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 経高は、康保(こうほう)2年12月2日、年74歳で没した。この時の士民らの悲嘆は誠に深いものがあった。
その為、領内至る所で読経の声のみ高らかに響いていた。
実に須崎の浦に経高が姿を現してから53年の永い年月が経ったものであって、その間に成し遂げた開拓統治の功は着々積み重なり、士民等は慈父のように慕っていた。
その亡き屍は、等明王寺に丁重に祀られて、常明院といい、香崋の絶える間が無かったと言い伝えられている。
経高の後代にはその他別して記するべき事は無いが、天慶年間に平将門の乱があった。
将門は桓武天皇より出て平良将(よしまさ)の子であった。自分が検非違使たらんことを求めたが、藤氏の門閥政治のために用いられないことに憤どうって、関東一帯を攻略し、下総の相馬郡に居場所を占めてここを都と称し、自らを平天皇と号した。
この将門の乱と時を同じくして藤原純友率いる海賊集団が瀬戸内海を中心に暴れ回ります。
藤原純友は、伊予の国の国司並として赴任した後、土着して力を蓄え、海賊を支配下に置き、船で運ばれる朝廷への貢物や私物等を奪い、神出鬼没の海賊行為を繰り返していた。
なお939年(天慶2年)になると、その活動範囲は紀伊から摂津、北九州。土佐にまで及んだ。
とくに幡多の辺りは兵火を浴び騒擾の極みであった。
この時、津野氏は藤原姓であることから、純友を助けたんではないかと考えられるが、事実は之に反して、既に津野氏は正邪名分のなんたるかを弁え、之に抗して散々に害を蒙った。



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 武田勝頼土佐の会によれば、かの武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」は定説では天正10年(1582年)天目山で自害したとされているが、高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ち延びたとする。
その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後名前を「大崎玄蕃」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(1609年)8月25日64歳で没し、鳴玉神社に葬るとの記録があるとのことだ。
丁度今年は没後400年の年に当たり、伝えられる玄蕃踊りや玄蕃太鼓を催して勝頼を偲ぼうと盛り上がっている。
その勝頼の長男信勝は津野町に入り、大崎五郎と名乗り、葉山を流れる川を甲斐の川と名付け(現・貝の川)、玄蕃踊りを広め大崎神社を勧請したという。
津野の地での恩義からか、天正13年に長宗我部元親が秀吉の四国征伐に敗れて、土佐一国のみの領有を許された際、元親の3男津野親忠が人質として差し出されたのに御家人として信勝が付き従ったとされる。
関ヶ原の合戦直前に親忠が盛親に詰め腹を切らされたのちも、一族が大阪夏の陣に馳せ参じたとの話も伝わっている。我が一族と意外や武田との濃厚な繋がりが有ったかも知れない。
これも歴史のロマンと言っていいんだろう。


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 こうして経高は津野の庄の領主として、1千町を有する身となったので、先ず如何にしてこの土地を開拓し、如何にして人民を統治して行こうかと考えた。自分の領地を良く開拓統治して繁栄せしむるのは自分の責任と言える。
この大責任を我々の力だけで叶えられるのか。自身は知識も思慮もない人間である。とくに、先般には一大事を企て、たちまち破れてしまったのは考えの浅い我であったせいである。
そのような身で如何にして、この重責を全うすることが出来るか悩んだ末に、こうなればもう神に頼る他は無く、神の命じられるままに働くより他は無いと考え付いた。
そこで、京都愛宕郡の鎮座まします霊験誠に顕たかな上鴨大神宮を勧請して、津野の本庄に、賀茂大明神の社を建立し、朝夕、拝礼を怠らなかった。
元来この上賀茂神社の祭神若雷命(ワカイカヅチ)は、鴨建角身命(カモタケツノミノミコト)の御子であり、皇国の基礎を固められた神武天皇の御東征の途中、紀州の熊野より、大和にお入りになった際、道険しくその上方角も分からないなか、皇師は非常に疲労して天皇も士卒も一時は途方に暮れていた。
その時、高木神(タカキノカミ)はヤタガラスを使いとして軍の先導せしめられたので、なんとか大和にお入りになることが出来た。
即ち、このヤタガラスと言うのは、鴨建角身命の事であって、中州(チュウシュウ)平定後、天皇は命の功績を賞せられて土地を賜うたとのことが、古事記傳に記されている。
ことに、若雷命の御母は、海神の化身である玉依比賣(タマヨリヒメ)である。
このようなことから、津野の庄も中州が平定されたように、次第次第に開拓されんことを祈って、今の多ノ郷(オオノゴウ)村鴨宮に鎭祭し奉ったものらしい。
この時、経高は神田として8町歩を寄進し、神官社人80人も配し年中厳重に祭祇を絶やすことがなかった。

