書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
このような状態で、須崎の土民等が、有力な城主を得んとする心は、丁度干天に雨雲を望むに近いものがありました。人々は寄ると触ると、その話ばかりしている様な所に、その願いを聞いたかのように経高一行が現れた。
その様子を観察してみるに、どう見ても尋常一様の人とは思われず、天晴城主として仰ぎ奉るのに何の不足も無い。人々は『天がこの人をして、城主に降して下すった』と思い、言葉を尽くしてその願いを伝えた。
一方、その申し入れを受けた経高は、不肖の身を持っては受けがたいと再三固辞した。
然し、人々は中々承知しないどころか、終いには全員が地に伏してなお嘆願を続けた。
そこまでされてはさしもの経高もただ固辞するだけでは済まなくなって、己の身の来歴を語らねばならないようになった。
止むなく、『私は、罪を受けている者であって、この天地に身を置く所も無い日陰者で、城主となるのは天子様に対し奉り、誠に恐れ多い事であるから、その事だけは思い止まって貰いたい。逆に我々から折り入って頼みたい事があって、それは外でもなく、この土佐の国は、遠国であることから、とくに都へは船路によるしかな土地であることから、身を秘す上では好都合のところである。そこで我々は先ず床鍋に入って庵を引き結んで侘び住まいをしようと
思うから、悪しからず、国主に願って欲しい』旨を申し出た。
人々は、この話に耳を傾けていたが、一一理があるので、終いにその願いどうり、国主に頼み、床鍋にその住居を定められるよう力を尽くした。
国主も人々の願いを聞き入れこれを許したので、経高は、ここに安棲の地を得た。
かくして津野700年の基礎を定めるに至った。
その様子を観察してみるに、どう見ても尋常一様の人とは思われず、天晴城主として仰ぎ奉るのに何の不足も無い。人々は『天がこの人をして、城主に降して下すった』と思い、言葉を尽くしてその願いを伝えた。
一方、その申し入れを受けた経高は、不肖の身を持っては受けがたいと再三固辞した。
然し、人々は中々承知しないどころか、終いには全員が地に伏してなお嘆願を続けた。
そこまでされてはさしもの経高もただ固辞するだけでは済まなくなって、己の身の来歴を語らねばならないようになった。
止むなく、『私は、罪を受けている者であって、この天地に身を置く所も無い日陰者で、城主となるのは天子様に対し奉り、誠に恐れ多い事であるから、その事だけは思い止まって貰いたい。逆に我々から折り入って頼みたい事があって、それは外でもなく、この土佐の国は、遠国であることから、とくに都へは船路によるしかな土地であることから、身を秘す上では好都合のところである。そこで我々は先ず床鍋に入って庵を引き結んで侘び住まいをしようと
思うから、悪しからず、国主に願って欲しい』旨を申し出た。
人々は、この話に耳を傾けていたが、一一理があるので、終いにその願いどうり、国主に頼み、床鍋にその住居を定められるよう力を尽くした。
国主も人々の願いを聞き入れこれを許したので、経高は、ここに安棲の地を得た。
かくして津野700年の基礎を定めるに至った。
PR
そこで、時の鳥越城主某は、このままに捨ておいては、如何なる大事に至るかも知れないと考えて、軍勢を仕立てて、鎭定しようと努めたが、なにしろ彼等は無慚の兇徒で、そのうえ行動の敏速なこと比類なく、まさに出没自在の有様でありました。
南に居るかと思えば、北に現れ、領主の軍は不意を襲われて陣を立て直す暇もなく破れた。
その手ごたえから領主の軍が脆いと知ると、賊は脱兎の勢いで逆襲し、遂には領主を殺してしまうと言う有様。
暴徒は之に乗じいよいよ勢いを増して、その毒牙は至るところに及び、ますます凶暴となり、須崎の人心はその影を見ただけで戦慄し、一日として安らかに暮らすことが出来ない有様でした。
その為、須崎一帯は荒野と化してしまうのではないかと思われる程の暗黒の時代でありました。
このような状態で、須崎の土民等が有力なる城主・指導者を得たいとする心は、ちょうど干天に雨を乞い望むかのようで、寄るとさわると、その話のみをしていたところに、ちょうど来合わせたのが経高主従一行であったというわけです。
