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そのしっぺ返しともおもえる、米軍のサイパン島から飛来したB29による、1月19日の犠牲者300名に対し、6月9日の犠牲者は642名と格段に多くなっている。これは、直接的攻撃として川崎航空機を狙った爆弾がそれて明石公園に着弾したが、その当時空襲時などの場合、列車は明石駅に緊急停車して、乗客を明石公園に誘導避難していたために、その人々269名がその爆弾により罹災したものと思われる。6月22日・6月26日と続いた爆撃の後、仕上げとばかりに7月6日に間接的爆撃・M69爆弾(焼夷弾)975tの攻撃が行われた。この空襲によって市街の24%が消失したと言われている。我が家があった、西新町・は西王子町・新浜と同数の2500余人の罹災者を出し、この3ケ所が突出した被害を蒙った。上津橋へ疎開していなければ、命が無かったに違いない。あらためて、明石大空襲の犠牲となった1,464人の魂の安らかなることを祈らずにはいられない。・・・黙祷
MSN産経ニュース2008.3.11配信【人、瞬間(ひととき)あのとき、作家 津本陽さん】からの引用。
空襲で知った人生の苦味
昭和20年1月19日午後の出来事を、作家・津本陽は生涯忘れることはないだろう。満16歳だった寅吉(とらよし)少年は、その日。川崎航空機明石工場にいた。
工場の敷地は広大で、本工員、徴用工員、学徒合わせて約4万人が働いていた。寅吉少年は陸軍の夜間攻撃機の主翼を製造する部署に配属となつて、日々の労働奉仕に汗を流していた。・・・
午後1時半ごろ、地獄が突然やって来た。「いい天気でした。ぼくが工場の屋内で工区の伍長さんと向かい合わせで座っていたら、サイレンが鳴り出したんです。」サイパンから飛んできた、関西初の大空襲だった。
悪魔の化身B29の編隊は、第1陣が8機、第2陣も8機、第3陣は16機、第4陣は32機という大編隊でやってきた。
ほかの学徒らとともに、工場正門の向かいにある小さな横穴に避難した。伍長は工場内にある本部まで駆けつけて、戻ってくるときに背後から直撃弾を受けた。「その場で、身体がなくなりました。」
やがて辺りには高射砲を撃つ音が響き、第2陣が上空に迫った。防空壕の中で耳にする着弾音は「風呂場で洗面器を頭からかぶった上からハンマーで思いっきりカーン、カンカンカン、カーンと叩きつけられたような、生きた心地もしない轟音と、箱の中に放り込まれて激しく揺さぶられているような震動だった。
第3陣が来る前に「土気色の顔をした配属将校が走ってきて、こんなところにいたら皆死ぬからすぐ逃げろ、といわれまして」六,7人全員で、工場からさらに離れた場所を目指して、逃げ出した。一撃でビルを破壊する250キロの特殊爆弾を抱えた16機の編隊が、背後から近づいてきた。
ようやく竹林の下にある、避難民で満杯の防空壕にもぐり込む。近くに落ちた爆弾の衝撃で「歯をくいしばっていた仲間の生徒の歯が折れて、血が噴出しました」。
とどめの第4陣を寅吉少年は、防空壕から表に飛び出した直後に迎えるkとになる。土手の下にあった、工場の道具などを入れるする鉢状の穴の中に飛び込んで、どろでぐちゃぐちゃになりながら、無慈悲な絨毯爆撃から逃れ続けた。
工場は壊滅し、多くの犠牲者が出た。一発の直撃弾で14人が即死した現場は、目と鼻の先にあった。「この体験は、35歳になって小説を書き始めるようになるまで、ずっとあとを引きました。人間とは実にはかないものです。人生、一寸先は分からない。そんな無常観というか、人生の苦しみがずっと心にたまってきて、僕は小説を書くようになったんだと思います」と振り返る。
一つ間違えれば死んでいた。「あのときの体験があったのとなかつたのとでは、ぼくの物の考え方はまるで変わっていたと、今でも思いますね」(文 宝田茂樹)
そこで改めて、明石大空襲を検索してみるに、そのHIT数の少なさに、まず驚かされる。全体を捉えての詳細な記録は何処を探しても見つからない。あるのは、個人的体験談としての回顧録がその多数であります。当然、何回かあった空襲の内の、どれかについての体験・記憶・感想であります。そこで西部図書館に出かけて、わたしが62年前に目撃したことの正体を確かめずにはおれなくなった次第。
【 明石大空襲 】
