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 このとき島津軍は城の囲みを解いたが、それは慎重な戦術的後退に過ぎなかった。秀久の強行策は釣野伏せの策にまんまと嵌った。
家久は戸次庄の野原の中央に陣し左翼と右翼に遊撃部隊を配置して、四国勢が渡河を終えるのを待ち構えた。
渡河に難なく成功して油断した四国勢に、左右の遊撃隊が鉄砲を斉射した。
たまらず算を乱した四国勢の前に槍隊、つづいて騎兵隊が突撃して来た。
この壊滅的戦場を真っ先に離脱したのは秀久だった。指揮系統など有ったもんではない。たちまち四国勢は崩壊浮足立つ。
この乱戦の中で踏み止まったのは元親、信親の長宗我部軍だけとなった。
釣野伏せの策に嵌った白兵戦。長宗我部兵は血しぶきを吹き上げて倒れた。
元親と信親は川岸での合流を約し、じりじりと後退していったが、ついに父子は散り散りになった。
元親を逃がすために、七百余の兵が敵の前に立ちふさがり、討ち死にした。
供回りがわずか十数人になった元親は、やっと川岸まで逃れたが、信親の姿はない。
血まみれの近習が駆けてきて、信親の戦死を告げる。
もはやこれまでと腹を切ろうとした元親を、供回りの者達が身を挺して護り、からくも戦場から逃した。
元親にとって信親を戦死させ、初めての屈辱となった敗戦は、島津の釣野伏せによっtれもたらされた。
だが長宗我部家にとって戸次川の敗戦は、家臣を二つに割る悲劇の始まりでもあった。

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 稀代の『梟雄』元親が人、変わりしたのは、秀吉の九州征伐(対島津家久)の際の戸次川合戦敗戦による。
それは元親をはじめ四国軍が、島津軍に釣り野伏せを仕掛けられ壊滅的な敗北を喰らった戦でした。
天正14年(1586)12月。
日本列島の中原をほぼ制圧した秀吉は、九州進撃を考えた。その対抗戦略として島津家久は、九州全土を併合しようと精兵2万を率いて北上した。
豊後(今の大分地域)に侵攻した島津家久が、まず襲ったのが、大友宗麟系の鶴賀城である。城主の利光鑑教(かねのり)が戦死して落城間近であったが、島津軍に鶴賀城を奪われると、秀吉の九州征討の大きな障害となる。もちろんこの事態を秀吉が赦す訳がない。
秀吉は讃岐領主の仙石秀久を軍監にして、長宗我部元親と十河存保(まさやす)の四国勢に出陣を命じた。元親は長男信親を軍陣に加えて、鶴賀城救援に向かった。
信親は二十二歳、身の丈は六尺一寸(約1.85メートル)の屈強な若武者である。
3尺5寸(106㎝)の長刀を振るい、勇猛果敢な後継ぎを元親は信頼していた。
戸次川の対岸に屹立する鶴賀城を観望しつつ、四国勢は軍議を開いた。
対岸に島津軍の姿は見えない。物見を放っても敵兵の影すら認めない。
その知らせを受けた軍監の秀久がー即時、渡河攻撃 を主張した。これに存保も同意。
一方元親は長い戦の経験から慎重策を口にした。四国勢は6千で兵力不足であり、秀吉本軍の出陣をまつべきであると。
だが島津軍の姿が見えず、功に逸る秀久は、軍監の立場を押し通して、渡河進撃を決定した。四国勢は戸次川の浅瀬を渡り、川岸に沿う戸次(へつぎ)庄の野原に向かった。



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 盛親の親は長宗我部元親。この一代の英雄の晩年、それまでとは人変わりしたような事態が続く。
元親には4人の男児あり。信親・親和・親忠・盛親の内、長男信親は信長より信の字を賜るなど元親期待の後継ぎでありました。
信長がまだ四国に関心を払う余裕なき頃、元親が願って四国切り取り勝手の朱印状を貰い四国制圧に乗り出します。
ところが「天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫るが、元親はこれを拒絶する。このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受け、天正10年(1582年)には神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。この元親に対する信長の政策転換が、彼との外交を担当していた明智光秀の心を苦しめた為に本能寺の変に至ったという説もある。ともあれ、信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。」WIKIPEDIA引用
この中央における政権交代劇の際にも土佐・四国の立地から独り孤高を保ち、なお虎視眈々と中央をも狙う構えをとり続けます。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉からの伊予、讃岐の返納の命令を断ったため、秀吉の弟羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抗戦する。

