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特に面白かったのは高商1-3回生の創部時代の詳しい記述を読んでみるに、今まで伝説的に聞いていた実績が、ごく普通の、われわれと変わらぬ少年たちによって残されたものであることを発見したことです。
これと同じことが、伝説として語られる明石高校音楽部・OB吹奏楽団が打ち立てた全日本吹奏楽コンクール4回優勝・日本一の頃のメンバーだった自分自身が、高商1-3回生の方々と二重写しに感じたことでした。
明石高校一年生入学(昭和32年1957年)の1月に明石高校OB吹奏楽団が結成されていて、全日本の吹奏楽コンクールに一般の部が新しく設けられることになった。戦後12年いよいよ世の中も落ち着いて、中・高・大学・職場と吹奏楽が広がっていく中、一般人による楽団の普及・充実を図るため一般の部を急遽立ち上げたというわけ。といいながらまだまだ一般人だけでの十分な楽団編成は困難を極める。そこで暫定処置として、現役高校生の参加が許されることとなった。わがOB楽団の結成もこの処置を受けてのことと、連盟から是非のとの申し入れがあったがためでありました。・・普通なら高校生が一般人に混じって出ていいわけがない。
そんな事情があって、一年生の身ながら、一般の部に出演し、全関西大会で優勝。全日本が東京は両国国技館で開かれる。しかし自由曲はベートーベンの交響曲第一番第二楽章であまりトロンボーンの活躍する余地はない。
それなのに写真でわかるようにTBが6人もそろっている。編成上もきっと一年生の西江か津野が外されるのではとのおもいがあった。一日追い込み休憩時間、トイレに行くと、有永先生(指揮者)とならんで用を足すことになり、恥ずかしくてもじもじしていると、横向きのまま、先生が「心配することはないぞ、みんな一緒に東京へ行こう」と言って下さった。「ハイ」と自分でも驚くほど大きな声で返事をして、早々にその場を離れた。あの時の思いがけない言葉の嬉しさと、下半身の生暖かい湿っぽさの感覚はいまだに残っている。
今日、全国高校野球選手権大会第90回記念大会開幕。新装なった甲子園での華やかな入場式が繰り広げられている。真黒に日焼けした選手の表情はいつの時代も屈託なく、瑞々しい。
昭和32年明石高校に入学と同時に、音楽部にも入部した。数少ない経験者として歓迎される。さっそく夏休みとなっても、コンクール関西予選を目指す音楽部に休みはない。連日朝練・昼練・合同練習で絞られる。音楽をやっているのに絞られるとは奇妙だけれど、吹けないフレーズを吹けるようになるまで、繰り返し繰り返し練習するのは、むしろ体育会系の乗りで臨まないと、続かない。
そんなとき、田中英夫部長が「甲子園へいこか」と声をかけて下さった。開会式の楽隊として連れていってくれるとのことらしい。当時、朝日新聞主催の夏の甲子園の開会式は、同じく朝日新聞がスポンサーの関西吹奏楽連盟所属の高校ブラスバンドが担当することになっていて、それは未だに変わっておりません。我が部の顧問・有永正人先生は、関西吹奏楽連盟の有力理事であり、毎年何人かは参加ささねばならなかったらしい。ほんとなにも分からずついていった訳ですが、その規模のでかいことに驚いた。総勢300人は下らない人数が集まってきた。中には女学校の部員もいて、驚いたことに女学生がトロンボーンを担いでいる。我が部では、女性は少なく、吹いてもクラリネットかフルート、せいぜいアルトサックスぐらいのことで、ペット・ボーンは野郎の仕事と決めつけていたのに。それもかなり可愛い女学生。そんなことで、気もそぞろに開会式を迎える。入場は休場のライト側、外野入口から。予行演習では、そうは感じなかったのに、実際観客で満員の球場に一歩踏み込んでみると、まるで天から、人が降ってきかねない程に、頭上に覆いかぶさってくる。ウヲーという歓声で楽隊の音も十分に聴きとれない。自分が吹いている音も危ういもんだ。無我夢中に過ごした開会式。それでも自分のいた位置だけは覚えていて、朝刊一面に出た開会式の写真に、豆粒いかに写っている白黒の点にしっかり赤鉛筆でマークすることは忘れない。当分大事にとっておいたのに。
2年ともなると、もう慣れたもので、顔見しりと挨拶を交わすようになり、相手の力量もほぼ予想がつく。
そして迎えた3年生の甲子園。かのスコアーボードの上で毎年行われる開会のファンファーレ役が兵庫県の高校の番に回ってきた。責任者は有永先生であります。そのことは一年まえからわかっていたらしく、明石高校のメンバーだけで編成されることになっていた。レベル的には、兵庫県加盟の高校内ではTOPを引いている自負があります。忘れもしません昭和34年(1959年)8月8日第41回大会時あたかも、皇太子殿下を御迎えしての大会であります。本番では、同級生の西江頌夫(旭ガラス役員)が指揮者に回り、総勢7名の編成となりました。