ことは想像を遥かに超える事実ばかりです。あの時明石の地で起こったことが、何故今、こうまで簡単に忘れ去られてしまっているかのように見えるのか。街のどこを探しても、あの空襲の痕跡は見出すことあたわず。年老いた体験者の記憶の中にのみ残り、それも消え去ろうとしている。語り伝えることもなく。日本人の最も悪しき体質ともいえる何事も忘れ易いこと。自ら始めたのか、始めさせられたのか分からない太平洋戦争で、あれほどこっ酷く叩きのめされたことも、広島・長崎のピカドンのことも、シベリア抑留で6万の兵が殺されたことも。今なお、南方の島々に110万余の遺骨が野ざらし放置されていることも。唯一国内戦が行われた沖縄においても、まだ10万の遺骨収集が果たされていないことも。
戦争責任自体の原因究明・責任追及などまるっきり気にも懸けない。戦後75年間を見ても、お上がしくじったことどもを、徹底して批判・反対したのは日米安保闘争ぐらいか。いまの学生は国会議事堂を囲むことも、いや何処にあるのかさえも知ってはいないことだろう。・・だんだん腹が立ってきた。
米軍資料によると、明石への空襲は川崎航空機を対象とする「直接攻撃」と航空機工業以外を目標とする「間接攻撃」に分けて行われた。事実、昭和20年1月19日から6月26日間の計4回の爆撃には、川崎航空の工場破壊を目的として、M50爆弾(4000ポンド)が使用された。これが直接攻撃である。米軍の攻撃目標資料には、全国で8箇所、AOMORI・TOKYO・HACHIOJI・NAGOYA・AKASHI・IMABARI・OITA・UBEと光栄にも記されている。正に地獄への特別切符を持たされたようなものだ。しかし、そのことの重大さに気がついていた明石市民はほんの一握りであったろうと思う。いや数人か。
幕末・明治の時代は、考えてみれば、まことに多様性に富んだ時代だったとおもわれる。それが凝縮した場所がお江戸でありました。そのうえ薩摩・長州・肥前・土佐と、これが同じ国に同時に存在するのかと、目を疑うばかりに、なにから何まで異なった邦が鎬を削った時代。こんなバラェティは世界史上類をみないといっていいのではないだろうか。そんな、熱い熱いカオス(混沌)の中から、良いも悪いも
明治のリーダーがうまれて、次々と良いのが脱落したり、死んだりしてゆき、太政官政治という、権力の交代のみの結果となった際には、脇侍ばかりが残る結果となった。もっとも、今の時代はもっと酷くて、最初から脇侍ばかりといえる。いや侍といえる存在さえ無いのではないかな。・・との司馬先生のボヤキが聞こえてくる。
司馬遼太郎・本名福田定一は旧制大阪外国語大学・蒙古語科在学中に学徒出陣となり、兵庫県加東郡河合村(現在の小野市)青野ヶ原の戦車第十九連隊入隊を手始めに、満州四平の陸軍戦車学校を経て、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第5小隊長となる。しかし、本土決戦の虎の子部隊として、新潟県さらには栃木県佐野市へと盥回しされたという。その体験を通して、当時の旧陸軍に代表される、まったく悲惨な結果を必然的に招いた日本の体質の馬鹿馬鹿しさを痛感され、それに較べれば、前述の維新後50年までは、なんとか夢をもって書きえた時代の最後であつたのでは。
日本人の悪い癖は、良きにつけ、悪しきにつけ、もたらされた結果に対して、真剣に向き合って徹底した反省・検討をしない点である。特に太平洋戦争に関しては、日本海海戦で大勝により、かろうじて戦勝国の名を得た後、国民は浮かれるにまかせて、道を誤り、大和魂という幻想に頼り、科学的研究を怠ったその上に、戦力逐次導入という戦術上最大のヘマをやらかし、おまけに兵站を無視した地獄へと、兵を追いやった。・・・司馬先生は周りから昭和史は書かないのですかと訊ねられた際、君は僕を殺す気なのかと返答したと言われる。何度か試みようとされた痕跡があるなかで、とくに太平洋戦争そのものを描くことは、その経緯・内容どれをとっても正気では書き綴れたもんじゃない。それほどの悲惨をもはや忘れ去っているとしか思えない今の我々。・・・本当はそう言いたかったのではないのかな。
司馬先生は、この時代を書かなかったのでなくて、とてもじゃないが書けなかったというのが本当だろう。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)