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 我が母校・神戸大学教育学部附属明石中学校が中高一貫校として生まれ変わるため住吉校に統合され、明石中学校は来年3月62回生の卒業に併せて閉校となる。
そこで問題になったのがその同窓会であるユーカリ会の存続でありました。
この1年集中してその存続の可否を検討し、存続と廃止の意見が拮抗する中、最終存続する事に決定した。
そうなれば、この会の新入会員は62回生で最終となり、あとは減ってい行くばかりとなる。
それでも存続し、願わくば100周年にまでたどり着き、後の事はその時考えようとなった。
私としては、それでもなお正常な状況での最後の総会になることと、引き続き学年同窓会も開かれると言うことで参加することにした。
もう1つの期待は24回生のTVでお馴染の杉尾秀哉氏の講演で、「これからの日本」と題して政界の裏話が聞けるらしい。
その杉尾氏の講演は、何しろ母校と言うことで、かなり突っ込んだ所までの内容となった。
朝ズバのみのもんたは立ったまま居眠りしてるのは確かと断言。しかし、そのハングリー精神とバイタリテイーは凄まじいの一言との報告。
小沢氏も2年間の番記者をした経験から、誠におっかない人物で剛腕でもカリスマでもなく、ただ約束事にはうるさいと指摘。一方菅さんは権力志向でフラフラと主義一貫しないのが危ういとの感想だ。
特に記憶にのこるのは、人口減少の国でなお経済の発展があったのはルネッサンス・フィレンチェのメジチ家主導による一時期のみとの事実。この稀有のことを日本はやり遂げなくてはならないんだ。
付けくわえて、最近の日本人の貯蓄率の低下を心配。1985年・16%、2000年・10%そして2007年には 
1.6%となり、こののちは貯金を取り崩しての生活と成るしかない。
政界舞台裏の生々しい話も飛び出したが、ここに書くことは遠慮しておこう。
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 親父がふりちんで日本かわうそと泳ぎ比べをしたという清流の写真を発見。
カメラマンはやはり須崎出身なのかな、故郷の川と記しておられる。高野弘さんだ。
四万十川以上の清流ではないかな。
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img397A.jpg 1000年の昔、ご先祖さんが命がけで寸土を争っていた怨念はわが身にと乗り移り、今や、土地売買となれば妙に血が騒ぐ。元亨院での和尚さんの読経を聞きながら、親忠を思い出し、親父を懐かしむ内に供養も終り、笹野の墓所へと向かった。あれほどの地所を持ちながら、今となっては墓山一つ。それも南向きの斜面だけが残っているとか。まあ、墓所だけでも有れば良しと言えるかも。
本家の跡を継いだ次兄のおんちゃんが、新しく津野代々の墓を建立したとかで、黒御影の立派な墓さんができておりました。
叔母はまるで爺さんそっくりで、親父は婆さんそっくり。まるでじじばばが入れ替わったようだと皆が口を揃える。
碌に家に居なかったのに9人もの子が出来て、その面倒をほとんど婆さん一人がひっ構えてやり遂げた。
まだ、長兄がなかなかの出来物で、土佐中を卒業して(まだ家が豊だったころか)満鉄関連の会社で出世して青島で活躍していて、かなりの援助をしたものらしい。お爺代わりで、お爺より怖かったと親父も言っておりました。
この婆さんが生前の口癖が「死んでも痛いき焼いてくれるなと爺さんと同じ墓には入りたくない」だった。
このことを自身の娘にだけ話していたようで、さて葬儀となって、娘や孫娘達が口を揃えて、焼いてくれるなと懇願したところが、次兄は俺は聞いてないと、このことを一蹴。さぞやおばやんは痛かったろうという話になった。
爺さんと同じ墓に入りたくないとの願いは、次兄もさもあらんと思ったか、別々の墓さんが建っておりました。
場所を道の駅「かううその里すさき」に換えて、集まってくれた従姉妹連との昔話が弾む。
なかでも上分の叔母(長女)が我が一家が訪ねた際に大きな声で「伸ちゃん、やったもんぜよ」と言った一言が今でも耳に残っていると話すと、叔母の娘3人が涙ぐむ始末。
どうしても 懐かしさと涙のついて回るメモリアル・ジャーニー。
行って良かった なあ親父。

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 関ヶ原の合戦が慶長5年9月15日、親忠の自栽が9月29日。この間2週間、今更ながらその素早さに驚かされる。
盛親は兄殺しを咎められての改易といわれるが、関ヶ原戦勝に伴う報償に頭が痛かった家康にとっては、持っての幸いであったことだろう。また念願の島津封じ込めの布石として土佐に有力な大名を味方として配置することは地勢上も重要課題であった。まさに山内一豊転封は最上の一手で、幕末大政奉還まで徳川恩顧は260年効用を表した。誠に家康は凄い。
一方、また逆のことも考えられる。
慶長6年山内一豊浦戸城入城以来、家臣団は山内家臣の上士と長宗我部旧臣を主とする郷士の2層に厳格に格付けされ、この状況は260年続いた。
このことが郷士階級の憤懣と鬱憤を招き、260年にわたって積もりに積もり、土佐に突出して、幕末倉莽の士が出現した事に繋がつた。
この意味で親忠自栽と土佐勤皇党は繋がっていると言えるのでは。
司馬遼太郎先生も土佐が好きで、元親・盛親を題材として「夏草の賦」・「戦雲の夢」を描かれたが、津野親忠については軽く触れられているだけで、私としては誠に不満に思っているところです。
歴史上のイフではないけれど、もしも親忠の死がなければ、土佐一国を取り上げられるという事態はおこらなっかたろうし、長宗我部郷士としての圧迫を受ける事態にもならなかったろう。
歴史の流れからして、幕末維新は避けがたいことながら、土佐の多数の若者が、すり鉢で擂り潰されるような格好で命を取られることにはなら無かったのではと考える。
まさに、日本の史上の重大なターニングポイントとして津野親忠の事はもっと記憶されるべきと、自称末裔は憤りを覚えるわけであります。

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 盛親が知ってか、知らずか押し寄せた軍勢が霊厳寺(のち孝山寺)を囲んだ時、親忠は碁を打っている最中だったと伝えられている。
家臣のものが、おめおめ討たれるより、一戦に及ばんとの進言をそれには及ばずと退け、そのまま悠然と碁を打ち終えて後、自若として切腹・自害して果てたという。亨年29歳。その命日9月29日には親忠を慕い惜しんでの孝山祭が津野の領内のそこここで今に伝えられています。
また、梼原に残る旅人をもてなす茶堂もその名残と言われています。
この一件はすぐさま津野の一族である中平精兵衛から藤堂高虎へと伝えられ、高虎はこれを家康に言上した。
関ヶ原での不戦組は、他にも毛利・島津があり、その方の戦後裁定は領地の一部召上げ止まりで、このあと盛親に下された改易という厳しい処分の理由として、この兄殺しがあったとされている。
家康はあの元親の息子にあるまじき所業として、即時うち首とまで断じたが、井伊直政の執り成しもあって、身一つでの解き放ちとなった。以後 盛親は大岩祐夢と称し、寺小屋の先生などしながら、京の片隅に身を置いた。
もちろん幕府方の厳しい監視のもとに。
その彼が、大阪冬・夏の陣前に長宗我部軍の首領として大坂城に乗り込み、最期の一戦を試みたことは皆様ご存じのとおり。その軍勢6000と伝わっています。

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