開会宣言と同時に、あくまでも青い空に向けて、渾身の力を込めて吹く音は、かすかに銀傘に反響して聞こえてくるのみ。はたしてうまく吹けたかどうかなどは二の次で無事に終わったことだけで嬉しかったことを思い出す。
親とほ、有難いもので、たったそれだけのことに、朝日新聞社がくれた入場券一枚を母親は握りしめ、初めての甲子園に駆け付けた。皇太子さまの御顔を拝することができたこともあって、あれはよかったと当分喜んでくれました。
添付の写真は、このファンファーレに気を良くしたのか、有永先生の指導で、秋の母校の体育大会でもファンファーレを披露した際の写真であります。左から藤岡・富田・山下・津野・西江の面々。
よく鳴っておりましたよ。
*3日、人数の確認のため山下健三郎君にTEL入れる。元気な声での返事は、「明高のメンバーだけで吹いたと思うよ、他のメンバーのことを覚えていないもの」とのこと。
元来、トロンボーンという楽器はその成り立ちからして、伴奏にまわる役割で、曲のテーマがさまざま変化してゆくバックで軽快・重厚なハーモニーを奏でるように出来ていると、ずっと思いこんできました。だって、トロンボーン教則本を例にとっても、当分山本正人著しかなかったように思います。その練習曲もトロイメライ等しか載ってなかった。私自身ソロの楽しさを覚えたのは、大学生時代、大阪音楽団のバズーン奏者であった1年先輩の大崎健一氏から、JAZZBAND「セイバリーイン」参加を誘われてグレンミラーサウンドに夢中になってからのこと。SWINGのDIXIEのとその後の人生を方向づけされたのもこの頃のこと。そんなレベルの私にとって、呉教授のハイブリッドトロンボーンは全身を耳にして一音も聞き逃すべからずの宝物だ。優雅に、激しく、優しく、厳しく、あくまでも美しく、囁くように、雄たけびを上げるように、演奏は流れてゆく。音質も中音域に特に深みがある。高音がよく響く。どこをとっても申し分がない。そんな中、中盤で最もハイトーンの速いパッセージに少し音の掠れと狂いがあったように聞こえた。・・一瞬耳を疑いつつ、ああやはりそうなのかと一人頷く。彼もやはりプレス派それもかなりのハードプレス・唇にマウスピース痕クッキリ派なんだ。ラッパの奏法にプレス奏法とノンプレス奏法がありますが、我々が習ったころはプレス主流の時代。この奏法の利点は、音色に奥行きと味が出ること、JAZZなどには最適。しかし、永い演奏をしていると唇がバテテしまうのが欠点だ。だから、演奏本番前の練習もやり過ぎるとよい結果にならないことがある。そのほどほどがまことに難しい。そのうえ3日も吹かないでいると唇が戻ってしまい、もとに戻すのにその倍の時間がかかる。そんな厄介な奏法をノンプレスに換えようとやってみたこともあるけれど、これが全く別物で、たぶん習得には相当時間を要し、その間まともな音もだせなくなる。アマのわれわれが今更めざすところではありません。
たぶん会場でこれを聞きつけた人はほんの少し。ある意味ホットするものを感じて目を瞑る。こんな贅沢な時を過ごしていいのかな。また聞けるときがあるのかな。・・深いため息とともに、腕組みをして席に身を沈めるのが精いっぱい。感動を独り占めだ。ご両人に本当に有難う。夢私めが聞き耳を立てていることを気づかれる心配もない。・・・拍手
私にとってのふたりとの因縁話もさることながら、演奏会では両人が明石高校音楽部の1年違いであったことは披露されなかった。演奏後のふたりが交わした熱い?抱擁の意味は、高校以来音楽畑で互いに研鑽を重ねてきた想いも込められたものだったろう。それと、今や松井先生は明石フイル(たこフィル)の看板指揮者として活躍中ですが、これに対する呉先生のバックアップも凄いものがあると聞いています。関西音楽界を引っ張る両輪の関係を思えばステージでの演奏の意味も違って感じられるのではありませんか。50年の時の重みと、両人に対して心からの応援の気持ちで、しかも極上の演奏を聴けるなんて。あの会場を埋め尽くす人々の中で、まるで私のためだけに演奏してくれているような錯覚をおぼえながらの2時間。まさに至福のひと時でありました。
そんななか、演奏会そのものに感じた私の拙い感想も少しはありました。
そのひとつに、神戸文化ホールのステージ音響に関して、音が前に出ないなあ感じたこと。脇で聞いている弟に何度も確かめるように、音がこもってるなあと言葉を交わした。ステージ反響が良くないのではとの疑問です。なにしろステージ上には第一部から、2・3年で80人は超えているメンバーでの演奏であります。もっと音の厚みと、圧倒される程の音量があってもと感じた。もっとも、私の捉える感覚は、昭和40年代のもので、それから退歩はすれ、進歩しているとは言い難いことは承知。
