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関学・商学部にいけば良いものを、なぜか頑張って、親父の再三、入学金を入れようかとの念押しも振り切り、一浪して、再度商大受験をすることとなった。そうなれば、早速予備校に通わねばということで、そのころ灘高・神戸・兵庫・長田高の浪人生が殺到し、関西予備校のTOPである大道学園を受験した。ところが、実力が無かったのか、たまたま調子が悪かったのか、初回見事失敗。それではということで、親父が頑張って、大道学園・大道英昌校長に顔の利く、兵庫日産自動車中巻社長に頼み込んで、形式上再度受験の上何とか押し込んで貰った。予備校の方が、関学商学部より難しかったのです。結局大道には延べ2年在籍することになるんだけど、通ったのは、2年とも、せいぜい夏休みまで、あとは出席したふりおしてエスケープしてり、まるっきり足がとうのいたり。中巻社長に申し訳ないことをしました。その言い訳ではありませんが、以降乗る車は日産ときめて、今も日産ティアナに乗っています。何せ勉強に向かう前のモヤモヤで躓いて、一向に勉学に身が入らない。しかたなく日本文学全集を徹夜で読破することに専念、明け方にやっと眠りにつくような生活を1年半。
当然2回目の商大受験も失敗して、これまたコネを付けていたK教授からも、去年より成績が下がっていたので、もうあきらめた方がよくないかとの親切な電話まで頂いた。おまけに2浪目の7月には、喫茶リオ・ブラジルを開店して、もっぱらお店の手伝いに没頭するような始末。いま考えれば、3度めの失敗を予見して、そうなればもう進学をあきらめさせて、喫茶業を生業にとの親父の考えからのことだったかもしれない。
そんな日々を過ごすうちに、明石高校OB吹奏楽団の呉幸五郎団長から電話が入ったのが10月早々だったっけ。「コンクールに出るのにトロンボーンが足らない、何とか出てくれないか。」OB楽団は、我々2年時に全国優勝して以来、翌年はOB単独で全国3位、去年は不参加という状況で、いおまいち伸び悩んでいた。
その誘いのうれしかったこと。世間とは没交渉のなか、天から降りてきた一筋の蜘蛛の糸に感じられて、即座に僕で良かったらお願いしますと叫んでいた。
明石高校の3年間、伝統ある音楽部の黄金時代の始まりに遭遇するという幸運にめぐまれた時代を享受した。
それまで練習に明け暮れていた生活が一変、受験勉強を本格的に否応なく始める。と同時に長年ラッパを吹き続ける生活から、まったく吹かない生活に転換した為か、強烈に鼻が詰まるという鼻炎の症状が現れた。飯田耳鼻咽喉科に駆け込んで診察を仰いだが、君は立派な鼻の割には鼻腔の奥が狭くて、ちょっとした刺激で粘膜が腫れると鼻づまりの症状となるとの診断。この症状には当分悩まされることになった。何しろ鼻が詰まると頭がボーとして勉強にならない。(これは言い訳です)
かくして昭和35年の受験シーズンを迎えた。志望校は幼少のころから、あるいは家庭教師についてくれた梶原健一氏が商大バレーボール部のこれまた超のつく遊び人だったことからか、神戸商大に凝り固まっていた。
成績もそこそこで、摂丹模試でも合格圏内の判定。まず手始めに私学受験となって、関西学院の経済・商学部を受験した。凍るような寒さの中、上原の関学キャンパスでの受験だ。この時、同級生で、後に東京オリンピックの400メーターリレー・第一走者を務めることになる浅井淨(きよし)君も一緒の受験となった。ところが、彼はその当時すでに100米10秒台で走るスプリンターとして注目を集めていた。(またまた余談ながら、かくいう私も素人ながら、100米12秒台で走り、浅井を除いて、明石高校一の脚力があった。)その彼と、受験会場で顔を合し、さて受験時間となると、我々は、寒々とした一般教室へ誘導される。一方浅井君は別室での受験らしい。あとで本人に確かめると、運動特待生としての受験で、内定はとっくに出ていて、ストーブで暖かい部屋に集められ、お昼のお弁当付き。試験用紙に名前だけは忘れずに書いてくれと念を押されたという。この辺りから世の中の、不条理というか、全員平等機会均等などの勘違いに気がつくべき現実に遭遇していた。
肝心の受検結果は経済落ちで商学合格となった。関西学院にはその当時すでに日本一を誇る応援団吹奏楽総部が活躍しており、このまま入学すれば当然吹奏楽三昧に生活がまたまた始まることになったはず。今考えると、この際の行くべきか、行かざるべきかの判断が、大きくあとの人生を左右していたことに気が附いた。
OB一般の部に出場しながら、現役高校生の部にも出場し、4位・3位と順位をあげていた。OBも設立3年目を迎え、メンバーもそこそこ揃うようになってきた。そこで我々3年生時は、高校生の部に的を絞って出場することとなった。当時関西大会高校の部は天理高校・天王寺高校・東商業と競合がひしめき、とくに天理高校はカリスマ矢野先生のもと、他の追随を許さぬ抜きんでた存在でありました。楽器一つを比べても、打楽器の種類の多いこと。とても国産品では揃わない。チューブや銅鑼を駆使したカールフランカイザー作曲のシリーズを得意としていた。今考えてみると、逆立ちしてもかなわないことが分かるのだが、若かったんだね。3年生一同は好漢三好部長を中心に本気でチャレンジする気でいた。
