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   薩長同盟内容
 一、戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へ      も一千程は差置き、京阪両所相固め候事

一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の      次第これあり候との事

一、万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に      付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事

一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に        相成り候都合にきっと尽力との事

一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、       正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事

一、冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は     申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回        復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり
この第6項を以て薩長対等と位置つける龍馬の条件としたところは、頷ける。
但し、この連盟はあくまでも薩摩が長州を助けると言う片務条約となっていることは確かだ。
流石にNHKも歴史上の事実であるこの同盟の約定までは変えられないということか。
確かに会談は龍馬を介して小松帯刀の屋敷で行われたが、薩摩と長州が対面しながらどちらも盟約の内容を言い出しかねて日々を喪い、遅れて京に着いた龍馬がもう盟約が成ったであろうと臨んだ帯刀の屋敷についてみると、まだ両者話し合いを行った形跡もない。それどころか、しびれを切らした桂一行は明日にも引き上げると言う。
その状況を見て取った龍馬は立場の弱い長州のギリギリ追い詰められた状況を知りながら、なお言い出さない西郷の非をこじゃんと責めたのが、締結のキッカケとなった。
其れが証拠に、龍馬の裏書は、盟約成った後に桂から求められたもの。NHKの筋書きで行くとその場で書面とされ裏書きを行った筈だ。
寺田屋のお龍とはすでに夫婦のなかになっていたし、近藤勇が見回り組に愚弄される筈が無い。
許せないのは、なにせ毎回弥太郎の顔を出さないと事がすまないように絡めてくる。
これがかなりの無理筋で、新撰組に弥太郎が捕えられて拷問を受け、龍馬の名前から
薩摩・長州の取り持ちまでゲロッチャウなんて、とんでもない暴走振り。
次週予告から察するに、どうも寺田屋襲撃で弥太郎も共に闘うことになっていそうだ。
でたらめも程々にして下されたく。
 

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 いよいよ長崎市民が指折り数えていた龍馬伝・長崎編が始まった。
途端に龍馬がグラバーの元に押し掛け、イギリスはフランスの幕府取り込みに対抗して日本上陸作戦を立てているとか。15000の兵を大坂に上陸させ京都の玉を抑えれば1日にして日本を落とせるらしい。
その上、龍馬の愛妾となるお元が長崎奉行の手先として働いているらしい。
伊藤俊輔と井上聞太は刀を振り回すのみ。そんなにこの2人は馬鹿だったんだろうか。
辛うじて東行・高杉晋作はそれらしい雰囲気が出てたのでは。
それにしても、花月の座敷でピストルをぶっ放してはいけません。

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 NHK大河ドラマの夢想癖は今に始まったことではないことは承知。新撰組では近藤勇と龍馬がマブダチだった。
今迄の龍馬伝のストーリーの中でいろいろ突っ込み処があったものの、大人げない振る舞いはあえて止めていたが、今日の龍馬伝に至ってもう辛抱もこれまでの感あり。
腰を抜かしたのは、龍馬が後藤象二郎を路上で捕まえて殴る蹴る三昧。
これが有ったら後年の長崎・清風亭の溝渕斡旋による象二郎との会談の冒頭どんな挨拶を交わしたんだろう。
歴史の時系列を無視してまでストーリーをでっちあげる苦労には同情するが、いささかやり過ぎにも程を考えてもらわないと、何も予備知識の無い例えば小・中学生が此の事を歴史上の事実として刷り込まれかねない。
以蔵が京都で捕縛されたのが元治元年4月のこと。たしかこの頃は龍馬は海舟の供をして、私が辿った豊後街道から長崎への旅の最中。
TVでは以蔵が拷問の果てにまさに自白寸前の様子からすれば、武市半平太が「君主に対する不敬罪」という訳のわからぬ罪状で三文字腹を切ったのが慶応元年(1865)閏5月11日37歳だからその直前のこと。
そのころ、龍馬は長崎で亀山社中を立ち上げ薩長同盟の周旋に走り回っていた真っ最中だ。
間違っても、高知に帰って、それも岩崎弥太郎相手に後藤象二郎を相手に立ち回りをやらかしている暇は断じて有りません。
NHKもここまで以蔵を引っ張るなtら、半平太捕縛に異を唱えて立ち上がった安芸郡・野根山屯集事件で身を捧げた清岡道之助以下23列士を取り上げるべきだ。
まして弥太郎が以蔵へ毒まんじゅうを運んだなど、まさに話を面白くする、弥太郎の出番を確保するためだけの筆の曲げ方にちがいありません。巨費を投じて嘘話を広めてどうするNHK.。即刻放映を打ち切れ。

