書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
開港150年まじかな神戸。その神戸が空港開港で過去大きな過ちを犯したことを人々は忘れていないか。
県商七星会主宰の小森豊氏のブログによれば、新国際空港建設候補地として神戸沖が最有力視され、その事があって、新幹線新神戸駅ひかり号停車も実現したという裏話が明かされている。
まさに関西に国際空港開港の前夜、現在の関西国際空港に決定に優先して、神戸沖国際空港が誕生寸前にまで漕ぎつけていた事実。
JAL問題をきっかけに、神戸地方空港の先行きが取りざたされているが、また日に2便の茨城空港が冷やかな関心の的になっているが、少なくとも神戸国際空港がこの時実現しておれば、現在の伊丹・神戸・関空問題は起こるはずもなかったし、右肩下がりの神戸港・神戸の貿易衰退を招くことも無かった。
何が言いたいかと言うと、これまで国家的見地に立って物事を判断したとされる大事業の中でも、この神戸沖国際空港から関空に立地が変更決定された事業ほど、その結果が間違っていたことが明白になった事業を知らないからであります。
当時小森氏は「神戸沖に公害の無い国際空港をつくる会」の代表として運輸大臣に陳情を重ねておられたそうで、感触としてほぼ決定の手ごたえを感じ取って居られた。ところが、時の宮崎市長が、それまでの誘致賛成から、市長選に出るにあたって与党自民党では選挙に勝てないと判断、革新へ転向する上で、空港反対が絶対条件とされ、なりふり構わず新空港反対を表明した。
ために神戸沖国際空港は実現直前で瓦解するに至った。
その上、その失敗の上塗りに、採算無視の神戸地方空港を強行開港し、株式会社神戸市の命運ここに極まっている。
この一連の顛末に対して公的な場での評価・反省を耳にすることは絶えて無い。
この一事による国家的国民的損失はいかばかりか。大罪万死に値する。
しかし、いつものように誰もこの事を振りかえり学習追及しようともしないし、当事者はほっかぶりして、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで恥じない。
民意とかいう情報操作が造りだした幻影に振り回されての決定がどれ程罷り通っていることか。
数え上げるだに、背筋がゾッとしませんか。
その累積が国を危うくしている。大事小事の冷徹な判断が求められる。厳しい仕訳能力欠如も甚だしい。
なにしろ、卑近な己の利益誘導前提であれば、そんな能力が有ったところで、それが援用されることなど、満に一つもあり得ない。
ついでに明石海峡大橋建設中、ゼネコンの大橋担当者は、建設方の偉いさん接待に毎晩忙殺されたとか。
それも、地元神戸では顔が刺すとて、大阪・京都まで足を伸ばしての連日連夜だったとさ。
県商七星会主宰の小森豊氏のブログによれば、新国際空港建設候補地として神戸沖が最有力視され、その事があって、新幹線新神戸駅ひかり号停車も実現したという裏話が明かされている。
まさに関西に国際空港開港の前夜、現在の関西国際空港に決定に優先して、神戸沖国際空港が誕生寸前にまで漕ぎつけていた事実。
JAL問題をきっかけに、神戸地方空港の先行きが取りざたされているが、また日に2便の茨城空港が冷やかな関心の的になっているが、少なくとも神戸国際空港がこの時実現しておれば、現在の伊丹・神戸・関空問題は起こるはずもなかったし、右肩下がりの神戸港・神戸の貿易衰退を招くことも無かった。
何が言いたいかと言うと、これまで国家的見地に立って物事を判断したとされる大事業の中でも、この神戸沖国際空港から関空に立地が変更決定された事業ほど、その結果が間違っていたことが明白になった事業を知らないからであります。
当時小森氏は「神戸沖に公害の無い国際空港をつくる会」の代表として運輸大臣に陳情を重ねておられたそうで、感触としてほぼ決定の手ごたえを感じ取って居られた。ところが、時の宮崎市長が、それまでの誘致賛成から、市長選に出るにあたって与党自民党では選挙に勝てないと判断、革新へ転向する上で、空港反対が絶対条件とされ、なりふり構わず新空港反対を表明した。
ために神戸沖国際空港は実現直前で瓦解するに至った。
その上、その失敗の上塗りに、採算無視の神戸地方空港を強行開港し、株式会社神戸市の命運ここに極まっている。