まさに昭和35年。世間は皇太子ご成婚一色に染められて、コンクールの自由曲も『祝典行進曲」。ブラスには吹きにくいC調の曲であります。そして自由曲は、有永先生が前年のOB優勝曲グランドマーチ「ツエッぺリン伯号」に味をしめたのか、やはりグランドマーチ「ARMY OF THE NILE」と決まった。実はこの時点でレベルの一番高い高校の部の自由曲として考えがたらなっかたように思う。
いくら最高の演奏をしても、豪華絢爛な曲をぶつけてくる天理・天王寺に勝てるわけがなかった。マーチはマーチ。曲の難易度ですでに差がついていたのだつた。
最高の団結、最高の練習、最高の演奏ができた。しかし結果は3位だった。思えばマーチでよくぞ3位を取れたもんだと今なら褒めてやれる。けど、何か取りつかれたように1・2位を考えていた我々は悔し涙しかなかった。
3年目にして味わう敗北感であります。・・気を取り直して大学受験に向かうまで少々時間がかかった。
世の中、1位と2位でこんなに扱い・注目度が違うのか。そのことをつくづく実感させられたのが、高校2年時、全日本吹奏楽コンクール名古屋大会(昭和33年・1958年11月30日)での優勝であります。このときの有永先生は、自由曲にドイツ・グランドマーチ「ツエッペリン伯号」を選んだ。これは実は大変な冒険で、曲の難易度からいって、もっと大曲を選ぶのが常識であるところを、あえてマーチで勝負にでた。それは喇叭隊ともいえる行進曲を主に演奏していた戦前の伝統が今なお残り、マーチの明石高校と言われるぐらい。行進曲それもリズムが8分の6の曲を得意としていたからです。永年手塩にかけてきた楽団の一番の得意を信じてこの曲をえらんだ。幸い、マーチとは言いながら、この曲は半端な序曲など顔負けの音楽的内容の有る曲で、求められるテクニックも半端じゃなかった。そのうえこれを完璧なまで演奏しきった。コンクール史上、自由曲にマーチを選んで優勝したのは前代未聞でありました。余談になるが、このときの宿が、当時売春防止法で閉鎖された赤線の跡であったらしく、建物は江戸の時代を思わせる情緒あふれる設えながら、部屋は妙に狭い構えでありました。
優勝を土産に明石駅につくと、駅頭には歓迎出迎えの人の波。われわれは明石で何かあったのかと聞くと、我我を歓迎するために集まっているらしい。なかには提灯を振りかざす人もいる。戦後の暗いニュースばかりの明石にとって全国優勝したことが余程好ましく受け取られたらしい。さっそく市長様の歓迎挨拶などがあり、やっと家にたどり着くまで長時間を要した。その後、明石デパートでの優勝報告演奏会とか、小雨降る中嬉恥ずかしい優勝パレードとか、おまけにTV出演(スポンサーが忘れもしない、あったり前田のクラッカーでありました。)
確か明石市長が明石にもこれを機会に立派な演奏会が開ける市民会館を建設しますと高らかに宣言していたが、実際実現したのは昭和46年、13年後の完成です。
一年になった秋にははや全日本吹奏楽コンクール東京大会・両国体育館に連れて行ってもらうことになりました。まさにその時、そこに居合わせただけでの好運であります。流行りのトレンチコートを張り込んでもらって勇躍東京へと向かう。さて何でいったやら、どうせ汽車に決まっているが、夜行だったのか、サッパリ覚えていない。相撲では聞きなれた両国体育館のデカカッタことは不思議と印象に残っている。無我夢中でステージを終えて、結果発表を待つ間に、当時としては、超サプライズプレゼントが用意されていた。ギャルド・レプブリケーヌ軍楽隊(正式名・フランス共和国パリ親衛隊軍楽隊)の模範演奏が始まったのであります。それまで聞いたこともない、舌を噛みそうな名前に戸惑いながらも眼前で繰りひろげられた演奏は、まるで別世界。この世のものとは思えぬなんとも柔らかくって、響きがあって、全員が歌うがごとく、それでいて厳しく、規律ある演奏態度。もうこうなると、結果発表などそっちのけで、一音も聞き逃すまいと、背伸びする。トランペットとコルネットはああして使い分けてsるんだとか、ピストンでなくて、みなロータリーバルブなんだとか、木管のクラリネットは音の深さが違うとか、好き勝手なことを思いながら演奏に聴き入る。・・・気がつけば結果発表があって、蒲郡中OBに敗れて2位の成績。まあ初出場ばら上出来と思っていたら、他の皆はえらい悔しがりよう。ギャルドがきけただけでももうけもんとはいかないらしい。この時は、音楽部の東京在住のOBが大歓迎してくれて、あの銀座スエヒロでヂナーへのご招待。さすがにビフテキとはいかず、うすいカツレツだったけれど、さあ皆はナイフ・フォークの使い方が分からない。チューサンが面倒とばかり、さきにナイフで切りわけて、お箸を使いなさいと大声を掛ける。まるでお上りさん・赤ゲットーだからしかたがない。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)