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 日本の戦争終結は遂に陸軍及び海軍からの執拗な本土決戦・一億玉砕の声を掻い潜って、天皇陛下の玉音放送による終結宣言・ポツダム宣言受諾によりやっともたらされた。
厚木飛行場にコーンパイプを銜えながら降り立ったマッカーサー将軍。そのマッカーサーが早々に設置した駐留軍総司令部・GHQ(GENERAL  HEAD QUARTOR)により、日本はたちまち武装解除され米国流民主主義の色に染め変えられていった。
子供心に、ジープをぶっ飛ばす米兵にギブ ミー チョコレートと強請った覚えはないけれど、米軍用貨車が延々
踏切を通過して、遮断機が揚がる暇もなかったこよは覚えている。
特攻崩れの従兄が体一つで転がり込んできたのも終戦まもなくのこと。
そんな戦後の混乱も、闇市も、15年経った昭和35年、そう僕が一浪に突入したころには、もう誰もあの戦争を口にするものも、関心を示すものさえ少なくなっていた。終戦記念日前後、今のように掘り下げた終戦特集番組があったわけでもない。もちろん戦争原因と反省などに及ぶことも避けられていたのでは。
あっという間に、戦後ヒエラルキーが形成され、旧財閥が復活した。まるで戦争など無かったかのように。

一方、米国はというと、特にベトナム戦争中・後反戦・厭戦の動きは絶えずあって、最近では、2008年3月13日から4日間、メリーランド州シルバースプリング市の大学を会場にして行われたイラクとアフガ二スタンからの帰還兵たちによる公聴会「冬の兵士」(WINTER SOLDUER)が開けれている。
この公聴会に出席した勇気ある証言者たちが、いくら上官の命令とは言えども、何の罪もない人たちを殺してしまったことや、お年寄りや子供や女性までも殺してしまったことを証言し、米国の戦争犯罪を告発している。

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 昭和15年 海軍に第一委員会なるものが設置された。
これこそが、国家総力戦準備の中枢だ。その委員会がまず冒頭に挙げた原則が「ABCD列国が石油の輸出を禁止した場合すなわち開戦とする」というものだった。
まさに戦争ありきでの組織内委員会が、開戦以外の選択肢を持てるはずがない。
軍備増強に次ぐ増強で、予算もバンバン付いてくるとなれば、否でも戦争は出来ませんとは言えなくなった。
この海軍400時間の最初に課題となったのが、この第一委員会の検証だった。
果たして、十分な調査と冷静な判断が為されたのかどうか。
その当時の参謀連中が口をそろえて、米国と日本の国力の比較を真剣にやった覚えがないという。
米国在住で日本人で初めてエール大学の教授となった朝河貫一博士(歴史学・唯一の邦語著書「日本の禍機」)が米国との戦争の無謀さの警鐘をいくら鳴らしても、まったく耳を貸さない。
一部幹部にはこの戦争の馬鹿馬鹿しさを分かっていた節があるが、御身可愛さから発言に及ばない。
かくしてあれよあれよといううちに対米開戦必死が共通意識となっていた。
そんなころ、まさに開戦4ヶ月まえ、軍令部総長・永野修身が天皇陛下に開戦を進言した。
ことは一気に運び、12月8日新高山登れの攻撃電が発せられた。真珠湾攻撃開始である。
この総長進言の基となったのが、第一委員会が出した結論を受けてのことだった。
本当に世界を相手に戦がやれるかどうか、徹底的に検討することもなく、亡国の選択に流されてしまった。
これと同じことが、今の時代にも起きてはいませんか。
小泉の郵政改革に踊らされて、一斉に雪崩をうって自民圧勝にぶれたかと思うと、今回2009では、政権交替
が錦の御旗となって、日本全国を覆い尽くす。
活力も人材も失った世襲自民がかくなったのも、馬鹿でもちょんでも血筋を引いていれば代議士になれるという究極の亡国装置に絡めとられたため。
ところが、いまだ往生際悪く、麻生のジタバタ。それを止めようとする人物もいない。
大政奉還に及んだ慶喜が立派に見えてくる。といっても、慶喜さんも一旦返しても、すぐまた戻ってくるとあてこんでいた節も見え隠れする。
大久保・西郷を頼んで何時おれは将軍に成れるのかと、待ち焦がれた島津が、だまされたと知って、はらいせに錦江湾で大花火を揚げて悔しがったのも、こうなれば立派に見えてくる。
この2009選挙、結果は30日夜半判明するが、またまたこの日本がとんでもない方向に梶を切っちゃうような気がします。
民主の約束がすぐに実行される筈がなかろうし、民主に成ったら成ったで、翌日からバッシングが始まるいつものことだ。
そして戦い終わって日が暮れて、懲りない日本人は自分が仕出かした事の真実を振り返ることもない。

