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(出番を待つ弘子ちゃん)
この年、明石高校OB吹奏楽団としては、OBメンバーだけでの編成でコンクールに臨んだ。私の方は会場が岐阜ということで、辛うじてリーグ戦とのバッティングを回避できての参加となった。そのころのサッカー部の状況は、昭和29年の1部から2部への転落。昭和35年の2部から3部への転落を重ね辛い辛い3部暮らし。小林・堀川両主将ともどん底のチームを率いて、悲願の2部復帰を目指して奮闘力戦された姿は忘れられません。幸い昭和38年のリーグでは4回4人・3回5人のメンバーに恵まれ、3勝2分けで優勝を飾り、2部との入れ替え戦を阪大と戦うことになりました。場所は大阪・靱公園グラウンド。ちょうど大阪駅前梅田地下街が完成開業となった時。なぜかグランドに母親と弘子ちゃんも観戦に現れ、帰りに梅田地下に寄ろうなんて気楽なことを考えていたようです。ところが、この入れ替え戦が0-0の引き分けに終わり、再試合を京都・京極グランドで行うこととなりました。たしか一週間後、京極会場で行われた再試合。前半終了間際か、RWで走り回っていた私が、ハーフラインそれもセンター近くでこぼれ球を拾い、前線の吉田尚RIにパスすべく、大きく蹴り出した球が、なんと吉田さんの頭上をはるか飛び越えて、ゴールに向かって大きな弧を描いた。その時の阪大のキーパーは忘れもしない青山さん。たぶんかなり前目にポジションを取っていたに違いない。我が執念の籠った球は、なんとキーパーの必死にジャンプして差し出す手の先を飛び越えて、バーの下を掠ってゴールしてしまった。これには蹴った本人が頬をつねるぐらいの驚きで、グランドは一瞬静まりかえったのち、商大応援の一団から歓声が湧き上がった。このゴールを切っ掛けに、小嶋さん(3回)、大小田さん(4回)のゴールも決まり3-0で勝利を収め目出度く2部復帰(昇格ではなくあくまで復帰です)を果たした。これが記憶に残るゴールその一であります。
一方、コンクールは指揮者が一年上級の阪大生・青山正氏のもと、自由曲・序曲「ウイーンの朝昼晩」(スッぺ作曲)を引っ提げて参加。昭和38年(1963年)11月10日岐阜市民センターでの大会で余裕で見事優勝を飾った。
事実、大阪発夜行・日本海に夜8時ころの出発だったか、日本海側を一路青森目指して北上する列車中のなんと長かったことか。青函連絡船も十分時間がかかりました。そんな長旅にも拘らず、皆元気一杯で臨んだコンクールは、有永正人先生好みの選曲で、歌劇『ファースト』から、ヌビア人の踊り、クレオパトラと奴隷達の踊り、フリネの踊り(グノー作曲)。これまでのグランドマーチではいくら完璧な仕上がりでも、難易度において見劣りした経験から、我が楽団のもうひとつの特色であるエバーグリーンハーモニーと歌心を前面に打ちだした、会心の選曲でありました。バレー歌曲でありますから、今回はわれわれブラス・ラッパ隊の派手な活躍の場面はなかったが、より高度な音楽性を求められるものでした。
会場は室蘭富士製鉄体育館。昭和37年(1962年)10月28日。結果 一般の部・優勝でありました。
とくに我がトロンボーンパートは、私が1STで弟啓三が3RDを担当。このとき以来、大津野・小津野と呼び分けられるようになったとか。このときの登別での祝勝会・大浴場混浴事件は2008.8.8の項参照してください。
登別で本隊と別れて、トンボ帰りに東北本線を西下。早速サッカーの練習に参加・復帰いたしましたとさ。
この年、あろうことか関西勢がコンクールの全部門を完全制覇するという快挙を達成した。これを記念して翌年正月15日宝塚大劇場にてアマチュアトップコンサートが開催され、近くに住んでおられた小林先輩に聞きにきてもらったことを懐かしくおもいだします。
そんな出会いもあって、大学1年はサッカー部入部とOB楽団の練習へと、いそいそ通う誠に健全な生活を過ごすようになりました。