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 領主から許可を得た経高は、家臣を率いて、津野村の床鍋に移り、永住の地と定めたが当時この地は山又山の狭間にある深い谷間で、生活に必要な衣食の道にさえ困難する位であって、このままでは到底永く止まることが出来ない。しこで経高は自ら先頭に立って家臣群と雇い入れた土民等を指揮して、それこそ日夜、深山荒地の開拓に従事した。その結果、延喜18年になって漸くのこと約480余町歩の開墾地を得ることが出来た。
そこで、村を作り、住民を呼び迎え居城を築いた。
もともとこの地には今まで名前が付いていなかった。そこで何とか名を付けようと思案したが、なかなか之と言うべき名も思い浮かばない。
兎に角、思案に暮れているうち、ふとこの山に梼の木が非常に繁茂していることに気が付いて、遂に梼原と命名した。
朝廷にこれらの事が聞こえたのでしょう、翌延喜19年には経高をして上洛を促す勅が下った。
そこで、取るものも取り敢えず上京してみると、天皇は、経高が全く前非を悔い、改心して、十分に謹慎していることを嘉みされて、結果津野庄、1000町歩を賜るという恩命に浴した。
この時の経高の喜びは大変なもので、天恩の有難さに感泣し、御前を退くとともに、その山内姓を改めて、津野氏と称することにした。
このようにして、天下に五尺の身の置き所も無く嘆き悲しんでいた経高は、ようやく天日を拝する事が出来るようになったことを喜び、欣喜して帰国の途についた。

【今、龍馬脱藩の道を訪ねる人々でごった返す梼原の地を開いたのが我が先祖とは、少し誇らしくて、小声でエッヘン。】

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 さて、この経高は如何なる人の子孫で、如何なる罪を犯し、また、如何なる理由で土佐にやって来たのか。
之について遡って述べると、、そもそもこの山内蔵人経高は、藤原氏の出であって、祖先はかの有名な大職冠藤原鎌足公であります。この鎌足公の孫に、北家を立てた房前大臣がいて、北房前の曾孫が冬嗣、冬嗣の孫は基経で、その子が仲平である。
この仲平は、従二位左大臣となり枇杷大臣と号した。
この後、子孫の名は殆ど知られていない。
枇杷大臣の子は左衛門佐経實で、経實は、越前國今立郡山内に居住して、元慶三年に卒した。
その子が蔵人経高である。父の時代から山内に居住していたから地名を氏として山内蔵人経高と称した。
時の帝宇多天皇は、藤氏(藤原一門)が威権を専らするのを憎み、その勢力を殺ぐのに力を入れられた。
この事から、経高のような藤氏支流の者は当時非情な圧迫を受けた。
近頃まで『藤氏にあらざれば人にあらず』とまで言われるほどの時世に生まれながら、このような迫害を受け、世の不遇を嘆いていたが、その恨みは遂に恐るべき謀反を企むまでになった。
しかし、その謀み意の如く成らず敗れ去り、播州高砂浦で捉えられてしまった。
その後、伊予の國に流されて、道後の城主、河野四郎直實の監視下に置かれることとなった。
即ち、浮穴郡河上ノ庄、山内谷の獄舎に3年もの間閉じ込められていたが、宇多法皇の勢いが陰りを見せたため、直實は謹慎している経高を不憫に思っていたので、家臣・前田主殿、市川隼人の両人に命じて、その頃京都の三条に侘び住まいしていた経高の妻、高殿の宮を迎えに行かせた。
暫くは経高と高殿の宮の二人を三坂の城に住まわせていたが、まもなく経高主従10数人を土佐の國須崎に逃した。

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