出演をお願いしている、神戸中華街(獅子舞)へ回ってみようとゆうことで、元町・榮通からJRAの筋を北行きに歩く。・・ふと見ると、JAZZ&CAFE・M&M(2F)の看板が目に入った。今時まだこんなスタイルのお店があるんだと一種の感激を感じ、思わず階段を駆け上がる。店内はロッジ風で落ち着いた洋風居間の雰囲気。やはり、今や骨董価値さえ有るLPが壁面の棚を埋め尽くし、JBLのスピーカーにマッキントッシュのアンプが鎮座。まさにOSCARのPIANOが『I REMENNNER CLIFORDBROWN』を奏でている最中。たしか、この光景は以前にもあったと記憶を辿るうちに、三宮・JAZZ喫茶『バンビ』の名前が浮かんできました。生来お酒が苦手な小生はもっぱらJAZZ喫茶で時を過すことが多かったなあ。そのなかでも一番通ったのが『バンビ』。ほかに『さりげなく』『TONBO・JAZZINN』『クルセママ』『JUST IN TIME』等。それがほぼ40年前のこと。・・ママさんにJACK・TEAGARDENをリクエストするも、LINEUPに無いとのこと。J・Jならということで、かけて貰ったのが、STANGETZとのDUO盤。流れてきたのがMY FUNNY VALENTINEときた。この偶然は一体何だろう。ここのところ忘れていた、内なるもう一本の流れ・JAZZ-POPULARをたたき起こすような衝撃を受けた。・・・この話は続きます。

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