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そんな市・町名変更の中で、唯一これは良いと手を打って賛成したのが「津野町」。旧の東津野村と葉山村が合併して津野町となった。それこそ土佐戦国七雄の一角・津野氏が本拠とした地域を津野町とした見識には感銘いたしました。旧の葉山村はカワウソと風の里公園の20基が並び立つ風力発電機の風車、東津野村は四万十川源流とされる不入山(1336M)・カルスト天狗高原とあるがなんといっても吉村虎太郎。
なんと今回、雲の上のホテル隣接の雲の上温泉に野郎3人で入浴中、同じ露天風呂の湯船につかっている顔がどう見ても、あのエジプト学者・吉村作治先生にクリソツ。最初に私が気付いて啓三・芳男と顔を見合せて確かめあったが、どうしてエジプトが梼原におってのかが分からない。もしかして吉村虎太郎の所縁でもあるろうかとも考えた。今調べてみるに先生出身は東京都とあった。
我が遠祖の地である高知県梼原町・津野町一帯を指す津野山郷に始祖・津野経高が延喜13年(913年)に入国した。伊予の国から三嶋神社を勧請して、守護神として祀られた時から代々の神官によって歌継ぎ、舞継がれてきたのが津野山神楽です。
一昨年大阪ドーンセンターでの公演を紙上で見つけて駆け付けた。その時は、農村芸能の一つとして、一部の抜粋が演じられたのと、舞台の上という雰囲気の違いから、余計に現地での奉納を見てみたいという思いが強くなってまいりました。その会のアンケートに是非現地ツアーがあれば参加すると書き込んだことでした。
その思いが通じたのか、去年10月に大阪からのツアーが催され、参加申込もすませていたところ、間際になって、大口の取引契約日が10月30日ということになっちゃった。やはりおまんまが優先ですから、止むを得ず参加断念しましたが、来年には商売繁盛のお礼をかねて必ず参りますと心に誓っておりました。
そんなとき、明石のM電器のM氏は30年来の知人で出身も土佐・梼原ということを聴いておりましたが、ひょんなことからM氏の実兄様がこの津野山神楽の副会長をしておられることを知りました。会長は町長が務めることから実質会を主催しておられるわけです。厚かましいのは承知の上で、M氏に兄上を紹介して頂き、今年の神祭に行きたいので当日席を構えておいてもらえればとお願いした。
人柄を現すおおらかな声で、「津野さんなら是非おいでてください、席は構えておきますから。」とのお許しを頂いた。この明石に津野山神楽の主催者の弟さんが居て、それも古くからの知り合いだったなんて。世間は狭いものと実感する。
以前にも一度、四万十川源流を訪ねた際、梼原町の「雲の上のホテル」で一泊したことを思い出し、29日に現地に入り、一泊して翌日の神楽見学という段取りとなった。
参加者は、我が3兄妹夫婦3組と前に「メモリアル・ジャーニー」(神戸高知県人土陽会会報掲載)の時、同行した親父の9人兄弟の末妹・茂子ばあさん91歳と、当日須崎の本家から従姉弟が5人、上分から従兄弟夫婦と梼原在住の嫁の従姉妹夫婦の計16名の大集団となった。これもご先祖さまのお導きなのかも知れない。だって須崎は梼原から56Kばあのところに居ながら皆さんこの御神楽を見た事はないとのことだ。津野であるとの認識が足りないんだ。
今や、我が先祖は土佐戦国七雄に数えられる「津野氏」であると思い込んでおります。それが心の拠所の一つとなっているかも知れません。実際はどうなのか、考えないわけでは無いのですが、親父の昔話に、曽祖父・久万蔵が、津野親忠公を祀る考山祭には、裃に威儀を正して出かけていたという記憶を唯一私が知る裏づけとして信じています。その津野を代表して語られるのが津野親忠公であります。親忠公は実は津野直系の当主ではなく、長宗我部元親の三男であり、津野勝興が長宗我部の軍門に降る際に親忠公を養子として迎えて、自身は隠居したのが経緯です。当初、親忠が幼少であったため、勝興が代わって政務をみていたようです。そして天正6年11月、勝興は死去しました。この勝興の死によって津野氏嫡流の血統は絶えたわけです。
歴史上、津野の代表として語り継がれている親忠公の、あまりとりあげて語られることがない、身びいきではなく、何故だろうと不思議に思うほど、親忠公の消極的ではありますが、日本史上果たした役回り、それが、正当に評価されていないことが歯がゆくてなりません。かの土佐好きで知られる司馬遼太郎先生も、「夏草の賦」で元親を、「戦雲の夢」で盛親を書きながら、親忠に関しては、ほんと筆が走っていない。それほど資料が少なくて書きにくいかもしれません。
ところで、天下分け目の戦いと言われる関が原の合戦に勝利した徳川家康にとって最大の関心事は
島津をどう抑えるかと言うことでありました。260年後薩摩に維新されることを予見していたに違いありません。その島津を抑える拠点として土佐が重要な立地にありました。ところで家康と元親はかって、対秀吉包囲網の一員として、手を組んだ仲であり、盛親も関が原に際しては、家康に「お味方する」との密書を発するも、悉く石田三成の西軍に阻まれて、しぶしぶ南宮山に陣を張ったという事実があります。その盛親が殆ど戦わずして、戦場を駆け抜けて、土佐に帰り、井伊直政を通じて謝罪をし、そこそこの領地安堵の感触を得ていたのは確かとおもわれる。そもそも、秀吉の九州征伐の魁として行われた、戸次川の合戦において最愛の長男・信親(信長の信を与えられた)を失った元親は、このころより人換わりしたように精彩を失ってしまったのだけれど、後継者決定を遅れに遅らせ、挙句四男盛親を指名し、信親の娘を盛親に嫁がすという愚挙におよんだ。このことがシコリとなり、親忠は幽閉されてしまうのだが、盛親が家康のもとに、謝罪に行く際、藤堂高虎と親しかった親忠に土佐の半国を与えられるとの噂を信じ込み家老久武内蔵助親直の手により、親忠に詰め腹を切らしてしまう。このことを高虎より知らされた家康はこれ幸いとばかりに、兄を殺した盛親を「元親の子に似合わしからぬ不義者」と断罪し、一命と引き換えに土佐一国を取り上げてしまった。
もし、親忠が元親より、まっとうに後継者とされていれば、あるいは盛親が親忠を手にかけることが無かったならば、家康も土佐一国を取り上げるまでのことは、まさかおこなえず、山内一豊に土佐を与えることも出来なかったことになる。さすれば、山内進駐による上士・下士の不毛な摩擦もおこらなかったし、幕末維新の原動力の一端を担った草莽が出現する土壌もありえなかったのです。
この歴史上のもしもが、あまり知られていないことが不満であった私にとって、今神戸新聞夕刊に連載中の「下天を謀る」は藤堂高虎を主人公とした歴史小説で、(125)第4章九州征伐(20)にいたって、ようやく元親と高虎との係わりが語られ始めており、期待以上に親忠についても書いてくれるに違いないとの期待に小さな胸を躍らせているところです。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)