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 統帥権という化け物が日本の鼻面を引き回し始めた。
軍艦保有の制限というタガがはずれた海軍は、一挙に大鑑巨砲のシンボルともいえる大和・武蔵の建造に走った。
真珠湾攻撃が航空兵力による新時代の戦法と持て囃され、山本五十六が軍神のごとく祭り上げられてしまったが
むしろ、真珠湾の大成功がその後の作戦を大きく誤らせる原因となったと言える。
即ち、ミッドウエー海戦を計画したことである。
ミッドウエーはまけるべくして負けた戦だった。その作戦原理も、真珠湾で見せた航空兵力による、敵空母の殲滅を目的とせず、大和・武蔵の戦艦を温存し、空母機動部隊を丸裸で送り出してしまった。
海軍反省会でも時期早尚は指摘され、海軍首脳の間でももう少し準備期間をかけるべきという意見もあったが、
あの山本が言っていることだし、この際やらしてみようといった気分で作戦遂行が決定した。
常に冷静な判断を心がけるべきが、このような情緒で物事を決してしまう。
強烈な失敗のあとも、決まって反省を忘れる日本人の特性そのものが出たわけだ。
かくして、ミッドウエーの海に虎の子の空母多数が沈んでいった。
山本が航空戦の時代を察知していたのであれば、一隻の大和を作る代わりに10隻の空母を作ったはず。
遂に、明治・日露戦争でのバルチック艦隊を打ち破ったという亡霊にとりつかれ、おまけにこの海戦での敗北を国民の目から隠しとうそうとした。
自国民を欺いての戦争継続など考えられないことさえ気が付かない。近代戦は国民総力戦であるはずなのに。
あとは、忠良なる汝臣民のくそ力のみが頼りの、惨憺たる負け戦に日本を引きずり込んで行った。

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 エノラゲイの悪意、長崎のジレンマと民主国家としての米国の恥部をえぐり出すことを書きましたがそれ以上に母国日本の今なお続いている許し難い体質について、その最たる証拠を突きつけられて、ここまで日本は追い詰められ、自暴自棄になっていたのかと愕然といたしました。
先日放映されたNHKスぺシャル「海軍反省会400時間」全3回。
この番組内容によりますと、戦後、やや終戦のほとぼりも冷めかけたころ、昭和55年3月28日を第1回として、平成3年まで、延べ130回以上にわたり、元海軍軍令部参謀連中が集まり、二度とこの戦争の失敗を繰り返さないようにと反省会を開いた際、収録されたテープ225巻が発見されたことから始まる。
毎回10人ほどの人数が水交会会議室に集まり、正直にあの戦争に至ったこと、誤ったことを議論していたなんて今まで全く聞いたこともなかったことから、私の関心は俄然高まりました。
一体、海軍軍令部という天皇の統帥権を補佐するエリート連中が何処まで真剣にこの戦争を始め、そして終わらされたのか。その一言一言を聞き逃すまいと聞き耳をたててのことでした。
海に囲まれた日本は、いくら陸軍が権勢を張り、空威張りをしても、戦争となれば海軍の協力なくしては、一歩も前進出来ない。
この戦争遂行上の優位な役割を海軍が主張して、開戦の異を陸軍に唱えることは残念ながら一切なかった。
その上軍令部参謀が口を揃えて「本当にこの戦争がやれるかどうか、徹底的に突き詰めて検討することは一度もなかった。」と証言する。
海軍省兵備局長の保科善四郎中将が、開戦やむなしとの勢いに驚き、兵備計画を検討した結果、この戦備からしても戦争などとんでもないと声を挙げたが、その声は流れに流されるがごとく無視されたとの発言。
元来が作戦指導を本務とする軍令部が陸軍にあおられて開戦へとひた走ったのは何故だったのか。
その曲がり角・ターニングポイントを昭和8年10月1日の軍令部強化令が天皇の裁可を受けたことだと数人が証言する。
即ち、もともと海軍省担当だった兵力計画立案権限を軍令部に取り込み、「兵力量については軍令部総長がこれを起案する」となったことがそれだというわけだ。

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 昭和20年8月9日軍都小倉上空で目視による爆撃を厳命されていたB29は、雲厚きことから原爆投下場所を長崎へと変えた。その長崎でも上空を雲が覆い目視投下が出来なかった。時間は刻々過ぎるし、仕方なく爆撃手の
大丈夫という声を頼りに原爆を投下した。
この時、やはり狙いは反れて、目標の長崎市中心から3.3K離れた浦上天主堂を直撃した。
皮肉にも、あろうことか、キリスト教の米国が、日本で唯一戦国時代から続いているキリシタンの流れさえ感じられるキリスト者のメッカ・浦上天主堂真上で原爆が爆発した。
結果2人の神父と8500人のキリスト教信者が殺戮された。
今日のテレビも特集していたが、広島の原爆ドームに匹敵する原爆遺跡といえる、この浦上店主堂が、いつの間にか取り壊されてしまった。
時の長崎市長も当初、天主堂を原爆遺跡として残すべきと言っていたはずが、終戦そうそうアメリカに招かれて帰ってからは、俄かに天主堂を撤去する方向に走った。
背後には、キリスト者に原爆を見舞ったことの後ろめたさがあったのか、このことが天主堂が残されることで、いつまでも語り継がれることを恐れたのか、米国の断固たる意図のもとに、天主堂は完全撤去されて、新たな天主堂が建立された。
かくして都合の悪い証拠をぬぐい去った筈が、被爆したマリア像が戦後数奇な運命を辿り、高さ26㎝の顔の部分だけを残す変わり果てた姿で発見された。
浦上キリシタンの昔より、聖母マリア信仰が盛んなことで知られていたが、このマリア像も1930年代イタリアから輸入されたもので、有名なスペインの画家ムリーリヨが17世紀に描いた、代表作「無原罪の聖母マリアの御宿り」すなわち聖母処女懐胎を描いた絵をモデルとして作られたといわれている。
2005年被爆60周年祈念事業の一環として浦上天主堂の一角に「被爆マリア小聖堂」が建立され、その祭壇中央に浦上キリシタン迫害時代の名残を留める柿木の根っ子の一部と共に今は静かに安置されている。
米国の原罪の証拠はとうとう消し去られることなくその罪のどれほど深いものか訴え続けているように感じる。
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