それでも、次に何が起こるかというワクワク感が少し乏しくおもえた。振り返ってみるに、我々が現役のころ、ブラスは男子のものの時代でありました。40名の部員のうち、女性と言えば、CLA・FLUTE・SAXとパートも限られてほんの4-5人がいたように思う。それこそ、ヤンチャざかりの悪童集団が、ラッパを吹く時だけはお澄まししているという、荒々しさと若さのエネルギーに満ち満ちたものでした。演奏からして、あるいみ我が俺が式で、必要ないところで、頑張りすぎておこられることばかり。ピアニッシモではパート全員が音を出す必要はありませんよとの恩師チュウサン(有永正人先生)の声がいまだに聞こえてきます。
檀上をみれば、今時そのもので、部員130余名中男子15名の構成。女性ならではの、優雅さと調和に、瑞々しさと、色気が加われば、鬼に金棒じゃないかな。
そんななか、部員全員による混声合唱のステージがあった。イカキタの恒例のステージということだけれど、これが意外と聴かせる。ブラスの演奏会に同部員による合唱というこの仕組みに、松井先生が引きずっているエバーグリーンの世界を見たと感じた。爾来人間の声にまさる楽器はないのであります。第九の最終章・合唱の出だしでいつも、毛穴が広がるような感動をおぼえるのは、私だけだない筈。しかも演奏曲目は、重厚で、むしり単純な、調和の世界。じつは、これが難しい。複雑なフレーズを吹き飛ばす、唄い飛ばすことは案外とやれるもの。この単純ながら、絶対調和を求められる音だしこそ、それも自前の声でなおかつ、美しく謡いあげねばならない。最高のトレーニングになっているだろうな。
そんなことを思いながら、2008年のコンクール課題曲「セリオーソ」を聴いた。松井先生もあと2年足らずで定年をむかえるはず。そうあと2年で、念願の全国大会出場を果たさねばならない。時間がないのです。
私なら、この時点でかなり焦りをかんじるだろうに、指揮する後姿(後姿の良さは阪急の鈴木さん並み)にはそんな感じを微塵も見せず、松井ワールドを奏でてゆく。このペースなら、キット今年は行くよ。全日本に。
昭和43年卒業と同時に新設の明石北高校に音楽教諭として赴任した。じつはこの当時から、松ちゃんを明石高校の音楽教諭に迎えようという動きがOB連の中にあり、この動きはその後、松ちゃんの転校時常について回ることになります。実際、県教育委員会のしかるべき筋に明石高校赴任を働きかけたのは2度や3度ではありません。
明石北へ赴任して直ぐに吹奏楽部を創設した彼の悩みは、絶対的な楽器数不足でした。そのころちょうど私は明石駅前でMUSIC・INNボサ・リオというライブハウスも経営しておりましたので、店に転がっていたペコペコのTUBA、弘子ちゃんの妹が持っていたC管のSAXなどを供出いたしました。弟もそのころYAMAHA(当時日本楽器)神戸店の営業でおりましたので、かなり供出に協力したと聞いています。そんな苦労の最中、我が店に備えていたエレクトーンの練習にやけに通い始めた。同じビルの7階に弟を通じて誘致したYANAHA音楽教室があり、最初はその当時はやり始めていたエレクトーンの練習を始めた頃だったらしい。しかし、どうやら目的はすぐ変更された模様で、今の奥さんとはそのときその教室で知り合ったことは確かな事実です。
中学時代の紅顔の美?少年の時からの知り合いのせいか、それからも頼り・頼られる仲であったと一人合点しております。そして、その信頼関係がもっともいい形で発揮されたのが、神戸高知県人土陽会のHP・ゲストブックにも書いた、明石人丸ライオンズクラブ主催のアンサンブル・コンテスト開催への協力でした。明石の吹奏楽のレベルも中学の吹奏楽部が全中学に行き渡ったころ、一応の段階に達してはいたものの、なお上を目指すための仕掛けは無いものか模索しているその時、ちょうど私が所属していて2度目の幹事を仰せつかっていた明石人丸ライオンズクラブのテーマである「青少年育成のための」ACTIVITYに頭をひねっているその時、個々の技量を向上させる場としてのアンサンブル・コンテスト開催はどうだろうと双方から持ちかけあったようなタイミングで事は始りました。
最初はまず一回やってみようということで、会場も明石市民会館中ホールとし、ただし審査員の先生方は一流どころをお招きして、故山手照雄明石吹奏楽連盟理事長の後押しもあり開催にこぎつけましたのが昭和57年(1982年)2月29日のこと。ところがこのコンテストが期待以上に好評でその後連綿と続き今年で第26回参加78組出演者410名(金管打楽器・木管の2会場に分かれて)の規模にまで成長しております。
この間、松井先生は明石北高と兵庫高で計8回、吹奏楽部を全日本吹奏楽コンクール全国大会に導き、金賞に3回輝いたことは皆さんご存じの通りです。そして伊川谷北高校赴任は平成8年のことでしょう。以来イカキタで一からのクラブ育成に努力。今日にいたっていますが、コンクールにおいて、神戸市大会10年連続10度めの県大会出場権獲得し、兵庫県大会 金賞。2年連続3回目の関西大会出場権を獲得。関西大会においt銀賞を獲得されているが、悲願は全国大会出場にあることは言うまでもありません。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)