この一連の顛末に対して公的な場での評価・反省を耳にすることは絶えて無い。
この一事による国家的国民的損失はいかばかりか。大罪万死に値する。
しかし、いつものように誰もこの事を振りかえり学習追及しようともしないし、当事者はほっかぶりして、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで恥じない。
民意とかいう情報操作が造りだした幻影に振り回されての決定がどれ程罷り通っていることか。
数え上げるだに、背筋がゾッとしませんか。
その累積が国を危うくしている。大事小事の冷徹な判断が求められる。厳しい仕訳能力欠如も甚だしい。
なにしろ、卑近な己の利益誘導前提であれば、そんな能力が有ったところで、それが援用されることなど、満に一つもあり得ない。
ついでに明石海峡大橋建設中、ゼネコンの大橋担当者は、建設方の偉いさん接待に毎晩忙殺されたとか。
それも、地元神戸では顔が刺すとて、大阪・京都まで足を伸ばしての連日連夜だったとさ。
PR
今、「正成と道誉」を読んでいます。
たまたま、サンケイ新聞社神戸支局に龍馬レター選考会の広報をお願いに、チサンホテルの北側を目指して行く右手。湊川神社が何時もの清々しい佇まいでおわします。
三宮からテクテク歩いて来た途中、三宮神社、走水(はしゅうど)神社とお参りをした。
となれば、あらためて龍馬さんも参った湊川神社を素通りするわけにはいけません。
日ごろは、このあたり湊川神社より菊水煎餅のほうが気になる信心のなさだが、今日は御門から威儀を正してのお参り。すぐさま目につくのは大楠公御一代記。横山大観の筆による美々しい絵巻が掲示してあります。
稀代の知将で知られる楠木正成公はこの湊川の地で激戦の末、弟正季公と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」(七生報国)と互いに誓い合い、兄弟刺し違えてその生涯を閉じられた。
後に水戸光圀公がその名を惜しんで「嗚呼忠臣南子之墓」を建立されてからは、勤王志士の心のよりどころの1つとされ、吉田松陰、真木保臣など多くがお参りをした。
その子の正行・小楠公との桜井の別れも、青葉の笛の歌と共に有名だ。
ところで、楠木親子がそこまで尽くした後醍醐天皇は、その誠心誠意を充分受け止められたかというと、そうは思えない点が多々ある。そもそも醍醐天皇の親政を目指しての建武の中興という政治改革は、やはり理念・観念ばかりが先走って、やがては足利尊氏にその政権を奪われてしまった。
大楠公の必死の建言、策言もそお身分の低さから取り上げられず、みすみす自滅の道を辿った。
そして天皇親政の三度目の試みが明治維新と言う事になる。
楠公さんはこの有様をどう見たんだろうか。そして今回の政権交代おも。・・・気になるところです。



たまたま、サンケイ新聞社神戸支局に龍馬レター選考会の広報をお願いに、チサンホテルの北側を目指して行く右手。湊川神社が何時もの清々しい佇まいでおわします。
三宮からテクテク歩いて来た途中、三宮神社、走水(はしゅうど)神社とお参りをした。
となれば、あらためて龍馬さんも参った湊川神社を素通りするわけにはいけません。
日ごろは、このあたり湊川神社より菊水煎餅のほうが気になる信心のなさだが、今日は御門から威儀を正してのお参り。すぐさま目につくのは大楠公御一代記。横山大観の筆による美々しい絵巻が掲示してあります。
稀代の知将で知られる楠木正成公はこの湊川の地で激戦の末、弟正季公と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」(七生報国)と互いに誓い合い、兄弟刺し違えてその生涯を閉じられた。
後に水戸光圀公がその名を惜しんで「嗚呼忠臣南子之墓」を建立されてからは、勤王志士の心のよりどころの1つとされ、吉田松陰、真木保臣など多くがお参りをした。
その子の正行・小楠公との桜井の別れも、青葉の笛の歌と共に有名だ。
ところで、楠木親子がそこまで尽くした後醍醐天皇は、その誠心誠意を充分受け止められたかというと、そうは思えない点が多々ある。そもそも醍醐天皇の親政を目指しての建武の中興という政治改革は、やはり理念・観念ばかりが先走って、やがては足利尊氏にその政権を奪われてしまった。
