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527f9ecb.JPG最初のうちは、お店を会場にしての「さんようクラッシックコンサート」と名づけての開催でありました。勿論、お店の自慢のHI-FI(High-Fidelity)装置でのレコードコンサートであります。このHi-Fiも藤田兄の川崎航空機のお友達、松岡さんと言ったと思う。飛行機を作る技術屋が病高じて、Hi-Fiを作らせれば右に出る者は無いという優れものにお願いして設えた。そのコンサートの様子をガラット変えたのが、これも日本ビクターが本邦最初に発売したステレオプレーヤー「STL-1S」の出現であります。このステレオのお披露目はビクターから技術屋さんを招き、明石海岸近くの、そういえば親父とお袋が共に勤めた錦江ホテル跡で、播陽幼稚園の講堂を借り切って開催したものです。本体は、スピーカー2台とアンプ・プレーヤーにセパレートされていて、これが夫々かなりの重さ。講堂の舞台の前のテーブル上に装置をセットする。会場は100人近くのお客さんが詰め掛けて、今噂のステレオがどんな物なのか、耳をダンボにして着席する。忘れもしない、デモ演奏の最初は蒸気機関車の進行音、ただそれだけの再生でありました。ひたすらシュツシュポッポの音がするのみ。それも左の方角から、かすかに汽笛の音がしたと思うまもなく、轟音を発てて列車が近寄り、目の前を猛烈な勢いで通り過ぎ、右の方向に走り去って行ってしまった。まだ皆素朴だったんですね。会場からは感嘆の声が上がり拍手さえ沸き起こった。このデモ演以降、臨場感あふれるステレオ(勿論明石唯一)コンサートに詰め掛ける人数を収容するために、お店では狭くて、明石商工会議所4階の集会所を借りての開催となった。恭しくステレオが前面に鎮座ましまし、50人はゆったりと収容できる部屋にパイプ椅子を並べる。その最前列は佐山敏夫先生と讃井毅先生の指定席で、
懇切丁寧な解説をお願いしていた。選曲もこの両先生が担当して皆さんのリクエストも参考に、もっぱら自分の聞きたい曲を選んでいたように思います。というのも、これだけの回数を通して、加古川駅前の奥田楽器の奥田勇専務の好意により、新譜レコードの新品がこちらの要望どうりに提供されたからであります。本当は奥田楽器様には足を向けては寝られないほどのお世話になったわけです。この提供がなければとても長期間継続しての開催は不可能です。今思えば、回ごとに詳細な解説書をガリ版刷りながら用意して配付する。毎回案内状の発送は欠かさない等、まったく採算度外視のこの会を、嬉々として続けた親父を今更ながら「偉いやっちゃ」と見直す気持ち。そして、もう一つの発見は、親父が案内状の片隅に記した小文が意外と味があることに気が付いた。今手元に小文付きの葉書は14通しか残っていないが、時折このHPに復刻掲載してみようと考えた。
きょうも神戸新聞夕刊の「いいみみ」欄にTELして、100回ー230回(昭和32年ー昭和42年)の小文付き案内状を保存しておられる方が居られたら是非一報お願いしますとのメッセージ掲載をお願いしたが、採用されたら良いのにと祈るばかり。

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この時代、音楽を聴くのは専らレコード頼みでした。そのレコード再生装置がLPレコードとプレーヤーの出現で一変することになりました。喫茶店といえば、それぞれ店の持ち味を生かして集客をはかるわけですが、世の中も落ち着き、人々がデートにしろ、会社帰りにしろ楽しい語らいの場としての喫茶店の役割は大きなものでした。今なら、すかさず居酒屋で一杯という段取りになる。我が店は、プロレス中継で立ち見、すし詰めの荒い営業もいたしますが、普段は音楽をバックグランドに流し、それは上品な雰囲気を売りとしておりました。昭和28年に純国産LPが発売になると、それまでSP盤を忙しくひっくり返していた手間が、片面30分は保つことになった。さっそくこれに親父はとびついています。その証拠に今手元にかろうじて残っている『さんようレコードコンサート』の案内状、ある期間のそれも飛び飛びでしか残っていない古ぼけた案内状から推察することが出来ます。まず全体を語るなら、いつの頃から始まったかは、はっきりとは特定できないが、上記のLP発売の昭和28年以降で、昭和33年(1958年)のステレオプレーヤー出現前と考えています。というのも、手元の案内状の殆どが、未発送のもので、おまけに年の表示をぬかしています。幸いなことにたった一枚、明石高校音楽部の恩師・有永正人先生に発送した第126回2月20日を御嬢さんの真紀子から頂いていて
,郵便局の消印が幽かに残っていて、S35.2.17と読みとれる。この日付を基準点として検討してみるに、当初は半月に一度ぐらいの頻度で金曜日の夕方開催していたように見える。一番古い案内状は第112回5月9日開催となっていることから、このころは月一回のペースでながら、これ以前が同じ月一回で遡ると、初回は昭和25年5月となり、お店が西側に移転した時期と整合しなくなる。このあと、回を重ね、最終回は第248回昭和42年11月17日於さんよう喫茶となっており、この日は親父の誕生日です。そして翌年の昭和43年2月21日に喫茶リオ・ブラジルを会場に、『ギターとデキシーの演奏会』と題して、生演奏と後半はやはりレコード演奏の会を最終にその長い歴史にピリオドを打っています。その期間、昭和27年から昭和43年2月21日まで実に15余年を数える。そしてこのコンサートから知らず知らずにでっかい音楽の贈り物を貰った一人が私であったわけだ。

