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小学5年になって、材木町に家を新築移転したことから、私の生活ぶりも一転。お店には学校の帰りに寄る程度となっていたと思うが、日常の生活がどうであったかよく思い出せない。なにせ両親はお店に懸かりっきり
で、躾けなど受けた覚えが無い。映画を見て、銀幕の情報はタップリ知っているし、お店の常連客とのませた会話には長けているが、子供らしい振る舞いが出来ない。そんな問題児を同居した時から、面倒を見るようになったおしげ祖母の苦労たるや大変だったと今にして思い返す。おかずの好き嫌いは多いわ、夜更かしは当たり前、チョット目を離すとお店に行って帰ってこない。そんな坊主に一から健全な日常生活を叩き込む大仕事をおしげさんはやってくれたんだ。便所のスリッパの並べ方から、手洗いの指導まで、ほんと口うるさく構ってくれました。今、何とか恥じを掻かずにおれるのは、この時のマンTOマンの躾けのお蔭。
『さんよう喫茶』が山陽座の東側から、西側に変わることで、店の雰囲気がガラットと変わった。この店作りから、親父の喫茶センスが発揮されだしたように覚えている。なにせ店の呼び物を次々と編み出して新規客を増やさないと、常連だけのマンネリ店になってしまう。そのため頻りと大阪コペン、プランタン・神戸へ出かけては喫茶店巡りをしていた。店は映画館の構造が幸いして天井がすごく高く、おまけにそこそこの庭が付いていた。なけなしの資金を工面して、高い天井に自分でデザインしてシャンデリアをぶら下げる。入り口のドアーも最新流行のアクリ樹脂で出来た透明に近い一枚もの。これが為に何人がオデコをぶつけた事か。客席も50席はありました。かくしてこの店を舞台にアイデア・工夫の数々が繰り広げられることになりました。

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親父の口癖であった「駅前で30年店を張っている」は実際は、36年間続き、私が共に商売したのは、その後半の15年間。しかし、小学生の頃から、店が忙しい時には自然とレジに立ち、つり銭を渡すことを覚える。この時分、実際一家団欒などと言っている暇はなく、馬場写真館の奥の8畳間をネグラとして、両親は店に懸かりっきり。朝起きると、国道の向えの一膳飯屋・魚秀へ行って小飯味噌汁を買ってきて朝飯にする。夜は兄弟揃って、駅前十字路の角の銭湯・大師湯にでかけて帰りに白川で果物を買って、夜のおやつがわりにして、眠りに就く。部屋には勉強机やスタンドがある訳でもなく、砂糖の空き箱を机がわりに宿題をこなすといった日々。
休みの日は親に付き合ってさんざん夜更かしをする。親父がパチンコに行けばついて行って落ちている玉を拾い集める。ある時は、拾った玉を打ってみると、ジャンジャンバリバリ大当たり。といってもその頃はALL15とかALL20の世界でしたが、子供ごころに嬉しくて、親父を呼びに往くと、早速やって来て「俺が打ってやる」と席を取って変わる。途端に玉の出が悪くなり、バツの悪そうな顔をして引き揚げる。てなことで、その時分の心配は大きくなるまでパチンコが続いて有るだろうかとのヤキモキ。とても附属へ通うボンボンのすることじゃない。このハチャメチャのピークが今思えば4年生の階段墜落事件と符合する。まさに限界状態だったんだ。
お店を始めると同時ぐらいに妹・郁子が誕生している。母は産後の養生もそこそこに、東仲ノ町の明石酒販組合の倉庫番をしていた祖父源市・祖母しげに郁子をあずけっぱなしとなる。だから妹が歩き出したのも知らないようなこと。その上、映画館からは、お店を西側に移転してくれとの申し入れが来た。何もかもが重なって、特に子供達の養育上、これじゃあ駄目だと親父も思い切ったんだろう、申し込んでいた住宅金融公庫の抽選が当たったことから、材木町に家を新築の段取りとなりました。新居には、郁子を預けている母親の両親・源市・しげと末妹の八重美も加わって、初めて家庭らしい体制が整うこととなりました。僕の成績が目に見えて良くなったのは、墜落事件で頭を酷く打ちつけたからとばかりに思っていましたが、よくよく考えると、このタイミングーが効果を現したということだ。だが、そうなると、今までのように店に入り浸っている生活とは決別することに。山陽横丁のクラブ新宿の吉田夫婦の愛娘・可憐ななかちゃんともとんかつ弁慶の同級生でもある喜世江ちゃんとも遊べない。

