書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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一方、松ちゃんこと松井隆司先生との御縁はこれまた語り尽くせないほど思い浮かぶ。
最初に松ちゃんに出会ったのは、彼が神戸大学教育学部附属明石中学2年の時かな。私たちは3兄妹で4歳下の弟・啓三と8歳下の郁子。不思議なことに難関入学試験をくぐり抜けて3人そろって附属小・中とお世話になりました。その妹も附中のブラスバンド部に入りクラリネットを吹いておりました。そのころのブラスバンド部顧問は赴任2年目の川端敏夫先生。天然パーマの優しげな先生だったことを思い出します。そして松ちゃんは妹と同級生でトランペットを吹いておりました。松ちゃんのお母さん・松井きぬ先生(教員)は一人息子を音楽の道に進めるべく、幼少の頃よりPIANOを習わせ、中学ではトランペットというわけです。たぶんトランペットは松ちゃん自身の望んだ楽器ではなかったかな。線は細いが美しくメロディーが吹けるタイプであったと思います。川端先生が附属明石中学の記念誌・「30年のあゆみ」で回顧されているのを拝見しますと、赴任された当時、ブラスバンド部は部員わずか3人という惨状であったそうです。しかし2年目、松ちゃん達がたくさん入部してくれて、彼らが2年となったとき、最小編成の人数がなんとか揃ったと書かれています。ちょうどそんな時、商大生2年のひと夏、ずうずうしく押しかけて、是非コンクールに出てみてはとそそのかし川端先生をその気にさせたのは私です。この吹奏楽コンクール・中学の部(B)に出場するということは、附中にとって結局空前にして絶後のイベントとなりました。せいぜい士官候補生とか錨を揚げての演奏で事足れりとおさまっていた連中に自由曲「軍楽隊のための第一組曲から・行進曲」(ホルスト)という、かれらにとっては大変な難曲を持ち込んだものです。ちなみにこの曲は昭和38年(1969年)呉教授のお父さん・呉幸五郎氏の指揮で明石高校OB吹奏楽団が福岡の八幡市民会館での全日本吹奏楽コンクール一般の部で全国3位に輝いた際の自由曲でありました。そんな大曲を押し付けたてまえ、その夏はつきつきりで練習に付き合い、予選の舞台袖まで付き添いをかってでてものです。その際松ちゃんが唇が渇くといって、しきりにウオータースプレイを使っていたことを覚えています。だけどこの壮挙?のためか、この時の部員の結束は強く、他に3年生の古閑・竹元・足立、2年生の大脇・今村・石川・田辺などの名前を未だに覚えています。
その後の松ちゃんは明石高校音楽部・大阪学芸大学特設音楽科にすすむわけだけど、コンクールへの指揮者デビユーは大学2年時昭和43年(1968年)明石高校OB吹奏楽団を率いての兵庫県吹奏楽コンクールだった。
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弟・啓三から電話「6日に神戸文化ホール(大ホール)で県立伊川谷北高校吹奏学部の定演が有るがいかないか」とのお誘いだ。JAZZ畑の弟が吹奏楽のコンサートへ行こうとは珍しいこと、何かあるなと言葉を待つ。「呉信一君が客演だそうだ。」 その一言で心動かされる。呉信一京都市立芸術大学教授は今や日本で3本指に数えられるトロンボーンの大御所。ハイブリッドプレーヤーであり、明石高校音楽部の後輩でもある呉君(高19回)と松井君(高20回)の組み合わせを聴き逃すわけにはいかない思いがあります。

今をさること50年前、明石高校に入学と同時に音楽部に入部して最初に教えを受けた行進曲の練習が呉幸五郎先輩指揮による「ナショナルエンブレム」と「グラジュエイター(剣闘士)」。本職の有永正人先生よりこのときの印象がまことに鮮やかに残っている。呉先輩はなぜかその頃、仕事の合間とゆうよりも、音楽部の練習を最優先されているのではと思えるほど、頻繁に現れてはご指導を賜った。