サッカーでは三大学(神戸商大・岡山・広島)定期戦があり、地獄の夏合宿があって、あっという間に、秋のリーグ戦をむかえる頃となりました。ポジションもRWの定位置を貰い、授業には出なくとも、練習は欠かさないという模範的なサッカーマンへと変身。ラッパのほうは腕に覚えありで、余裕のよっちゃんであります。しかしここで大問題が発生。このままOB楽団がコンクール(このころ兵庫県大会・関西大会・全日本大会)と勝ち進めば、今年の全国大会は北海道・室蘭とのこと。もろ試合とバッテングとなります。いま思い出すに、結局全日本まで勝ち進んで、事実2度目の全国優勝を飾っていることから、小林主将に泣きついて一試合抜けさせて貰ったに違いない。この大会の写真・プログラムが手元になくて、弘子ちゃんのアルバムから写真二枚拝借した。女性五人で写っている前列左が彼女。そう登別の温泉浴場で裸を見そこなったうちの五人です。
1月15日を期して受験勉強再開。ただちに明石高校3年時担任の住田圭司先生にどっさり内申書を書いていただかねば。特にこの年は、記念受験を兼ねて慶応経・商、早稲田政経・商も受けるつもりで、地元の関西学院経・商(なんのこっちゃ)をいれると10通はお願いしたかな。年が明けると恒例のように内申書を頼みにくる、大変迷惑を掛けたもんです。さすがに、3年目ともなると、受かっても落ちてもこれが最後の内申書になることは先生も私も心得ている。後に余った内申書を開けて見てみると、かなり下駄を履かして下さっていた。むろん内申点などなんの足しにもならないことを承知で、馬鹿な生徒ほど可愛いわけはないが、慮って下さっていた。
関学経・商の受験を終えて、東京へ。そのlころの東京行きは専ら国鉄で、たしか行きは「急行 いこま」に乗ったと思う。新橋の第一ホテルに宿をとり、慶応ー早稲田の順に、ピーカン(たばこピースの缶入り)片手に受験行脚。もちろん合格は望むべくもない。宿もそうそう第一ホテルというわけにいかず、安宿にかえてすごしたのかな。東京にいる間に関学の発表があって、経済学部合格。この時は嬉しかったね。なにしろ行く先が出来たんだから。もちろん親父に入学金振込を頼んだことだ。帰りは夜行急行・銀河だったか、舞子駅に降り立つと両親が車で出迎えてくれっていて、サンドイッチと熱いコーヒーの用意がしてありました。やっと行先もあり、かなり気分も軽くなって商大・高丸へと向かった。
ここからのことは、2008.8.5案内文小文復刻⑥に書いた。思いがけず受験の際、国語・英語・数学でかなりの手ごたえがあり、母親にだけは、もしかしたら通っているかも等ともらしていた期待が現実となりました。
関学に払い込んだ入学金もフイになったがそれも仕方がない。関学とはトコトン御縁がなかったんだ。最近では関学を滑って商大にくる生徒が多いとか。どうなってしまったんだろう。
昭和36年11月12日(日)ところは東京都台東体育館。今その時のプログラムを見直してみる。
全日本ともなると、審査員からして日本の音楽界の最高首脳クラスが名を連ねる。理事長・堀内敬三氏、朝比奈 隆氏、金子 登氏、辻井市太郎氏、山本正人(東京芸大・トロンボーン教授)と知った名前だらけだ。
ところで、重大な間違いに気がついた。昭和33年両国国技館で聴いたと信じ切っていたギャルド・レプブリケーヌはこの時の賛助出演となっている。改めて訂正お願いします。
特徴としては、この年から大学と一般の部がそれぞれ独立した部門となった。意外なことに、大学関西代表は関西大学応援団吹奏楽部で、あの常勝と思っていた関西学院ではなかった。それも2位に終わっている。
そして仇敵蒲郡は中学OBではなく、いち早く市吹奏楽団へと進化していて、今回も優勝旗をかっさらっていった。我々は全国7代表中2位の成績を収めた。急ごしらえながら、久しぶりに夢中でラッパをふいたのが効を奏したのか、かなり頭脳の働きが活発になってきたのか、昭和37年正月15日成人の日から、勉強再開となった。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)