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 長宗我部元親が人変わりしたのは、秀吉に命じられた島津征伐にでかけた戸次川の合戦で、長男・信親を戦死させてからだといわれる。
この信親の死後、早速家督争いが持ち上がる。この時、元親は二男・香川親和、三男・津野親忠を飛び越えて四男・盛親を後継ぎに選んだ。それも信親の娘を盛親に嫁がすまでして。
結果、二男親和は憤死、三男・津野親忠は香美郡岩村に幽閉されてしまった。
この際の、元親による盛親承継反対派の粛清は凄まじいものだった。
多くの重臣を失った事もあって、盛親はその後、謀臣・久武親直にその判断を左右されていくことになる。
さて、関ヶ原の際、元親と家康の繋がりからいえば、当然家康に味方する立場にありました。事実、お味方するとの密使を多数発したが、ことごとく石田三成配下の長束勢に捕らえられてしまい、その意を伝えられなかった。
仕方なく西軍の一員となった盛親は6600の軍勢を率いていたといわれる。その盛親はよせばいいのに、緒戦伏見城攻略戦に、毛利秀元・吉川広家・小西行長・長束正家ら4万の軍勢で伏見城をせめて、家康の宿将・鳥居元忠を自害に追い込んでいる。
肝心の関ヶ原では、まったく戦意を見せず、戦場を逃げるようにして、土佐まで帰ってしまった。
さて、東軍家康の勝利となって、逃げ帰った盛親も、家康のもとへ許しを請いに行かねばならぬとなった時、謀臣・久武親直が「津野親忠公が藤堂高虎を通じ、家康に話をつけて、土佐半国を拝領する仕儀になっている。」
と囁いた。これに盛親は兄を亡きものにしてまで自分が生き残ろうとは思わないと断じるが、結果は、親忠を岩村・考山寺に囲み、自害に追い込んでしまった。

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 土佐の海の幸を存分に味わった翌日、いよいよ我が家の菩提寺である元亨院(げんこういん)での供養へと向かう。
元亨院の名前は、随分と子供の頃から聞かされていて、今迄不思議と一度もお参りしたわけではないのに、何故か懐かしい場所に戻るような心地を感じる。
ここ元亨院は、津野氏十五代英主・刑部少輔元実公の菩提寺として永正二年(1505年)に開かれた。
津野氏歴代のの菩提の弔いと領地守護のための寺であるそうな。
親父の数ある故郷の話のなかに、津野の名の由来話があって、とくに曾爺久万吉が親忠公の弔祭には羽織袴姿でお参りしていたことなど、その当時は何気なく聞いていた事柄が、その後、学んだ歴史上の事跡と結びついていくにつれ、親父のささやかながら、深い誇りの一端としての事柄から、今や自分自身の存在理由へと高まって来た歴史上の事実を実感する場所なのです。
土佐の戦国七雄・津野氏は中村の一条氏、長曾我部氏両者の圧迫を受け、津野氏最後の当主・勝興の養子に長宗我部元親の三男・親忠を迎えることにより、辛うじて家名存続を図りました。
親忠は幼少より秀吉への人質として大坂城に留まって時に、藤堂高虎と非常に親しくなったと伝えられています。
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『 後に須崎の町、今の古市町に出てお風呂屋をやりだしてからは、燃料の古材運び・風呂がま焚き・番台と山のような仕事をこなしながらも、「清志よ」と用事を頼もうと思い呼ぶうちに「良し来た」とその要件も聞かぬうちに飛び出して行くような子だったと聞いて、どこやら我が家の三男の様子に似ていて、これも隔世遺伝にかわらん。親父が同級生に番台を代わってくれとせがまれて困ったといっていたな。』
この番台話はいろいろあって、同級生の女子が風呂に入りに来ると、目のやり場に困ったこととか、実際男の持ち物も千差萬別だが、女性もイロイロだったというのがくちぐせだった。
親父方の爺さんがお風呂屋ならば、お袋方の爺さんは散髪屋さんで、どちらに転んでも皆様方の垢を頂いて暮らしを立てていたわけだ。
『この風呂屋を開く一方で、朝日新聞の新聞配達店も手掛けていたらしい。
それというのも、親父は尋常高等小学校を卒業したあと、なんとしても上の学校にすすみたかったが、家がそんな状況ではとても学費がいる学校には行けない。とすれば、師範学校へ行けば勉強しながらお手当てもでると聞いて、勇躍受験。結果は不合格となって落ち込んでいるとき、水産学校も官費で行ける事を知り、これには合格したらしい。
チビで痩せぼしの親父が、しゃかりき頑張ったそうな。なんとかみんなに追いつき、追い越さないことには気がすまなかったんだ。
特に教練の遠泳がきつかった。とうとう心臓弁膜症を発症して寝込んでしまう。
叔母もこのときには、「清志ちゃんがもういかん」と覚悟を決めたそうな。
この時、次兄の良幸兄が高知から心臓病の名医といわれるお医者を招いて最後の診察をお願いした。
医者曰く、家に置いていては碌な治療も施せないとなって、入院するのに、親父を布団から持ち上げることも心臓に応えて出来かねる。ついには床下に潜りこんで、床板を切り取り、畳ごと持ち上げて、やっと運んだという。
このかい有って、一命を取り留めたと。この話をする度に、よくぞ助かったものよと何時も言葉を詰まらせた。
この治療とあとの療養が大変だった。莫大な治療費捻出のために新聞店の権利を売り払って賄った。
当分寝たきりの下の世話を快くしてくれたのがすぐ上の末子姉だった。
このことから、親父がこの両兄姉を大事にすることったら、息子の目から見ても、徹底したものだった。
それほどの難病を克服できたのも、この両兄姉のお陰だったと聞かされ続けた。
このことを叔母に話すと、ちょうど姉やんは離婚して帰ってきたときだったと話す。そしてこの経験からか産婆さんの勉強をして高知で産院を開くことになったとも。叔母が姉に勉強を随分と教えたがよと懐かしんだ。