大楠公の必死の建言、策言もそお身分の低さから取り上げられず、みすみす自滅の道を辿った。
そして天皇親政の三度目の試みが明治維新と言う事になる。
楠公さんはこの有様をどう見たんだろうか。そして今回の政権交代おも。・・・気になるところです。
今日の日本経済新聞連載の私の履歴書・津本陽28に至ってやっと、私の中にある津本陽氏のイメージと重なる部分が出てきて一安心しているところ。
東北大を卒業してからのサラリーマン勤めと、豪放な中に緻密な計算がされた津本史観を感じさせる今の作風たがなかなか綱がらなかった。
役所勤めのようなサラリーマン生活を捨て、不動産貸付業で生計のめどを付けた上での、同人誌参加の辺りなどあくまでも慎重を絵に描いたような生きざまと、一時剣豪作家と言われた氏のイメージが違って見えた。
しかし、今日の歴史小説を書くに至った経緯・心情を読むにつれて、やはり明石・川崎航空機工場での徹底的な爆撃・空襲経験が氏の中に根づいていて、人間の命の儚さ・無常観が、戦国武将の生きざま、無常へと結びついてゆき、今の筆境に至ったことが良く分かった。
『戦場でいつ戦死するかも知れない戦国武将たちは、強い無常観を抱いていた。信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり ひとたび生をうけて 滅せぬもののあるべきか」の語句のなかには、争乱の時代をきりひらく信長の、虚無の思いが全て込められている。』(引用)
太平洋戦争中、大本営とやらで数百万の兵隊を机上で動かし、わが身を危機にさらすことなくのうのうとしていた陸軍軍刀組とはまるで違っていた。
東北大を卒業してからのサラリーマン勤めと、豪放な中に緻密な計算がされた津本史観を感じさせる今の作風たがなかなか綱がらなかった。
役所勤めのようなサラリーマン生活を捨て、不動産貸付業で生計のめどを付けた上での、同人誌参加の辺りなどあくまでも慎重を絵に描いたような生きざまと、一時剣豪作家と言われた氏のイメージが違って見えた。
しかし、今日の歴史小説を書くに至った経緯・心情を読むにつれて、やはり明石・川崎航空機工場での徹底的な爆撃・空襲経験が氏の中に根づいていて、人間の命の儚さ・無常観が、戦国武将の生きざま、無常へと結びついてゆき、今の筆境に至ったことが良く分かった。
『戦場でいつ戦死するかも知れない戦国武将たちは、強い無常観を抱いていた。信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり ひとたび生をうけて 滅せぬもののあるべきか」の語句のなかには、争乱の時代をきりひらく信長の、虚無の思いが全て込められている。』(引用)
太平洋戦争中、大本営とやらで数百万の兵隊を机上で動かし、わが身を危機にさらすことなくのうのうとしていた陸軍軍刀組とはまるで違っていた。
津本氏の「私の履歴書」⑫から、明石への動員令が下り、和歌山中学4・5年生400名が明石の川崎航空機工場への派遣が決まった様子や、地元での反応が描かれ始めている。
戦時中の不思議、あるいは不条理は多々あるが、記事中、和歌山三菱に熊本の学生が招集され、地元の和歌山の学生がわざわざ明石へ遣らされる。なんとも理に合わないことがまかり通っていた。
この気持ちのくすぶりは和歌山中400人のなかでくすぶりt続けていて、そのうえに明石・玉津寮での劣悪な住食環境が重なり、当時としては考えられない全員集団脱走という騒ぎを引き起こした。
昭和19年9月13日のこととある。
この前代未聞の集団脱走はその規模の大きさと、確かに劣悪すぎた待遇の反省もあって、表ざたにされることなく治められたが、やはり首謀者グループへの弾圧と、陰険な報復、そしてひそかに行われたのこりの和歌山中生の分散があった。
まさにかの226事件の際、命令で訳も分からずクーデターに参加させられた将兵が、その後戦死率の高い最前線の弾よけに転属させられていたと同じ報復だった。
津本氏の明石・玉津での記述は⑳で終わったが、氏がその後の明石市街への無差別爆撃には会っていないこともわかった。
氏が命からがら逃げ降りたのが和坂(かにがさか)で、12畳に9人も詰め込まれていた玉津寮とは、今リハビリテーションになっている曙町あたり。我々には玉津診療所と言ってもらった方が判りやすい。
