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今日の日経夕刊の文学周遊に大岡昇平「堺港攘夷始末」の記事あり。慶応4年2月十五日(1868.陽暦3月8日)午後4時頃、フランス海軍の乗員が堺の港を測量するため上陸した。これに対し攘夷の意気高い海岸警護の土佐兵が発砲。結果11名を死亡させた。この事件は森鴎外の堺事件によれば、その報復として堺の妙国寺での20人の土佐兵の切腹に立ち会ったフランス公使はあまりの残酷さに取り乱し、12人目で逃げ出した記述しているが、大岡昇平はフランス兵死者と同数で制止したにすぎないと書いているとある。これは是非「堺港攘夷始末」を読んでみなくてはと思ううちに、神戸事件にても同じような相反する事実が伝えられているのを思い出した。たしか、通説では、備前藩の砲術隊長瀧善三郎が騒動の責任を取って、従容と切腹の座についたとのことに対して、一方、なかなか納得せぬ瀧を無理やり座につかせ、間際にお上からの許しを得るようにすると言い聞かせながら、それが無理となると、息子に本藩の士分に取り立てお家安泰とすることと引き換えに
扇子腹を切らせたとの説もある。・・・このような歴史の迷路に入り込むと、なかなかぬけだすことは困難を極める。とくに堺事件の場合は、士卒73人を一人づつ呼び出して、射撃の有無を問いただしている。この尋問は、兵の勇怯を試みるとおなじでなかには撃っていなくとも撃ちましたと答えたものもいただろうに。責任有りとされた者はその数29人でありました。そこで隊長・小頭の4人を除いた25人から、切腹する下士16人を籤で決めたと伝えられている。切腹を許されたことを武士の名誉と喜ぶものばかりと伝えられてはいるものの、切腹をのがれた9人のその後はやはり糸の切れた凧のような身の上がまっていたそうな。・・・時代の波に飲み込まれていった我が郷土の犠牲を忘れてはなりません。と同時にことの真相を究める姿勢を亡くしては、この歴史上の教訓を無駄にすることになり、同じ過ちを繰り返すもとになるに違いない。いや日本の歴史はこれと同じ過ちの繰り返しではないのかな。

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