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コーヒー茶碗6ケ、紅茶茶碗6ケをやっと買い揃えての開店であったが、ハイカラお洒落な親父にはうってつけの仕事ではなかったか。明石では、当時
国道筋向かえに有名店喫茶「コマドリ」があり、なんとか常連客をつけて経営を安定させたいと努力した。魚の棚の旦那方、大明石町のあった青果市場の方々、競輪の予想屋の天狗のおじさん。ヤクザヤさんの藤原氏。キャバレー経営の小西さん。多士済々が出入りする。当然僕もレジカウンターに立って、おじちゃん5円お釣りとかやって手馴れたものです。コーヒー一杯20円から知っています。明石公園に競輪場が開設されたのが、昭和25年(1950年)4月400MのBANK。明石駅裏から競輪場までの坂を鈴なりの人を乗せてバスがあえぎながら往復ピストン運転をしておりました。そのころ、土佐・須崎の爺さん婆さんが明石にやって来ましたが、親父は店が忙しくて相手になってやれない、そこで競輪にでも行ってきたらと気がるにおくりだした。ところが、これがビギナーズラックと言おうか、そこそこ大穴を当てちゃった。さあ爺さんの喜ぶまいことか。・・これが仇になって、爺さんの競輪通いが始まった。よせば良いのに、国に帰ってからも、須崎からわざわざ高知に出かけては、産婆をやっていた末子伯母に小遣いをせびってはスッテンテン。終いには家を継いでいた良幸伯父に内緒で、先祖から受け継いで唯一残っていた墓山まで売り飛ばして、92歳で亡くなるまぎわまで競輪に通った。根性あるなあ。もともと山っ気があるが、博才にはからっきし恵まれていなかったということ。一方政婆さんは、土佐の古い民話を沢山知っていて、柴天から河童人隠し、お化けの話と土佐弁そのものでの語り口で話は尽きない。煙管の刻み煙草をほんとに美味しそうに燻らしながら、まだまだお話はあるぞねと、飽きることが無い。政婆さんは、情の篤い人で、信太郎爺さんがわりとアッケラカンとしていたのとは違って、例えば須崎の実家から帰る際にも、川端の柳の下で手を上げて、私たちの姿が見えなくなるまで佇んで別れを惜しんでくれた人でした。親父も婆さん子で、しきりと甘えていた。店には、大型蓄音機とSPの分厚いレコード集。それもクラッック中心で、ベートーベンのブラームスのと、大曲アルバムばかり、一曲聴くのに裏表10枚は針を落とさないと終わらない。ご近所のお付き合いにもマメで、少し店が流行って楽になると、とくに麻雀が好きで店と東映映画館の間を通るションべン横丁にあった雀荘に入り浸り。私も雀荘に付いていって卓の側で牌を積んだり崩したりして遊んでいたが、タオル鉢巻でチーのポンのとやっている姿を見ているからか、未だに麻雀の遊びそのものが分からない。それも何度か手解きをうけても頭に納まらない。多分やればとことんのめり込むかもしれないとの自制が働いてのこと。だから私は、これ以後親父がはまった、
女遊びにもゴルフ狂いにも近づく事はありませんでした。???

