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 関ヶ原の合戦が慶長5年9月15日、親忠の自栽が9月29日。この間2週間、今更ながらその素早さに驚かされる。
盛親は兄殺しを咎められての改易といわれるが、関ヶ原戦勝に伴う報償に頭が痛かった家康にとっては、持っての幸いであったことだろう。また念願の島津封じ込めの布石として土佐に有力な大名を味方として配置することは地勢上も重要課題であった。まさに山内一豊転封は最上の一手で、幕末大政奉還まで徳川恩顧は260年効用を表した。誠に家康は凄い。
一方、また逆のことも考えられる。
慶長6年山内一豊浦戸城入城以来、家臣団は山内家臣の上士と長宗我部旧臣を主とする郷士の2層に厳格に格付けされ、この状況は260年続いた。
このことが郷士階級の憤懣と鬱憤を招き、260年にわたって積もりに積もり、土佐に突出して、幕末倉莽の士が出現した事に繋がつた。
この意味で親忠自栽と土佐勤皇党は繋がっていると言えるのでは。
司馬遼太郎先生も土佐が好きで、元親・盛親を題材として「夏草の賦」・「戦雲の夢」を描かれたが、津野親忠については軽く触れられているだけで、私としては誠に不満に思っているところです。
歴史上のイフではないけれど、もしも親忠の死がなければ、土佐一国を取り上げられるという事態はおこらなっかたろうし、長宗我部郷士としての圧迫を受ける事態にもならなかったろう。
歴史の流れからして、幕末維新は避けがたいことながら、土佐の多数の若者が、すり鉢で擂り潰されるような格好で命を取られることにはなら無かったのではと考える。
まさに、日本の史上の重大なターニングポイントとして津野親忠の事はもっと記憶されるべきと、自称末裔は憤りを覚えるわけであります。

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