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サッカーのリーグ戦第2戦会場が奈良教育大グランド。ただ応援に行けば良いのに、生来の好奇心がそれを許さない。おまけにグランドのすぐ裏手に萩の寺の表示がある。
こうなれば、時間の許す限りお参りして、もろもろのお願いを託さねばなりません。

萩の寺即ち新薬師寺は今はこじんまりとした構えとなっているが、創建当時は光明皇后が聖武天皇の病気平瘉を願って建立されたもので、新薬師寺と七仏薬師像を造営したと記されている。
ところが創建から33年後の宝亀11年(780)、落雷により建物の殆どを焼失している。
金堂は平安時代に倒壊、何時の頃からか、他の目的で使用されていたお堂が金堂(現本堂)に転用それた。
今、眼前にある薬師如来坐像は平安初期の制作とされる。
周りを囲む十二神将立像は奈良時代の日本最古の像とされますが、もとは新薬師寺のものではなく、近くの岩渕寺から移したものと伝えられる。

薬師如来様を取り囲む十二神将。この取り合わせはとても説明のような寄せ集めたものには見えず、最初からこの様に組み合わされ、神将は未来永劫、憤怒の面で薬師如来様を守り通そうとしているかに思える。
その中でも、写真のバサラ大将像がお気に入りで、暫くはその前に立ち尽くして睨み合っておりました。
堂内にこのバサラ像の復元写真があり、創建当初の煌びやかさを彷彿させる見事な色どりを見せている。
今は、神さびて、時代がかり、モノクロに見える結構から祀られた像全てが、この様な極彩色の光輝いていたことを想像するうちに、当時の庶民の目にこれらがどう映ったことだろうか考えさせられる。
それこそ、この世の極楽浄土ならんと魂を抜かれるほどの驚きで見上げた事でしょう。
必ずあの世はあって、この苦界である現世から一刻も早くお淨土に召されたいと願う姿。
思わず千年を遡って手を合わせておりました。・・・祈る必勝・2部復帰。

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 太平洋戦争の戦史を調べていてこれ程の人間軽視も極まる諸事実の中でもその効果(戦果)に於いてこれ以上の悲惨はないと思われる特別攻撃・特攻が震洋特別攻撃であります。
先に結論を云えば、学徒兵・海軍飛行予科練生6000人が投入され、そのうち2557人が戦死したとされる。
そして確認された戦果は米国の発表では4隻の被害。それも沈没は1隻のみとのことだ。
その中でも、馬鹿馬鹿しさを東リ過ごしているのが幻の土佐沖海戦だ。
既に終戦の詔勅が達せられた翌日。昭和20年8月16日午後7時頃、高知県須崎の第23突撃隊司令から「本土上陸をもって敵機動部隊が土佐沖を航行中、直ちに出撃してこれを殲滅すべし」との戦闘命令が、23突撃隊の震洋隊・回天隊へ命令された。
手結基地「震洋」隊でも直ちに準備にかかり、「震洋隊」試運転中に突然一艇から発火し、22隻が次々と爆発し搭乗員、整備員111名が爆死した。
この誘爆を発見した見張り所はあろうことか「敵機動部隊、高知平野東部手結岬方面を砲撃中。目下付近の海軍特別攻撃部隊は続々出撃、戦果拡大中」と打電。これを受けた陸軍四国防衛軍は大本営に「敵艦船と我が海軍部隊は抗戦中」と報告した。
四国在の各部隊は一斉に戦闘配備につき、第23突撃隊本部から須崎と浦戸の基地回天隊にも「回天戦準備」が発令された。
翌17日、このドタバタ劇は誤報であることが判明し、各隊の戦闘用意は解除された。

この悲劇は終戦のドサクサに紛れて忘れ去られていたが、昭和31年になって地元の夜須町有志が立ち上がり奉賛会を結成され、「震洋隊殉国慰霊塔」を建立され、毎年8月16日に慰霊祭が執り行われている。
この16日の慰霊こそ、喪わなくとも済んだ有為の青年達を惜しんでなおこの戦の如何に悲惨であったかを語り継ぐ人々の抗議とも言える強い意志を感じる。

その慰霊碑の立つ手結港の県道を知らぬばかりに通り過ぎ、あの可動橋は珍しいねなど、のたまわっていたのは私です。知らぬ事とは云え申し訳ない事をした。慙愧に堪えません。
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 8月15日天皇の玉音放送をもって終戦とした。何故9月2日の戦艦ミズーリー号上での降伏文書調印を以て敗戦と言わないのか。
実際は、9月2日ポツダム宣言受諾した「契約履行の詔書」を昭和天皇が発し、これにより日本政府全権の重光葵が、大本営全権の梅津美冶郎が降伏文書に調印した。
この様に敗戦を終戦と言い換え、撤退を転進と誤魔化す余りにも日本人的体質は、その後の外地戦没兵の遺骨収集に如実に表れている。
重大な過失、結果に対して決して徹底検証をしようとしない忘却大和民族は、時の支配者にとってこれ程都合の良い民草はありません。
みずくかばね・くさむすかばねがまだ114万柱も眠っていると言うのに、00方面にて戦死とだけ書かれた遺骨箱を押し抱いて有難ガたがる我々日本民族。
戦争末期、無差別爆撃を行ったB29の内、たまたま撃墜された機の搭乗員が、降下地点の民衆に袋だたきにされ惨殺の目にあった事件について、終戦後すばやくその埋葬された遺骨を掘り返し、死因を調査特定して、一体何が起ったのか執拗に追及した米軍の戦死者に対する態度との違い。これは一体何事何だ。
尊い命を捧げた兵士に対するリスペクトを無視した日本軍。その結果がいまなお114万柱が海外に眠る。
公共事業・景気対策という前に、この御柱を残らず祖国に迎えるための最大努力をするべきだ。
戦後65年、出征時母の胎内に居て父の顔を見ることが出来なかった遺児にして65―66歳。
もう時間が残されていないんです。