明石高校音楽部で同じトロンボーンを吹いていた秀才西江君は、この診療所の医師の息子だったはずだ。
戦時中の不思議、あるいは不条理は多々あるが、記事中、和歌山三菱に熊本の学生が招集され、地元の和歌山の学生がわざわざ明石へ遣らされる。なんとも理に合わないことがまかり通っていた。
この気持ちのくすぶりは和歌山中400人のなかでくすぶりt続けていて、そのうえに明石・玉津寮での劣悪な住食環境が重なり、当時としては考えられない全員集団脱走という騒ぎを引き起こした。
昭和19年9月13日のこととある。
この前代未聞の集団脱走はその規模の大きさと、確かに劣悪すぎた待遇の反省もあって、表ざたにされることなく治められたが、やはり首謀者グループへの弾圧と、陰険な報復、そしてひそかに行われたのこりの和歌山中生の分散があった。
まさにかの226事件の際、命令で訳も分からずクーデターに参加させられた将兵が、その後戦死率の高い最前線の弾よけに転属させられていたと同じ報復だった。
津本氏の明石・玉津での記述は⑳で終わったが、氏がその後の明石市街への無差別爆撃には会っていないこともわかった。
氏が命からがら逃げ降りたのが和坂(かにがさか)で、12畳に9人も詰め込まれていた玉津寮とは、今リハビリテーションになっている曙町あたり。我々には玉津診療所と言ってもらった方が判りやすい。
明石高校音楽部で同じトロンボーンを吹いていた秀才西江君は、この診療所の医師の息子だったはずだ。
2008.7.12のブログで作家・津本陽の和歌山中学4年生時、はるばる明石・川崎航空機での勤労奉仕体験と大空襲の模様を記した記事を紹介した。
12月に入って日本経済新聞の「私の履歴書」で津本陽氏が筆を取り始めると同時に、この明石での勤労奉仕・大空襲の詳しい記述があるものと期待していた。
前回はこの地、明石でまさか坂本龍馬を書かせれば当今第一任舎である津本陽氏が苦労をされていたんだという驚きが勝っての取り上げでしたが、あれから一年余、よくよく考えれば、当時小生は4歳2ヶ月。その当時のことなどまったく記憶にないんだが、唯一小高い丘に立って眺める空が真っ赤に燃えあがっている光景を思い出す。
これが津本陽氏が描くところの川崎航空機明石工場大空襲と符合する。
両親が居を構えていた西新町は川崎航空機明石工場とは指呼の距離で、爆弾が工場をそれて着弾する範囲もいいとこだ。祖父の散髪屋の知り合い客を頼って今の西区上津橋へ疎開していた。弟はその馬小屋で生まれている。
お互いB29の爆音のもと、生きるか死ぬかの状況下にあった連帯感のようなものを感じるわけだ。
12月に入って日本経済新聞の「私の履歴書」で津本陽氏が筆を取り始めると同時に、この明石での勤労奉仕・大空襲の詳しい記述があるものと期待していた。
前回はこの地、明石でまさか坂本龍馬を書かせれば当今第一任舎である津本陽氏が苦労をされていたんだという驚きが勝っての取り上げでしたが、あれから一年余、よくよく考えれば、当時小生は4歳2ヶ月。その当時のことなどまったく記憶にないんだが、唯一小高い丘に立って眺める空が真っ赤に燃えあがっている光景を思い出す。
これが津本陽氏が描くところの川崎航空機明石工場大空襲と符合する。
両親が居を構えていた西新町は川崎航空機明石工場とは指呼の距離で、爆弾が工場をそれて着弾する範囲もいいとこだ。祖父の散髪屋の知り合い客を頼って今の西区上津橋へ疎開していた。弟はその馬小屋で生まれている。
お互いB29の爆音のもと、生きるか死ぬかの状況下にあった連帯感のようなものを感じるわけだ。
カレンダー
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
リンク
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(12/10)
(03/07)
(09/29)
(07/06)
(03/22)
最新TB
プロフィール
HN:
つのしん
HP:
性別:
男性
職業:
企業向不動産仲介・企業立地
趣味:
ボランティア活動
自己紹介:
ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(03/08)
(03/12)
(03/12)
(03/16)
(03/23)
カウンター