呉という名から計り知れるように、かの有名な呉錦堂の御子息であられた先輩には、さまざまな富豪伝説が伝えられており、また関西のクラッシック音楽界に知己多く、とくにマエストロ朝比奈隆氏との交流は友情以上のものが有ったという。その富豪伝説の一つが、一人だけ木管クラリネット・クランポン製伝説です。もともと戦前の旧制中学の音楽部否むしろラッパ隊は、勇壮な行進曲・ファンファーレ演奏をその目的としていて、金管ばかりの編成が主流でありましたが、ちょうど呉先輩が入学された中13回(昭和15年卒)のころから木管も加えての編成となりだしたようで、そんな中、クラリネットといっても、金管製の代物しか手に入らなかった時代に、呉先輩だけは、クランポンかセルマー製のバリバリ舶来クラリネットを吹いておられたとか。後に我が音楽部が全日本吹奏楽コンクールで5回もの優勝を飾ることが出来た原動力の一つに、呉先輩のこのルートが大いに生かされて、音楽情報はもちろん、朝比奈マエストロを招いてその教えを乞うことが出来たことことがあげられると今思い出しています。
その呉先輩から、息子の信一が明石高校に入学して音楽部に入るといってんだけど楽器はトロンボーンをやりたいらしい、宜しくと声を掛けられた。これが呉教授との最初の出会いといえる。年齢は7歳下でTBは初心者との話だつた。呉教授の天分を悟ったのが、この翌年の明石公園で行われた納涼コンサートに同じパートで演奏した際だった。僅か1年半でとんでもない音を出し、なおかつスライドワーク抜群で、音のつなぎも非常に滑らか。12・3年は吹いていて少々自信もあった私の目を剥かせる雰囲気を感じたものです。このただ事ならぬ才能は、父君のかいがいしいご指導もあって、その後大阪音楽大学に進まれ、卒業後大阪フイルハーモニー交響楽団に入団とあとは皆様ご周知の活躍を遂げられて、我々TB吹きの頂点に君臨される存在であります。
その彼が、松井隆司指揮の伊川谷北高校吹奏楽団にゲスト出演されるという。・・これを聴き逃す手はない。
今をさること50年前、明石高校に入学と同時に音楽部に入部して最初に教えを受けた行進曲の練習が呉幸五郎先輩指揮による「ナショナルエンブレム」と「グラジュエイター(剣闘士)」。本職の有永正人先生よりこのときの印象がまことに鮮やかに残っている。呉先輩はなぜかその頃、仕事の合間とゆうよりも、音楽部の練習を最優先されているのではと思えるほど、頻繁に現れてはご指導を賜った。
呉という名から計り知れるように、かの有名な呉錦堂の御子息であられた先輩には、さまざまな富豪伝説が伝えられており、また関西のクラッシック音楽界に知己多く、とくにマエストロ朝比奈隆氏との交流は友情以上のものが有ったという。その富豪伝説の一つが、一人だけ木管クラリネット・クランポン製伝説です。もともと戦前の旧制中学の音楽部否むしろラッパ隊は、勇壮な行進曲・ファンファーレ演奏をその目的としていて、金管ばかりの編成が主流でありましたが、ちょうど呉先輩が入学された中13回(昭和15年卒)のころから木管も加えての編成となりだしたようで、そんな中、クラリネットといっても、金管製の代物しか手に入らなかった時代に、呉先輩だけは、クランポンかセルマー製のバリバリ舶来クラリネットを吹いておられたとか。後に我が音楽部が全日本吹奏楽コンクールで5回もの優勝を飾ることが出来た原動力の一つに、呉先輩のこのルートが大いに生かされて、音楽情報はもちろん、朝比奈マエストロを招いてその教えを乞うことが出来たことことがあげられると今思い出しています。
その呉先輩から、息子の信一が明石高校に入学して音楽部に入るといってんだけど楽器はトロンボーンをやりたいらしい、宜しくと声を掛けられた。これが呉教授との最初の出会いといえる。年齢は7歳下でTBは初心者との話だつた。呉教授の天分を悟ったのが、この翌年の明石公園で行われた納涼コンサートに同じパートで演奏した際だった。僅か1年半でとんでもない音を出し、なおかつスライドワーク抜群で、音のつなぎも非常に滑らか。12・3年は吹いていて少々自信もあった私の目を剥かせる雰囲気を感じたものです。このただ事ならぬ才能は、父君のかいがいしいご指導もあって、その後大阪音楽大学に進まれ、卒業後大阪フイルハーモニー交響楽団に入団とあとは皆様ご周知の活躍を遂げられて、我々TB吹きの頂点に君臨される存在であります。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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