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img363A.JPG昭和12年8月15日、近衛文麿は「支那軍の暴戻を瘍徴して、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」という声明を発表して日中全面戦争への突入を宣言し、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍の派遣を決定した。そして同日、長崎県大村基地を発進した新鋭の96式陸上攻撃機20機が、洋上600Kを含む南京上空までの960Kを4時間で飛翔。各機12発づつ抱いていた60KG陸用爆弾を目標とした2ケ所の飛行場周辺に投下した。引き続き、海軍航空隊は上海の公大飛行場を使用できるようになると9月19日ー31日までに、23回の南京爆撃をおこなった。これが戦略爆撃という、日本軍の行った最初の無差別爆撃と言われている。
そのしっぺ返しともおもえる、米軍のサイパン島から飛来したB29による、1月19日の犠牲者300名に対し、6月9日の犠牲者は642名と格段に多くなっている。これは、直接的攻撃として川崎航空機を狙った爆弾がそれて明石公園に着弾したが、その当時空襲時などの場合、列車は明石駅に緊急停車して、乗客を明石公園に誘導避難していたために、その人々269名がその爆弾により罹災したものと思われる。6月22日・6月26日と続いた爆撃の後、仕上げとばかりに7月6日に間接的爆撃・M69爆弾(焼夷弾)975tの攻撃が行われた。この空襲によって市街の24%が消失したと言われている。我が家があった、西新町・は西王子町・新浜と同数の2500余人の罹災者を出し、この3ケ所が突出した被害を蒙った。上津橋へ疎開していなければ、命が無かったに違いない。あらためて、明石大空襲の犠牲となった1,464人の魂の安らかなることを祈らずにはいられない。・・・黙祷

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MSN産経ニュース2008.3.11配信【人、瞬間(ひととき)あのとき、作家 津本陽さん】からの引用。
  
空襲で知った人生の苦味
 昭和20年1月19日午後の出来事を、作家・津本陽は生涯忘れることはないだろう。満16歳だった寅吉(とらよし)少年は、その日。川崎航空機明石工場にいた。
工場の敷地は広大で、本工員、徴用工員、学徒合わせて約4万人が働いていた。寅吉少年は陸軍の夜間攻撃機の主翼を製造する部署に配属となつて、日々の労働奉仕に汗を流していた。・・・
 午後1時半ごろ、地獄が突然やって来た。「いい天気でした。ぼくが工場の屋内で工区の伍長さんと向かい合わせで座っていたら、サイレンが鳴り出したんです。」サイパンから飛んできた、関西初の大空襲だった。
 悪魔の化身B29の編隊は、第1陣が8機、第2陣も8機、第3陣は16機、第4陣は32機という大編隊でやってきた。
 ほかの学徒らとともに、工場正門の向かいにある小さな横穴に避難した。伍長は工場内にある本部まで駆けつけて、戻ってくるときに背後から直撃弾を受けた。「その場で、身体がなくなりました。」
 やがて辺りには高射砲を撃つ音が響き、第2陣が上空に迫った。防空壕の中で耳にする着弾音は「風呂場で洗面器を頭からかぶった上からハンマーで思いっきりカーン、カンカンカン、カーンと叩きつけられたような、生きた心地もしない轟音と、箱の中に放り込まれて激しく揺さぶられているような震動だった。
 第3陣が来る前に「土気色の顔をした配属将校が走ってきて、こんなところにいたら皆死ぬからすぐ逃げろ、といわれまして」六,7人全員で、工場からさらに離れた場所を目指して、逃げ出した。一撃でビルを破壊する250キロの特殊爆弾を抱えた16機の編隊が、背後から近づいてきた。
 ようやく竹林の下にある、避難民で満杯の防空壕にもぐり込む。近くに落ちた爆弾の衝撃で「歯をくいしばっていた仲間の生徒の歯が折れて、血が噴出しました」。
 とどめの第4陣を寅吉少年は、防空壕から表に飛び出した直後に迎えるkとになる。土手の下にあった、工場の道具などを入れるする鉢状の穴の中に飛び込んで、どろでぐちゃぐちゃになりながら、無慈悲な絨毯爆撃から逃れ続けた。
 工場は壊滅し、多くの犠牲者が出た。一発の直撃弾で14人が即死した現場は、目と鼻の先にあった。「この体験は、35歳になって小説を書き始めるようになるまで、ずっとあとを引きました。人間とは実にはかないものです。人生、一寸先は分からない。そんな無常観というか、人生の苦しみがずっと心にたまってきて、僕は小説を書くようになったんだと思います」と振り返る。
 一つ間違えれば死んでいた。「あのときの体験があったのとなかつたのとでは、ぼくの物の考え方はまるで変わっていたと、今でも思いますね」(文 宝田茂樹)

