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 今日は一日中吹奏楽漬けで過ごした(延々6時間)。明石吹奏楽の夕べ第50回記念大会だ。
明石市と明石吹奏楽連盟の主催になるこのコンサートは、本当に市民の夕涼みがてらに音楽を楽しんで欲しいと言う企画で、昭和36年8月29日明石公園バレーボールコートにて開催された。
当時の出演団体は明石・明石南・明石商・星陵そして明石高OBの5団体だった。
蚊取り線香を足もとでたきながらの演奏を覚えています。
私は2回目から弘子ちゃんは1回目から同じく7回まで出演した。
特に第6回の夕べ8月5日我が恩師有永正人先生が演奏を終えられた夜、突然倒れられそのまま帰らぬ人となられたのが6日。
牧羊教会での献奏を延々続けてお送りしたことが昨日のように思い出される。
そんな思い出深い夕べも第13回は陸上競技場。翌14回から今回までは市民会館大ホールで行われて来ました。
アンサンブルコンテストは復帰4年となりますが、お祭り騒ぎの夕べには足が向かなかった。
然し、今回吹奏楽コンクールで関西へS編成で明石高校音楽部が誠に久々に選ばれたと聞いて自然と足が向いていた訳です。
聞くところによると、兵庫県高校Aで関西に進んだのは明石北・兵庫・伊川谷北の3校だと。
この前の2校は実は我が音友松井隆志がその基礎をきずき、全日本にまで導いた実績のある高校で、伊川谷北は彼の最後の任地校で、去年定年を迎えた後も嘱託として指導を続けていて、今回はきっと全国大会出場を目指している筈。そして多分伊川谷北が全日本に選ばれることでしょう。
一方、肝心の明石高校の演奏についての感想は、小編成故の選曲の難しさの中、打楽器を駆使してボリューム感の欠如を補い、少ないプレーヤ―という劣勢を個人技を磨くことでカバー。其れに鈴木龍仁の高い音楽性が加味されて、編成の小ささを感じさせない名演奏となっていた。・・・拍手喝采。
とくにクラの頑張りが素晴らしい。
長期低迷していた明石高校音楽部に名門復活の確証を観た。
心配なのは鈴木先生の任期がもう10年目ぐらいではないかと心配になる。あと5年頑張って下され。
時移り、プログラムの何処を探しても明石高校OBの名前が見当たらない。
他の高校は全てOBバンドが出演していると言うのに。本当に心から寂しさを感じている。何とかしてくれ。

明石高校音楽部招待演奏・喜歌劇「伯爵夫人マリツア」セレクション
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明石吹奏楽連盟藤岡理事長挨拶・出演者1600人と報告。
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フィナーレは呉幸五郎作詞有永正人作曲「若き日の歓び・校庭行進曲」を舞台から会場から大合奏。
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 カテゴリーを明石高校OB吹奏楽団にするか、JAZZ ME BLUESとするか悩ましい。
明石グリーンホテルで開催された上記なにわJAZZ大賞受賞パーテイーは120名もの参加を得て、この業界?では珍しい賑々しい盛会となりました。
高校で言えば私から23年後輩のJAZZトランぺッター薮内良治君がJAZZ演奏を通じて広く地域社会に貢献したことを顕彰するなにわ大賞だそうだ。
同じOB仲間として招待を頂いたからには喜んで参加して会を盛り上げないと。
会場ではOB席が用意されていて、我々老人組は一か所に集められていたようだ。
いろいろ気を使って頂いている。