2月21日(水)
  PM6;30-9;00      ところ・・リオ・ブラジル
  入場無料

         『ギターとデキシーの演奏会』
  新しい試みとして、皆様に楽しんでもらえる実演を今までのレコ
  ードコンサートに採用してみました。是非お越しください。

  ①禁じられた遊び・アルハンブラの思い出・他
   昭和42年日本ギター音楽コンクール第2位   高木 剛
  ②聖者の行進・マックザナイフ・他数曲
                 伊藤たかふみとファニーメン
  ③J・シュトラウス・ポッカ・行進曲他
    ボスコフスキー指揮 ゥインフイルハーモニー

                      (ママ) 

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旧明石警察署にあった藤田酒店に秀才を謳われた修作・浩平の兄弟。兄の修作氏は神戸商大を卒業して、川崎航空機に入社早々。弟の浩平氏は灘高を卒業して、神戸大経営学部在学中。この兄弟はどうやら、さんよう喫茶のその後のイベントの有力協力者であり、ネタ元であったと今頃になって納得。ついでに私のムチャな灘高受験も大学を神戸商大にこだわったのも、このご両人との出会いが齎したものでした。仲人をお願いした伊藤悌氏の奥様の甥っ子に当たることから、悌氏のご紹介から始まったお付き合いでしよう。兄弟揃って、音楽に堪能で、特にクラッシックに造詣深く、兄の修作氏は川崎航空機では、入社早々にもかかわらず、混声コーラスのクラブを立ち上げた程。またバラをこよなく愛して、栽培まで手がけていた。多分最初にこの兄弟の協力を得て企画したのが、『バラ展』であったように思い出す。既に広い壁面を利用した絵画展は常時開催していて、このお世話の中心は水彩画家・一水会の石田一二先生(通称・ワンツー・中学教師)で先生には開店以来マッチのデザインをズットお願いしており、結局40年間のお付き合いになりました。その絵画展の合間、バラが一番美しく、艶やかで、匂い馥郁の時期を見計らって、多分5月後半ごろ、それも鉢植えを並べえるのではなく、一本一本切りそろえたバラを種類に分けて大き目の試験管に刺して、壁面に取り付け展示するというものでした。何十種類ものバラを取り揃え、展示期間中に何度か取り替えるという誠に手のかかることをやったんですね。一年に一度だけというものでしたが、お客様の喜ぶことを願っての誠心誠意の心尽くしでありました。さすがにこの企画は長続きはしなかったように思います。そうそう手のかかることを藤田兄弟にお願いするわけにはいかなかったのでしょう。そんななか、これも一年に一度の恒例行事として定着したのが『カレンダー展』です。
戦後まもなく、企業も今のように、猫も杓子もカレンダーを作れる訳で無い頃。それでも発行している大企業を狙い打ちに総務部宣伝担当に案内を出し、提供を求めて始めた。店の壁面は、高さ4M以上あったのではなかったっけ。確か300社ぐらいの企業が、まだ簡単な装いのカレンダーを11月ころから贈ってくる。それを大晦日の紅白歌合戦と除夜の鐘を聞いてから、壁面一杯に吊るし始める。殆ど明け方近くまでかかった事もありました。自転車の荷台に滑り易いカレンダーを乗せて店まで何度と無く往復するのは、我々兄弟の仕事でした。吊るし方も、年々学習を重ね、見るからにデキの良い物を中心に飾りつける。元旦来店のお客様から感嘆の声を頂くと苦労も吹き飛ぶ心地でした。松の内の展示期間中に、希望のカレンダーの予約も受け付ける。やはり良い物に希望が集り、当然抽選となった。
このカレンダーも年々お金をかけたもの、デザインが斬新なもの、使いでに工夫のあるもの等、カレンダー文化花開く時期が確かにありました。このカレンダー展は、昭和41年この明石東宝が、ダイエー明石店と映画館ビルに建て替えられてさんよう喫茶が地下1階に押し込まれるまでの10余年継続した。そして昭和45年になって明石天文科学館で再開され、今年で38回を数える。昭和35年(1960年)明石天文科学館会館に際しては、展望台食堂を明石料飲組合の有志とともにレストランの経営に参画していたことから、科学館の出し物としえバトンタッチができたことと思われる。・・・まあいい事は続くもんです。、

