[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この四郎兄には、前に書いたように、このあと何かと世話をかけることになりますが、尋常高等小学校を卒業後、役場の給仕を勤めるかたわら、独学で会計士の資格を取ったという出来人で、この明石税務署勤務中、会計検査に入った日本工具株式会社を余程締め上げたのか、後に名物社長・矢野松太郎氏に請われて.この日本工具に経理主任として入社。財務担当常務取締役まで勤めあげた。有名な白木屋乗っ取り事件にあい、その対策に手腕を発揮したことで勇名を馳せている。・・どうやら津野というのは、秀才の血筋であったようで、司馬遼太郎著「街道を往く」。梼原街道に「津野氏は、中世土佐の名族だった」に始まる文中に書かれている文化的背景を連綿と紡いで来たに違いない頭の冴えを示す一人と言えます。・・引用「鎌倉末から室町末にかけて、禅宗(臨済宗)の本山で詩文がさかんだった。鎌倉五山、京都五山といういわばアイビー・リーグ風の呼び方が当時あったところから、五山文学とよばれる。その五山文学の中でも、双璧というべきものが、義堂(義堂周信)と、絶海(絶海中津)だった。この両人とも土佐人であるだけでなく、いずれも梼原(当時津野庄)のひとであることが感動的である。さらにふたりとも津野氏の出だった。これによっても津野氏の文化的土壌のふかさを思わざるをえない。」(「世間への黙劇」の章より。・・この津野という名を大切にすることでも四郎兄は兄弟のうちで飛びぬけていましたが、その後、下宿先の警察署長親父に見込まれて養子にはいり、一層津野の名前・ルーツを研究することになったとか。事実、四郎伯父には深尾叶著「津野氏興亡史」の手ほどきをうけることになる。
①で記したように、JAZZ・STANDARDが身にしみこむように感じるのも、実は育った環境によることは確か。・・親父が終戦から3年目の昭和23年のこと。なんとか自立の手立てをとたどり着いたのが、喫茶店開業でした。それも、他の人が店をひらくのを手伝ってくれと頼まれた時に、四郎兄の助言もあり、是非自分にやらせて貰いたいと強訴に及んでやっと許しを得たとの話。今で言うなら、元ダイエー明石店西館のあたり。その頃山陽電車経営の映画館『山陽座』の隣接スペースにコーヒーカップと紅茶カップそれぞれ6ヶを用意して『さんよう喫茶』を開店したそうな。やっとケーキらしきものもケースに陳列し、喫茶らしい店作りに励んでいると、私と弟の啓三が、そのケーキを目当てに毎日のように、上の丸の家からやって来る。まるで高崎山のお猿さんだ。数少ない商売のケーキを毎日食べられては堪らないところ、親父はお袋に、黙って食べさせておけと言ったそうな。焼き芋を与えてやれなったことの償いの意味もあったのかな。そうするうちに1ヶ月もすると、ケーキには目もくれなくなったとか。俺的にはコーラもアイスクリームも美味しかったなあ。場所としては、明石一の繁華街・映画館街で、東から日活・白鳥座(洋画専門)・明石東映・山陽座(東宝)・明石松竹と並んだどの館もその後、連日大入り満員の大盛況を迎えることになる。そんな場所を得られたのも、親父が世話になった鳴尾組大番頭・永田政一が明石の興業界にも顔が利いたことからだったと思われる。後に明石のフィクサーとなる永田ゴッドファーザーも若かりし時はジンタのクラリネットを吹いていたとか。そのころ無声映画の活弁には生バンドがつきものだったことなど今の若者は知るはずもないか。・・・続く
土陽会事務局長・島本和幸氏から、3月31日、再手術のため神戸中央市民病院に入院が決まったとの連絡あり。となれば、第5回龍馬IN神戸の雑用からなにから、ひとりでやらねばならないことにとなりにけり。氏の無事を祈りつつも、30日3時ころから、神戸ポートタワーへ出かけて、昼食会場(メリケン食堂別館・波止場町5番館)・神戸市民高齢者一括割引の交渉(神戸海洋博物館)・スプラッシュ神戸係り(高岸氏)へのご挨拶を済ませる。・・・その足で、今年度近畿連合会総会への出演をお願いしている、神戸中華街(獅子舞)へ回ってみようとゆうことで、元町・榮通からJRAの筋を北行きに歩く。・・ふと見ると、JAZZ&CAFE・M&M(2F)の看板が目に入った。今時まだこんなスタイルのお店があるんだと一種の感激を感じ、思わず階段を駆け上がる。店内はロッジ風で落ち着いた洋風居間の雰囲気。やはり、今や骨董価値さえ有るLPが壁面の棚を埋め尽くし、JBLのスピーカーにマッキントッシュのアンプが鎮座。まさにOSCARのPIANOが『I REMENNNER CLIFORDBROWN』を奏でている最中。たしか、この光景は以前にもあったと記憶を辿るうちに、三宮・JAZZ喫茶『バンビ』の名前が浮かんできました。生来お酒が苦手な小生はもっぱらJAZZ喫茶で時を過すことが多かったなあ。そのなかでも一番通ったのが『バンビ』。ほかに『さりげなく』『TONBO・JAZZINN』『クルセママ』『JUST IN TIME』等。それがほぼ40年前のこと。・・ママさんにJACK・TEAGARDENをリクエストするも、LINEUPに無いとのこと。J・Jならということで、かけて貰ったのが、STANGETZとのDUO盤。流れてきたのがMY FUNNY VALENTINEときた。この偶然は一体何だろう。ここのところ忘れていた、内なるもう一本の流れ・JAZZ-POPULARをたたき起こすような衝撃を受けた。・・・この話は続きます。
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)