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『中土佐町の黒潮本陣は評判にたがわぬ風格と設備で、まるで 土佐戦国七雄の頃の海城の趣きがあります。
その紋からして星三つの下の一の字を飛び魚の泳ぐ様にデザインして秀逸。これは明らかに津野氏の家紋を拝借したものにかわらん。
広々と海を見晴らす露天風呂は源泉かけ流しとかで、海底からの湧出のためか、随分としょっぱいお湯の味がします。
さて、土佐の海幸満載のお料理を頂きながら、肝心の親父の子供のころの話を叔母から聞くことに。
九人兄妹の末の2人となれば、八十五歳の婆さんの口から出てくるのは、三歳違いの親父にヤラレタ話ばかり。
終いには「清志ちゃん、死ね」とまで思っていたと言い出す始末。
まっことキズは深いねや。
たしか親父たちの祖父の代までは、新庄の在所から須崎の町へ出るのに、他人の土地を踏むことなく行けた程の豪農で、競馬馬の2・3頭も飼っていた、たいそうな身代を、私達の祖父はあれや・これやのアイデア・思いつきにまかせて「やり狂って」とうとう莫大な財産を使い果たしたそうな。
親父の尋常小学生の頃には正に赤貧洗うが如しのあり様となった。
たとえば、新庄川に有料丸太橋を架けたところ、たちまち洪水に見舞われてパーになったことがあったとさ。
時あたかも日露戦争真っ最中、国有林の払い下げに応じて山の伐採権を取った所までは良かったが、人手不足でろくに切り出しも出来ずに大損をこいたとか。
弟と玄界灘へ漁船を構えて漁に出たところ、大変な時化に遭遇、命からがら逃げ帰ったとか。
挙句に、中学出のインテリゆえ代書屋を始めたところが、代書が行きすぎて、ながらく未決に放り込まれたとか。・・・失敗談を数える暇もない。なにやら私の事を言われているようで、きっと私は「祖父の血を受け継いだに変わらん。」と苦笑い。
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 PS 先日もお邪魔した「ひろめ市場」。その名前の謂われがどこから来ているのか、なにしろ明石生まれの俄か土佐っ子には分かりかねて、4・5年前には姫路のダイエー後にこの「ひろめ市場」がオープンした際にも早速出かけてお店の人に名前の由来を聞いてはみたが、誰も知らなかった難物でした。
それが偶然にも今回のよさこいでやっと判明した。
曰く、幕末土佐藩家老・深尾弘人(ひろめ)の屋敷が有ったことから、地元のひとはこのあたり一帯を、ひろめ屋敷とか、ただ単に「ひろめ」とか呼んでいたとか。そしてこの地にオープンしたごった煮市場を「ひろめ市場」と名付けたとのことだつた。

『スモーク人間にされた翌朝、早々とチェックアウトして、前日注文しておいた夜須駅の名物・アワビ飯を受け取り、高知駅でその朝高速バスでやってくる妹をピックアップした。
叔母の家は寺田寅彦記念館の近くにあって、尋ねると待ちかねていたかのように飛び出してきた。
永の御無沙汰をお互いに言い合ってさあ出発。
叔母は思いのほか元気元気で一安心。近況を報告しあって今回の旅の目的を告げた。
まあ私が憶えているバアの事を話すのは容易い御用とご機嫌だ。
須崎に向けて行くのに横波におわす武市半平太像を訪ねて行こうとなって、車を春野方面に。
すぐにお昼時分。この為に用意した夜須・アワビ飯をちょうど通りかかった宇佐海岸・竜の崎海浜公園のベンチで頂くことにした。
眼前、いかにも長閑な太平洋を望み、心は洋洋と解き放たれた心地。宇佐すなわちUSAと書いて、地元の人はちょっと自慢げ。
武市半平太と肩を並べ、横波を抜けると古里・須崎はもうすぐ。
今や、高知道延伸で大人気の道の駅「かわうそ須崎」に立ち寄ってみる。
たしか親父の口癖は新荘川でかわうそと泳ぎ比べをしただったことが思い出される。
多分そのころはそれほどたくさんかわうそも居たに違いない。フリチンで走り回る姿が目に浮かぶ。
明日は[津野」ゆかりの元亨院での両親の供養をお願いして久礼の「黒潮本陣」へと向かう。』

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