南に居るかと思えば、北に現れ、領主の軍は不意を襲われて陣を立て直す暇もなく破れた。
その手ごたえから領主の軍が脆いと知ると、賊は脱兎の勢いで逆襲し、遂には領主を殺してしまうと言う有様。
暴徒は之に乗じいよいよ勢いを増して、その毒牙は至るところに及び、ますます凶暴となり、須崎の人心はその影を見ただけで戦慄し、一日として安らかに暮らすことが出来ない有様でした。
その為、須崎一帯は荒野と化してしまうのではないかと思われる程の暗黒の時代でありました。
このような状態で、須崎の土民等が有力なる城主・指導者を得たいとする心は、ちょうど干天に雨を乞い望むかのようで、寄るとさわると、その話のみをしていたところに、ちょうど来合わせたのが経高主従一行であったというわけです。
ここで、少し当時の須崎地方がどれ程暗黒な様子であったか詳しく話してみよう。
そもそも延喜時代を記した各種の書物を総合してみると、『醍醐天皇は、道真を貶すという失敗はあったものの、素は英明な主上でありましたから、御心を政治に注がれて、慈仁の御行多く、また奢侈を禁じて、風俗を引き締められたので、海内よく治まって、人民は皆その業に安心をし、腹いっぱい食して楽しんだ』と有る様に、時風、枝も鳴らさぬほど穏やかな御代と讃えられるほどで、その他あらゆる、詩歌文書等を確かめてみても延喜の治を天暦の治とならべて、天下泰平の極みと賞賛し、その時代を過ごした人を羨んでいる。
しかし、これは中央即平安(京都)付近のことで、それ以外の地方に至っては、この恩澤を蒙ったのは、上流階級の社会のみであって、中流下層社会には殆ど及ぶことはなかった。
ましてや、国府から遠く離れた地方では、随分と強盗・大賊が横行闊歩しているところが多く有って、その為人々は塗炭の苦しみに遭って居りました。
この地須崎もご多分に漏れず、浮流の徒が至るところに出没し、腕力のある者は、力に任せて、近郷近在を略奪し、徒党を組んでは、町家に押し入り、家財道具は言うまでもなく、これに抵抗する者は片っ端に殺戮するというような有様で、人々はこの状況に恐れ慄いておりましたが、後難を恐れる余り、誰もこれを懲らしめようとするものもおらず、この事を領主へ訴えようとするものさえいなかった。
その為、ますます村民に対し、乱暴狼藉の限りを尽くしたので、世は之で終わりはしないかと思われる程無政府状態となっていました。
今からおよそ1千年の昔、世の中は泰平の瑞雲たなびくと賞された醍醐天皇の御代。延喜13年3月3日、都は春酣の桃の祝いに色めき立って、君恩のますますの深さに感じ入る。土佐の片田舎にさえ今日ばかりは、戸島も眠るが如く、入江の波も、千代の譜を讃えて、人々老いも若きも、祝い酒のほろ酔い気分で、太陽の暮れゆくさまを惜しんでいる黄昏時。伊予の方から、10余人のこの地では見かけない姿をした人々を乗せて、ここ須崎の港に着いたあやしげな一艘の小舟がありました。
これを見つけた須崎の土民達はその見慣れぬ姿形に、驚いて叫び声をあげたり、汚く罵ったりとの大騒ぎ。
その噂はたちまち人から人へと伝わって、みるみるの内に海岸には人の山が出来、その誰もが疑惑の目を凝らして観察するが、その人々の言葉使いや、起居振舞いにも、なにやら自ずから気品があって、物盗り・海賊の輩とも見えない。
魯櫂以外の仕事の他には生きる術を知らない荒くれ漁師の眼にも、ただ人では無いように思われて、やっとのこと安堵の眉を開いた。
舟の人もまた喜んでいる様子で、たちまち両者に意志の疎通が出来、土民側の代表者が、10余人の中の首領らしい人の前に出て、腰をかがめ、大変丁寧に挨拶をし、早くも須崎地方の状況を説明し、鳥越城主となって、この地方を統治して欲しいと願い出た。
この首領と目された人こそ、藤原鎌足の末葉、山内蔵人経高主従の流離の姿でありました。
これに付き従う人々は、渡邊源蔵吉綱、宇津宮石見守景貞、那須源太郎宗則、板坂山城守高備(たかなり)、平井小源吾、和田河内守、下元豊後、市川佐渡守、高橋志摩介、乾但馬守の10名で、山内家の股肱の家臣たちでありました。
これを見つけた須崎の土民達はその見慣れぬ姿形に、驚いて叫び声をあげたり、汚く罵ったりとの大騒ぎ。
その噂はたちまち人から人へと伝わって、みるみるの内に海岸には人の山が出来、その誰もが疑惑の目を凝らして観察するが、その人々の言葉使いや、起居振舞いにも、なにやら自ずから気品があって、物盗り・海賊の輩とも見えない。