 

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昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館を焼きだされた永井荷風が菅原明朗とともに、明石のやってきたのが6月3日。折悪しく菅原の実家に入れないため、近くの西林寺に12日まで滞在したと有名な断腸亭日乗に記述しています。「・・・明石の市街は近年西の方に延長し工場の煙突林列せり、これが為既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は旧市街の東端に在るなり・・・。」既に1月19日に最初の直接的攻撃を受けていた川崎航空は、荷風が来明していた6月9日にも、本格的な爆撃をうけています。「・・・六月初九日、午前九時比警報あり、寺に避難せる人々と共に玄関の階段に腰掛けてラチ”オの放送をきく、忽ちにして爆音轟然家屋を震動し砂塵を巻く。狼狽して菜園の壕中にかくれ線に志なきを得たり、家に入るに戸障子倒れ砂土狼寿たり、爆弾は西方の工場及び余が昨日杖を曳きし城跡の公園に落ちたるなりと云・・・」この空襲を体験して早々に明石から逃げ出して岡山へと向かっています。一方龍馬を書いて我々におなじみの作家・津本陽(本名・寅吉)氏が相前後して、明石に居られたことは、あまり知られていないようです。津本少年は昭和十九年六月に学徒動員が下り、和歌山中学校の4・5年生約400人の仲間たちと、川崎航空機・明石工場へとやって来ました。彼らはこれまでにない劣悪な環境の中で、食事・風呂・規律等に関して鬱積した感情が学徒の中に蓄積されていきます。中でも、和歌山中学校の学徒たちには、7月末に4年生の1人が盲腸炎の誤診から死亡するという事件が起こり、お盆の帰省休暇が生産の都合で取り消されるということもあって、9月23日和歌山中学校学徒のよる集団脱寮が実行されました。よほど厳しい状況下にあったのでしょう。集団脱寮という思い切った行動はその当時では考えられないことでありました。この経緯を津本陽はのちに「脱走」というタイトルで小説化され『嵐の日々』に改変・出版されています。そして迎えた1月19日。

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4歳の時、上津橋から見た、山の向こうの明らかに尋常でない紅紅と立ち上がる揺らぎに埋め尽くされた空の光景は、やはり世に言う「明石大空襲」の何回目かの齎したものに違いありません。今まで神戸新聞が終戦特集記事で谷村礼三郎氏(明石大門主宰)の話として明石大空襲をとりあげているのを読むくらいであったのが、今自分の軌跡を大いに左右した事実であったと再認識したとたんに、このまま通り過ぎることが出来なくなってしまった。
そこで改めて、明石大空襲を検索してみるに、そのHIT数の少なさに、まず驚かされる。全体を捉えての詳細な記録は何処を探しても見つからない。あるのは、個人的体験談としての回顧録がその多数であります。当然、何回かあった空襲の内の、どれかについての体験・記憶・感想であります。そこで西部図書館に出かけて、わたしが62年前に目撃したことの正体を確かめずにはおれなくなった次第。