追白ー以蔵とともに斬首になったのは同じく土佐勤王党の久松喜代松・村田忠三朗・岡本次郎。
この4人はむしろ下目付・井上佐市郎殺しの下手人としての処刑ではなかったか。
突っ込み龍馬伝③を参照してください。


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 最近商用で大阪・日本橋に度々出かける。その所用先は地下鉄・日本橋5番出口にあって、用事・打ち合わせが終つてビルを出ると、道の向えに黒門市場の入り口が見える。ついふらふらと誘われるように市場に足が向く。
大阪の台所、その活気もこのお昼の時間帯ではまだ人出も少ない。心おきなくブラブラ見物して歩く。
市場を出て、道具屋筋を冷やかし、千日前の吉本の看板を見上げながら難波に出るのがお気に入りのルートだ。
前のうちは、この難波から船場筋まで商店街を歩いても平気だったが、最近は戎橋・道頓堀辺りまでが限界となった。
ところで、龍馬伝でも顔を出している岡田以蔵が最初の暗殺をしたのがこの道頓堀・九郎右衛門町(浪速区難波1丁目)にあった料理屋「大与」の近くの川岸でのことだ。
武市半平太率いる土佐勤王党による藩参政の吉田東洋を暗殺を疑う、生前東洋に引き立てられていた、下横目・井上佐市郎と、この勤皇党のメンバーとが藩主・山内豊範の参勤交代で大坂に入った折、大流行していた麻疹のため、豊範をはじめ共回りが次々と罹患し、8月22日まで滞坂を余儀なくされた。
『維新土佐勤王史』によると、佐市郎は「元吉(東洋)の横死を悲しむ事深く、しきりに刺客の踪跡を探り、つねに勤王党を仇視して、報復の念止まざるより・・・」とのことで、平井収二郎は同志に佐市郎殺害をもちかけた。
その同志というのが、岡田以蔵・岡本次郎・久松喜代馬・村田忠三郎らであった。
さきに吉永良吉と小川保馬が佐市郎を料理屋「大与」に誘い出し、さんざん酔いつぶしておいて、連れ出したのが九郎右衛門川岸。待ち構えていた以蔵らが飛びかかり「以蔵は不意に手巾を佐市郎の首に投げかけ、力に任せて絞め殺し、また喜代馬は短刀にて横腹を刺し、死骸を道頓堀川中に突き流した」という。
それが、以蔵の最初の暗殺で、たぶん戎橋か大黒橋のすそから佐市郎を投げ入れた。
ひっかけ橋とか名前が付いた戎橋を渡るたびに思い出す因縁話。龍馬伝は拾ってくれるかな。

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 3月7日の龍馬伝。話の中心は、弥太郎と龍馬と加尾の三角関係の様相を呈してくる。
ほんまかいな。弥太郎と龍馬が初めて出会うのは、長崎にて。後藤象二郎の斡旋によったはず。
龍馬が長崎に向かう弥太郎を捕まえて小ざっぱりな様子に驚くが、土佐の地下浪人といえども、あれほどの汚ようはいくらなんでも酷過ぎる。
ところで、いよいよ吉田東洋、山内容堂が登場する場面。
どうも俳優さんがた、年を取り過ぎて見える。
たしか、老候と雖も、容堂は当時30代。将軍後継に腹を立てて隠居をし、忍堂と称していたが、如何にもあてつけがましいとして、藤田東湖より容堂と称するよう勧められた逸話が伝わっている。その容堂さんがほとんど白髪あたまでの登場だ。片や、吉田東洋も当時40代ですから、あんなに歳は取っていない。
どうか、基本となる事跡の検証の手を抜くことなく、少なくとも、調べりゃ分かるレベルのことで、我々にストレスを与え給うなと、お願いいたします。

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