秀吉は宇喜多秀家らを讃岐へ、小早川隆景吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣谷忠澄の言を容れて7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
この間、元親は秀吉に対抗すべく家康・根来・雑賀と手を組み、秀吉包囲網を画策する。これにより秀吉は急遽家康と和睦して長久手の戦を終結させねばならなかった。
何はともあれ、秀吉により永年に渡り駆けずり廻って切り取った努力が水泡に帰す結果となった。
しかし、戦国の倣いからして、このような事態で本領安堵に落ち着いたのは、やはり元親の武将としての器量を秀吉も認めざるを得なかったためでしょう。


 

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 戦国の武将に見る危機管理。即ち一国の命運を左右する切所に懸かった際の決断が結果を如何左右したか。
その典型と思われるのが、天下分け目の関ヶ原合戦に参じた土佐・長宗我部盛親と薩摩・島津義弘の身の処し方でありましょう。
両者とも石田三成の西軍に属す羽目となり、南宮山に布陣したが、宇喜多の裏切りに遭い、東軍勝利と見極めると、それぞれ6000余の家臣団を死兵と為して、中央突破してそれぞれの国に帰着した。
同じ西軍に属し、緒戦より伏見城攻略などで活躍しながら西軍本流からは遠ざけられ、最終自力で戦場脱出を図った。ほぼ同じ行動を採ったわけだが、その後の対家康に対する敗戦処理策で大きく違った。
島津はまず今回の参戦は義弘が勝手に行ったことで、島津は関わり知らぬと主張し、家久・豊久親子は尚国境を固めて籠城抗戦の姿勢を示した。
一方、盛親は国に逃げ帰り家臣の意見をまとめて家康への恭順を示し、井伊直政を通じて、せめて半国安堵を申し入れ、それものこのこ大坂へ出向いて行った。
結果、生き残ったのは徹底抗戦策の島津が生き残り、盛親は命と引き換えに一国を召し挙げられてしまった。
家康が一番恐れたのが島津であり、土佐には腹心を入国させてその抑えにするという構想は関ヶ原の前から決めていた仕置だ。そこで何とか盛親の落ち度が無いものかと苦慮していたところに、籐堂高虎から兄である津野親忠殺しの報がもたらされた訳で、これ程悲運な武将も珍しい。
その危機に際しての盛親の判断過程を検証すると、誠に乏しい情報しか持ち合わせなかった所に最大のミスが生じている。


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 世の中今や龍馬本が溢れていて、土居晴夫先生に言わせれば、昨日まで新撰組を書いていた連中が、皆して龍馬本を出している状態です。
ざっと立ち読みして面白い内容が書いてあればと思い手に取ってみるが、ほとんどが受け売り、孫引きの域をでない。これで金が取れれば苦労はしない。
そんな中、歴史群像スペシャルという一見グラフィックな雑誌の表紙に『特集・長宗我部元親と一領具足たち』とあった。
勿論、本命は『風雲児こんな男そうはいない!坂本龍馬・新しい日本を創造した不出生の雄』と賛辞てんこ盛りの総力特集であります。

たいがいの龍馬雑誌を見てきたが、長宗我部元親と並べて書いている物は見たことが無い。
心中、もしやと思いページを繰る。
岡豊の姫若子と呼ばれた元親の生涯を①土佐統一②四国平定③秀吉来寇すとあって、④関ヶ原から大坂出陣への章で、お目当ての文章が、事実がありました。
無断引用『関ヶ原での戦闘終了後、盛親は立石助兵衛と横山新兵衛の二人を使者に立て、かねて懇意の井伊直政を介して家康に謝罪した。さらに盛親自身が上坂して謝罪したものの、帰国後に寵臣の久武親直の勧めによって兄の津野親忠を謀殺したことが家康の逆鱗に触れ、土佐を没収されてしまうのだ。』

この事により土佐を受け取ったのが山内一豊であり、ここに土佐の上士と下士(長宗我部遺臣・郷士)というまれにみる厳しい身分制がひかれる事になった。
そして、この250年に渡る鬱憤が幕末・草莽のパワーを生み出す源となった。
その大本に津野が関わっていた訳だ。
ここで龍馬と津野が繋がるわけだ。・・・私が龍馬に拘るDNAであるのかな。
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