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2cd7d981.JPG学校の思い出はあまり浮かんで来ないが、この映画館街での暮らしは色々思い出す。そのころの国道2号線にしても、今では考えられないぐらい車の通行も少なくて、悠々とローラースケートを履いてアスファルトの上を走りまわる。お互いが車が来るのを見つけると、車が来るぞと教えても十分退避する余裕がありました。一方映画館といえば戦後庶民の唯一の娯楽の場として大盛況。チケット売り場では、お札の束をみかん箱に足で踏んづけていれてもまに合わぬぐらい。立ち見などは常識で、連日満員御礼。たまにスターの実演挨拶などあろうものなら、一目見ようとする人波に押しつぶされそうになる。銀幕では、あらかん(嵐寛寿郎)の鞍馬天狗が大活躍。杉作(美空ひばり)危うしとなれば、全館「へんしも速よう」との大合唱が沸き起こる。これが不思議と倉田典膳は間にあうんだ。ほんと国民は純情だったんですね。夏休みともなると、3本立てナイトショーまで始まる。それこそ勉強どころではない。かなり入り浸ったんだろうな。名画といわれるのは、ほとんどこの時代に見ています。もう少し年をとってからは、専ら白鳥座とまだ駅前にあった日活の洋画ばかり見ておりました。そんな訳で、小学校の夏休みの自由研究は、満員の映画館の中で拾い集めた、明治キャラメルの箱に印刷してある動物百科を画用紙に貼り付けて提出。かなり要領をカマシタもんです。天然色映画が始まったのは何時のころなのか。最初は部分天然色と言って、「ミッドウエイ海戦の戦闘部分の実写に、あとで色づけしたものだったように覚えている。たしかテク二カラーと言ったんじゃないか。「慕情」のLOVE IS A MANY SUPURENDAR THINGを覚えたのも、「グレンミラー物語」を見てTROMBONEが気にかかったのもみんな映画のお陰。戦後映画文化に一番影響を受けた一人ではないかと自負しています。

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54b7253b.JPGかくして始まったはずの小学校生活。特に低学年の1・2年時代については殆ど記憶が飛んでしまっている。毎日早起きして登校していた筈が、いつも、明石神社の西、学校が見下ろせる、くの字坂に差し掛かると、すでに校庭では朝のラジオ体操が始まっていました。給食の時は何故か器を持参しておらず、半紙を貰っては、コッぺパンだけ食べていたように思う。
後に、母親にそのことを尋ねると、そんな馬鹿な。ちゃんと起こして、給食の器も持たしていたと言い張る。何故そんなことを覚えているのだろうか。学校では騒いで言うことを聴かないでいると、確実に石井三郎担任が首にぶら下げているホイッスルの紐の端を持って振り回し、神業なみの手練で我らが脳天に一発お見舞いする。ほんとこれは痛かった。それと学芸会の当然その他大勢で狸の役になり、頭に被るお面を作るのを、当日の夜に思い出して、親父に泣きついたところ、一晩かけて作ってくれたお面は、明らかにマンガの狸顔。他の皆はリアルな狸顔。変に目立って恥ずかしかったこと。お店が始まると、母親も手伝いに駆り出され、わが兄弟の生活の場も『さんよう喫茶』を中心に生活するようになった。前にもふれたように、この店の所在地が追手町で、今賑わっている魚棚街とは国道2号線で南北に区切られている。そのころはまさに駅前立地でありました。
お店の東隣に馬場写真館なる腕の良い写真屋さんの奥の8畳間を控え室にして、兄弟がほたえているのが何時もの有様。そうでなければバヤリースジュースを1本抱えて、隣の映画館の最前列に陣取って同じ映画を何度となく見ているうちに眠ってしまう。特に弟・啓三はたいがいこのパターンで、終演となると、毎夜のように前列でねむっているのを、起こしにゆく。映画館は西から、明石松竹・明石東宝・明石東映・白鳥座(洋画専門)日活と5軒を数え、どの館も顔パス、出入り御免となっておりました。特に、明石東宝などは自分の家のようにおもっていました。もう少し年を食ってから、絶対的存在の、何でも言うことを叶えてくれると信じていた親父に、人間死なずにおれるようにしてくれと頼んだ時に、それだけはどうにもならぬと告げられたことと、映画館は人のものと知らされたことほどショッキングーなことは無かったなあ。

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