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日本で最初にテレビ放送が開始されたのは、昭和28年(1953年)2月1日。その当時、テレビの価格は17インチで15万円、20インチで18万円。全国で受信契約者数は868.月額受信契約料は200円でありました。その波が明石にも押し寄せてきました。そしていち早くテレビを設置したのが、さんよう喫茶でした。そののち前の三和銀行、いまでは三菱UFJBKの店先あたりに街頭テレビが設置されたのは当分後のことだったように記憶しています。勿論清志さんは早速かなり大型を購入設置した。たしか24万円かかったとかなんとか聞いた覚えがあります。さんよう喫茶の新店は「天井がガイに高い」ことが幸いして、テレビはかなり高所に設置された。お客さんはコーヒーを飲みながら少々首を仰向けにしないとテレビが十分見れない。これには親父の魂胆がありました。当時東京・大阪で旋風を巻き起こしていたのがソフトクリーム。日世アイスクリームが発売したソフトクリームマシンは、今の機械とは、比較にならないぐらい操作が難しく、クリームのレシピもその店の特徴を出すための努力がいったもんです。マシンの製造タンクは普通のアイスクリームのバレルほども無い容量で、作っては出しでは、とても間に合わない。そこで8割程度に仕上げたタネを沢山作り置きして、冷凍ストッカーに溜め込んでおく。
目的は、当時全盛を誇っていたプロレスのテレビ中継です。力道山VS木村政彦との対決。世に「昭和の巌流島」と呼ばれた、昭和29年(1954年)12月22日のマッチは、当初引き分けにしようとの打ち合わせのはずが、木村の蹴りが誤って急所に当たつたことに怒った力道山が一方的に攻撃したため、木村政彦の失神負けに終わった。この頃から、力道山人気は盛り上がり、信じられないほどのフィーバーが巻き起こった。人々はテレビ中継を見たさにお店に押し寄せてまいりました。肥え汲みのトラック通路だった横庭に椅子・テーブルを全部放り出すと、店はちょっとした広場の大きさになります。そこに街頭テレビさながらに人々がかじりつく。完全立ち見状態です。そうなれば、おちおちコーヒーを飲ませてなどやっておれません。日ごろクリームなど舐めたことも無い親父に、入場料がわりのソフトクリームを現金引換えに渡す。次々と詰め掛ける人数で、店内人いきれで大変な暑さ。おじさんたちは、テレビに夢中で、ソフトクリームが溶けるのも気が付かない。挙句の果てに、応援の手を振り回したとたんに、クリームはあらぬ方向に飛んでゆく。けれど、誰も文句の声を上げる輩はおりません。たぶん100人前後は試合中継があるときは入ったんじゃないかな。当然大人に混じっての観戦はとても出来たもんでは在りません。勿論、我々兄弟は、コーヒーカウンターに特別席を確保して、美味しくソフトクリームを頂いておりました。あのソフトクリームの味が忘れられません。力道山とルーテーズのインターナショナルヘビー級タイトルマッチで力道山が王座を獲得したのが、昭和33年(1958年)だから、当分これで儲けさして頂きましたとさ。

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 さんよう喫茶の東側から西側への移転の理由は、映画館の糞尿が原因ではないかと思う。前にも言ったように、戦後庶民のささやかな娯楽の一端を担った映画館も、建物は戦前からのもの。連日殺到するお客が、手に汗を握り、声を嗄らして歓声を上げ、涙を流すついでに、糞ションベンも盛大に盛り上げ撒き散らしてゆく。従来の汚水槽のCAPAではとてもおっつかない。3日にあげず汲み取りをしても、すぐに満杯。あげくにあふれ出して山陽横丁に芳しい匂いが蔓延する。その気兼ねもあって、確かもう明石東宝(柏木興業)に代替わりしていた映画館から、移転の依頼があったというわけ。多少の移転費用補助もあったとか聞いています。お店移転とともに出来上がった新汚水槽は深さも広さもまるで地へ潜ったプールといったところ。お店のトイレも同じ汚水槽の上にあることから親父からしきりと、便所にはまったら、絶対に助からないぞと嚇された。汲み取りの車は思いっきり大型で、その出入りにさんよう喫茶の横庭が通路にあてられたわけ。お客はそんな事情には気づかず、いい庭ができましたねと褒めてくれる。なんと返事をしていたかまでは聞いておりません。そんな事情はさておき、新店舗に移ってからの親父の発想は、これが同じ親父かと見紛うばかりの輝きを発揮することになります。
 それはちょうど、戦争が終わって、それまでにあった喫茶という業態が、人々の社交の場として、もっぱらAMERICAの文化を装ってその後20年にわたって隆盛の一途をたどっていく波に親父も乗っていつたということでしょう。ただし、その発想と努力は、人の真似を潔しとせず、最先端をきり、もちろん本業のコーヒー研究は欠かすことなく、始めたからには継続をモットーとして飽きることがない。そういった20年の戦闘開始となった。

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