                      明石大空襲 】
ことは想像を遥かに超える事実ばかりです。あの時明石の地で起こったことが、何故今、こうまで簡単に忘れ去られてしまっているかのように見えるのか。街のどこを探しても、あの空襲の痕跡は見出すことあたわず。年老いた体験者の記憶の中にのみ残り、それも消え去ろうとしている。語り伝えることもなく。日本人の最も悪しき体質ともいえる何事も忘れ易いこと。自ら始めたのか、始めさせられたのか分からない太平洋戦争で、あれほどこっ酷く叩きのめされたことも、広島・長崎のピカドンのことも、シベリア抑留で6万の兵が殺されたことも。今なお、南方の島々に110万余の遺骨が野ざらし放置されていることも。唯一国内戦が行われた沖縄においても、まだ10万の遺骨収集が果たされていないことも。
戦争責任自体の原因究明・責任追及などまるっきり気にも懸けない。戦後75年間を見ても、お上がしくじったことどもを、徹底して批判・反対したのは日米安保闘争ぐらいか。いまの学生は国会議事堂を囲むことも、いや何処にあるのかさえも知ってはいないことだろう。・・だんだん腹が立ってきた。
 米軍資料によると、明石への空襲は川崎航空機を対象とする「直接攻撃」と航空機工業以外を目標とする「間接攻撃」に分けて行われた。事実、昭和20年1月19日から6月26日間の計4回の爆撃には、川崎航空の工場破壊を目的として、M50爆弾(4000ポンド)が使用された。これが直接攻撃である。米軍の攻撃目標資料には、全国で8箇所、AOMORI・TOKYO・HACHIOJI・NAGOYA・AKASHI・IMABARI・OITA・UBEと光栄にも記されている。正に地獄への特別切符を持たされたようなものだ。しかし、そのことの重大さに気がついていた明石市民はほんの一握りであったろうと思う。いや数人か。

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司馬遼太郎は言う。『嘉永6年(1853年)と安政元年(1864年)の二度のペルー来航以来、日本は開国して近代国家を50年にわたって、営々として築きあげてきました。そしてその努力が、日本海海戦の最初の30分に凝縮された。まさにこれこそ、時代の圧搾空気だった。しかしこれ以降この圧搾が出てこない。その後の40年かそこらで、日本は取り返しのつかない大失敗をやらかしたと。』
幕末・明治の時代は、考えてみれば、まことに多様性に富んだ時代だったとおもわれる。それが凝縮した場所がお江戸でありました。そのうえ薩摩・長州・肥前・土佐と、これが同じ国に同時に存在するのかと、目を疑うばかりに、なにから何まで異なった邦が鎬を削った時代。こんなバラェティは世界史上類をみないといっていいのではないだろうか。そんな、熱い熱いカオス(混沌)の中から、良いも悪いも
明治のリーダーがうまれて、次々と良いのが脱落したり、死んだりしてゆき、太政官政治という、権力の交代のみの結果となった際には、脇侍ばかりが残る結果となった。もっとも、今の時代はもっと酷くて、最初から脇侍ばかりといえる。いや侍といえる存在さえ無いのではないかな。・・との司馬先生のボヤキが聞こえてくる。
司馬遼太郎・本名福田定一は旧制大阪外国語大学・蒙古語科在学中に学徒出陣となり、兵庫県加東郡河合村(現在の小野市)青野ヶ原の戦車第十九連隊入隊を手始めに、満州四平の陸軍戦車学校を経て、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第5小隊長となる。しかし、本土決戦の虎の子部隊として、新潟県さらには栃木県佐野市へと盥回しされたという。その体験を通して、当時の旧陸軍に代表される、まったく悲惨な結果を必然的に招いた日本の体質の馬鹿馬鹿しさを痛感され、それに較べれば、前述の維新後50年までは、なんとか夢をもって書きえた時代の最後であつたのでは。
日本人の悪い癖は、良きにつけ、悪しきにつけ、もたらされた結果に対して、真剣に向き合って徹底した反省・検討をしない点である。特に太平洋戦争に関しては、日本海海戦で大勝により、かろうじて戦勝国の名を得た後、国民は浮かれるにまかせて、道を誤り、大和魂という幻想に頼り、科学的研究を怠ったその上に、戦力逐次導入という戦術上最大のヘマをやらかし、おまけに兵站を無視した地獄へと、兵を追いやった。・・・司馬先生は周りから昭和史は書かないのですかと訊ねられた際、君は僕を殺す気なのかと返答したと言われる。何度か試みようとされた痕跡があるなかで、とくに太平洋戦争そのものを描くことは、その経緯・内容どれをとっても正気では書き綴れたもんじゃない。それほどの悲惨をもはや忘れ去っているとしか思えない今の我々。・・・本当はそう言いたかったのではないのかな。
司馬先生は、この時代を書かなかったのでなくて、とてもじゃないが書けなかったというのが本当だろう。

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