戦後JAZZ界を風靡した明石出身のトランペット4人組以来のスターとあればスピーチより何より演奏が聴きたいのは当然だ。
明石市長さんも駆けつけて激励のエールを頂く。
神戸メインストリートJAZZBANDバックでのセッションは流石の盛り上がりだった。
確かによく鳴るラッパだ。
今時珍しいプレスでガンガン吹き飛ばす。今が吹き盛りなんだ。
といってもメモリーズオブクリフォードタイプのスタイルではなく、われわれに分かりやすい演奏が展開された。
会場の片隅からステージを見上げながら、つくづくJAZZは演奏するもので、聞く見るもんじゃ無いことを痛感。
出来ればもう一度トロンボーンを担いでみようか。
明石高校OBの面々が集合。昔の悪ガキどもも良い年を取っているようで一安心。
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昭和39年の秋、OB吹奏楽団は高松大会で3年連続優勝をとげる。一方サッカーは関西学生リーグ2部で一挙に優勝を狙うものの果たせず、4か5位におわったのではなかったか。その頃の関西学生リーグは1・2・3・4部ABとあり、各部は6校編成で、2部の4位とあらば、関西でTOP10に入る位置にいたわけだ。好漢松本靖弘主将からキャプテンシーを受け継いだ私の頭の中は、2部死守の一言でありました。早速OFFSEASONもあらばこそ、走力強化の走りこみと、サーキットトレイニングを取り入れた練習を開始した。(これ以降の悪戦苦闘は2008.6.14項から始まるサッカー命の日々・淡水サッカークラブの23項に記した。)
それまでの省エネぶりから想像を絶する変わりようは、さぞや3回生以下を驚かしたことだったでしょう。しかし、我が代で、3部落ちするわけにはいかない。過去に部落ちを経験した歴代主将は落ちを恥じて淡水サッカークラブへ顔を出さないとの話も聞こえてくる。もはや、ラッパを吹いているどころの騒ぎではなくなった。
そのころ、OB}吹奏楽団は3年連続優勝の翌年、招待演奏に招かれ、昭和40年(1965年)11月14日遥か長崎の地で、松尾泰三指揮のもと、「象とハエ」(クリング)「雷鳴と稲妻」(シュトラウス)「組曲第2から」(ホルスト)を披露して、その存在を全国に誇示した。この11月14日といえば、私はサッカーリーグ戦の最中で、第4戦対神戸大を戦っていたころだ。その時点で1分け3敗。第5戦の大阪府大に勝たなければ、3部との恐怖の入れ替え戦が待っている。とてもOBの成績を気にするどころではなかった。
この年、指揮者が松尾泰三に変わった事情はよく分からないが、永年明石高校音楽部を指導されてきた有永正人先生が定年を迎えられ、八代高校へと転出されたことが主な原因ではないかな。
招待演奏は名誉なことですが、これがために有る意味緊張が解けて、翌年のコンクールをまずることになった楽団は多い。我がOB楽団もごたぶんに漏れずその傾向を示したのと、決定的要因は昭和41年(1966年)8月6日有永正人先生急逝に見舞われたことであります。精神的支柱としての先生の存在が如何に偉大なものであったことか、求心力を失ったOB吹奏楽団は、この年の仙台大会での2位を最後に、全日本の舞台に戻ってくることは2度とありませんでした。
その後、昭和60年8月11日の県大会銀賞まで、細々とコンクール県大会出場を続くが、この間関西大会に駒を進めたのは、まだ栄光の名残のあった昭和42年・43年の2度のみであります。
 