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 米国の公文書開示により、次々と戦争に関するアーカイブ文書が明らかになっている。
その中でも陸軍医療部による原爆調査報告書の存在が初めて明らかにされた。
広島原爆投下の2日後から、日本陸軍医療部は宇品分院に本拠を置き、原爆による被害を詳細に調査しだした。
当初は原子爆弾であることも分からぬまま、その後明らかになった入市被爆のことも知らず、医者、学舎の多くを動員して調査した。
あの悲惨な状況下、全ての物資が不足している中、勿論医薬品があろうはずもない中、専ら調査・観察しか出来ることはなかった。
さて問題はその後のことであります。私は度々忘却民族・日本のことを口を酸っぱくして述べてきました。
ところが、この原爆被害調査は珍しく詳細に、克明に被害状況を調べ何かに役立てようとしたわけだ。
そしてその調査報告を差し出した先が、なんとGHQ・アシュレーオーターソン大佐へだった。
人類史上初めての2種の原爆(ウラン型・プルトニュム型)を投下したアメリカ軍の関心は、その甚大な効果を確かめることにあったのは当然だ。
マッカーサー進駐と同時に原爆効果調査が開始され大佐がその長となった。
そのもとに、投下後僅か2日目からの詳細な調査研究結果が届けられた。
多分大佐もその段取りの良さにひっくり返るほど驚き喜んだことだろう。
おまけに、死者の詳細な解剖結果まで含まれている。おそろしい放射能の症状が明らかに記されていた。
爆心地からの距離に従った死亡曲線(主にいたいけない小学生を対象に生存率、いや殺傷率を割り出した)はその後、戦略爆撃の第一級参考資料となり、モスクワを殲滅するためには広島級原爆が6個必要とまで割り出している。
問題は、この詳細な調査の可否を言っているのではない。
かの陸軍医療部が逸早く調査結果を米軍に提出することで行った取引があったのではないかということ。
医療部が属する医科学分野の軍部関連にはおぞましい人体実験(マルタ)で名を馳せた731部隊他、人道に外れた行為を実践した恥部があり、之が明らかになれば国際的批判はもとより、戦争犯罪の一等として裁かれることになるのは必定。そこで、米軍がこれからの世界戦略に喉から手が出るほど欲しい原爆調査結果を自主提供すると同時に、’731部隊他が蓄積した生化学武器の実験結果、生体解剖に及んだ資料などと引き換えに、その事実を闇に葬った。
事実、これらの部隊に関わったとされる医療関係者が何の咎も受けず、戦後何食わぬ顔で設立したのがミドリ十字。
後に薬害エイズ被害を引き起こすことになる。その体質がそのまま受け継がれ多大な被害を及ぼした。
つくずく考える。このような亡国の所業が見過ごされてきたこの国はいったい何なんだということ。
そして、同じくその受け継がれた体質・DNAがきっと同じような所業を秘かに今も行っているのではないのかという予感がしてならない。




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カテゴリーの私的歴史観とは特に自分の身近で遭遇した歴史上の事実に対する感想という意味だ。
今日の神戸新聞明石版。戦禍の記憶2010あかしのタイトルで1945年7月7日の明石大空襲の特集記事があった。
ここのところ、憎むべき殺傷兵器焼夷弾の開発目的を考えてみたが、その標的にされたのは内橋克人氏だけでは無かったんだ。
7月7日未明、川崎航空機を標的にした従来の爆撃とは異なり、焼夷弾を使った市街地への無差別爆撃攻撃が行われた。
明石市史によると、この空襲での死者360人、全焼9075戸、罹災者3万6410人。
死者がおおかったのは2番町、川端通1-2丁目 、罹災者が千人を超えたのが樽屋町、、大明石町、西王子町、西新町1,2丁目、東王子町、新明、新浜だった。
私が生まれて育てられていたのが西新町。母方の爺さん夫婦が営んでいた理容院・源床の直ぐ近く。
今思い起こせば、私の人生最初の記憶として少年時代度々夢に見た、岡の上から見渡す街の黒い影の向こうが真っ赤に見えた光景がまさにその空襲となる。3歳と9カ月だった。
と言うのも、弟が今の神戸市西区上津橋の疎開先の納屋で生まれたのが8月5日。
一家はその後、西新町に戻ることなく、上の丸の四郎叔父宅に居候することになったから、西新町の借家も罹災したに違いない。
ひとつ間違えれば、気休めの防空壕で焼夷弾の餌食に、標的になっていてもなんの不思議もない。
臨月の腹を抱えて逸早く疎開していた両親の判断が一家を救った。

追記・・・この空襲については2008.7.9  2008.7.10 にも考察しています。乞う参照。



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