魯櫂以外の仕事の他には生きる術を知らない荒くれ漁師の眼にも、ただ人では無いように思われて、やっとのこと安堵の眉を開いた。
舟の人もまた喜んでいる様子で、たちまち両者に意志の疎通が出来、土民側の代表者が、10余人の中の首領らしい人の前に出て、腰をかがめ、大変丁寧に挨拶をし、早くも須崎地方の状況を説明し、鳥越城主となって、この地方を統治して欲しいと願い出た。
この首領と目された人こそ、藤原鎌足の末葉、山内蔵人経高主従の流離の姿でありました。
これに付き従う人々は、渡邊源蔵吉綱、宇津宮石見守景貞、那須源太郎宗則、板坂山城守高備(たかなり)、平井小源吾、和田河内守、下元豊後、市川佐渡守、高橋志摩介、乾但馬守の10名で、山内家の股肱の家臣たちでありました。
龍馬街道と名付けて佐賀関に上陸。その夜の宿を別府温泉にとるべく別府湾岸を走行中、確かこの辺りに我が津野一族最後の津野親忠の悲惨な最期を招いた原因となる戸次川古戦場があるはずと、川を渡るごとに川の名前を確かめた。
結局、新日鉄大分製鉄所が面する大野川を確認したのみで戸次の名前は見当たらなかった。
帰宅して真っ先にこの戸次の地理を調べた。
なんと、大野川の流域の内、戸次庄を流れる当たりを戸次川と称したとある。
戸次庄辺りには戸次川古戦場の名残も有り、長宗我部信親の墓も立派に守られている。
元親・信親親子を守って奮戦するも土佐の精鋭700が殲滅された。他に豊臣軍2000が島津家久の釣り野伏せの奇計に嵌り、この頃の合戦でも屈指の犠牲者を出した一戦とされる。
もう少し事前に詳しく調べておればと臍を噛む。
信親がこの合戦で死ななければ、長宗我部の後継者として、歴史に残る名将の名をほしいままにしたと言われる出来星だったと言われる。
まして元親の失意による人変わりもなく、関ヶ原の合戦での旗色を現す判断も間違えることなく、ましてや盛親がはやまって家康による一国取り上げの理由とされた津野親忠自刃も起こるはずもなく、時代は下って幕末、土佐から草莽も起こらず、龍馬も出現すべくもない。時代は大きく違ったものになっていた筈。
誠に、津野にとっても、土佐の民人にとっても痛恨の一大悲劇となった戸次川合戦。
さて、また訪れる機会があればよいが。

結局、新日鉄大分製鉄所が面する大野川を確認したのみで戸次の名前は見当たらなかった。
帰宅して真っ先にこの戸次の地理を調べた。
なんと、大野川の流域の内、戸次庄を流れる当たりを戸次川と称したとある。
戸次庄辺りには戸次川古戦場の名残も有り、長宗我部信親の墓も立派に守られている。
元親・信親親子を守って奮戦するも土佐の精鋭700が殲滅された。他に豊臣軍2000が島津家久の釣り野伏せの奇計に嵌り、この頃の合戦でも屈指の犠牲者を出した一戦とされる。
もう少し事前に詳しく調べておればと臍を噛む。
信親がこの合戦で死ななければ、長宗我部の後継者として、歴史に残る名将の名をほしいままにしたと言われる出来星だったと言われる。
まして元親の失意による人変わりもなく、関ヶ原の合戦での旗色を現す判断も間違えることなく、ましてや盛親がはやまって家康による一国取り上げの理由とされた津野親忠自刃も起こるはずもなく、時代は下って幕末、土佐から草莽も起こらず、龍馬も出現すべくもない。時代は大きく違ったものになっていた筈。
誠に、津野にとっても、土佐の民人にとっても痛恨の一大悲劇となった戸次川合戦。
さて、また訪れる機会があればよいが。
カレンダー
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
リンク
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(12/10)
(03/07)
(09/29)
(07/06)
(03/22)
最新TB
プロフィール
HN:
つのしん
HP:
性別:
男性
職業:
企業向不動産仲介・企業立地
趣味:
ボランティア活動
自己紹介:
ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(03/08)
(03/12)
(03/12)
(03/16)
(03/23)
カウンター