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何とか関門の虎口を脱して辿りついた3年生。経営学科・栗田ゼミ。ドイツ語の後遺症で独語2年は履修してなんとか3年生のうちに取得しておかないとまた大変なことになる。とりあえずは出席だけはするようになりました。鈴木先生も心得たもので、またまた竹馬を履かせるわけにはいかないとばかりに、心安らかに出席させようと、読解の順番が私に回ってきても、透明人間がいるかのように、パスして下さる。なんでお前だけと聞かれた事はなかったが、誠に珍妙なお助けを頂いた。
サッカーはといえば、3年生という気楽な位置で戦うというより楽しんでいた部分が多かった。実際は3年生が一番チームの主体となって走らねばならないところ。4年生のバラエティに富んだメンバーに頼りっぱなしで申し訳ないことをしたものです。・・この年新人は5名で経験者2名。我ら3年生は私と長本省三の2名という淋しさ。次は自分が責任を背負う覚悟だけは出来ていたのかな。
そんな学園生活の合間に神戸大附属明石中のブラバンを無理やりコンクールに出場させたり(2008.6.7項)商大マンドリンの定期演奏会にエキストラでギャラをもらって出演したり、我が商大応援団吹奏部の立ち上げに手を貸して、ついでに商大祭での演奏披露にまでこぎつけたり(2008.7.5項)と楽しいことばかり。・・やがて来る苦しみの1年の執行猶予期間でありました。
このころが、私のクラッシック・トロンボーンとしての絶頂期ではなかったか。強烈なプレス奏法は相変わらず、常にベルを下に向けて、音の響きを意識して、体全体を共鳴させる。絶対的ファーストの自信をもって舞台にあがったものでした。弟・啓三がサードで十分にハーモニーを支えてくれる。セカンドの内山一彦はいかなる場合も我々に吹き勝ことはない。最高のバランスを誇るトロンボーンパートでありました。
事実、全日本よりも難関であった関西大会でこの年勝ちぬけた理由のひとつは、我がトロンボーンの鳴りの良さであったに違いない。マエストロ朝比奈隆氏から、明石のボーンはプロ並みだとの有難いお言葉を頂いた。
結果、昭和39年(1964年)11月8日高松市市民会館での第12回全日本吹奏楽コンクール一般の部優勝。
これで3年連続・通算4回目の全国優勝を果たしました。
        
踏組曲「シルビア」より バッカスの行列                                                      ドリーブ作曲     指揮 青山正img385A.JPG

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             (トロンボーン左端 弘子ちゃんは前列右から3人目 指揮 青山正)
名古屋・室蘭・岐阜と優勝を重ねるためには、優れた指導者の元、これでもかという程の練習を行わなければ出来るもんではありません。また40余名が一団となってのチームワークも欠かせません。そして振り返ってみた時に、かくパートにキラリと輝る才能が育っておりました。もともと明石高校音楽部は華麗なトランペットの名手を輩出したことで、特に東京のJAZZ界では有名でありました。(このことは後に詳しく報告いたします。)
そんな先輩に負けないトランペットが2年下の水野雅夫君。秘かに和製ハリージェームスと呼んでおりました。大阪市大理学部進学の秀才でありながら、在学中はDEXIEBANDで大活躍。クラレに就職して米国クラレ子会社社長におさまった男前。ユーホ二ウムの田中英夫氏は2年上の部長さん。在学中は2限目には部室で昼弁当を使うというバンカラながら、その音色は美しく、超絶技術の持ち主。神戸いすずの重役となられた。クラリネットの松尾泰三は同級。錦城中学のころから耳の良いのは有名で、山手照夫先生の秘蔵子。3年連続優勝の翌年は招待演奏となるのだが、たしか長崎での招待演奏では指揮者を務めた。まあ音楽性は彼が一番とおもっている。惜しくも50前で亡くなった。青山正氏は一年上。フルート・ピッコロより指揮のほうで開花。不思議と難曲を上手にまとめあげる才能の持ち主。阪大理学部からセキスイ化学へと進まれた。セキスイでも特許を取られて今なお活躍中。今だにOBの定演となると現れるのがフルートの井上哲氏2年下。彼こそ名手といえる音色の持ち主。関学のオーケストラでは指揮者を任される。関学・慶応の合同定期演奏会が東京で開かれた際、私と弟・啓三をトロンボーンのトラ(エキストラ)に呼んでくれました。これには申し訳ない失敗談もありました。・・クラのパートでは中井正人氏1年下。松尾と中井の二人で4・5人分の音量があったのではなかったか。甲南大のオーケストラで指揮者。後に明石市会議員となって去年引退されました。

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