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 なにせ親族一同が集まる機会を捉えては津野なるものの謂れを説くのに忙しい。
今回も甥っこ連を捕まえては「津野の人」高僧、義堂・絶海の凄さを話して聞かせる。
新年会は従兄妹が一堂に会するのがホント久しぶりとあって盛り上がり、話は尽きない。
そんな中、ふと見ると、我が総領孫小学2年が弟の息子に無理やり覚えたての将棋の相手をさせ始めた。
勝負はたちまちのうちに着くだろうと様子をうかがってみるが、おもったより手間がかかっている。
真剣な面持ちで盤上を睨んでいる甥っこを前に、寝転がったり余裕の孫ちゃん。
勿論、孫ちゃんの負けで終わったが、ふと気が付いて写真を撮っておくことに。
孫の相手をしてくれている甥っこは、今回はるばるボストンから帰国中。
自慢じゃないが、我が一家の教育水準の高い中でも、ダントツで、灘中・高、東大医系、院と進んで、今ボストン大学で研究員として研鑽中だ。
会うたびになんの研究をしているのか尋ねるが、すでに我々の理解をはるかに超える領域の話で、さっぱり分からない。しかし常々、私が会うたびに質問している人間の自意識とは何ぞやとの答えが出てきそうな研究であることは分かる。どうして私が私なんだという素朴な疑問に。
主に、人間の嗅覚から脳細胞への伝達の不思議を解き明かすユニークな研究で、ノーベル医学賞も夢ではない。いやきっとそのレベルまで到達すること間違いありません。
そんなお兄さんを相手にしているなど孫ちゃんが知る由もありません。
この写真は20-30年後、ノーベル受賞者の若き日のエピソードとして遺して置かなくっちゃ。
ところで、盤面の展開を観てみると、今日は天才のシナプスの調子があまり良くないようだ。
CIMG1011A.jpg




















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 津野興亡史を現代語に訳する気持ちが高まってきたこともあって、では我々の現勢はどうかと自問。
祖父に始まるささやかな津野一族のその後を調査するためにも、まずは9人兄弟の5男である我が親父一家の家勢を調査報告することに。
親父夫婦は2男1女をもうけ、それぞれ3・2・3人の孫が生まれた。その孫に現在4人の子供が誕生。
親父からすれば、子供3人、嫁婿3人、孫8人、孫嫁婿4人曾孫4人となっています。
親父の親父が結婚70年で総勢104人であったのと比べるべくもないが、総勢22人。
まだ未婚の孫が4人残っているので、35人ぐらいが目標となるんだ。
最年長小生68歳から弟の孫3ヶ月まで、顔を揃えたこの2日。早速集合写真をパチリ。
我が二男ファミリーが孫の急な発熱で帰明出来なかったのと、弟の娘婿が里帰りで欠席となっている。
CIMG1037_editedA.jpg




















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 これもある意味、津野興亡史の片隅にあっても良いのではないかと考えていたのが、津野の家勢調査。
その基になるのが、昭和38年。祖父母の結婚70年を記念して須崎の本家に親族一同が会した際、親父の清志さんがその場で作成した系図写真です。
襖に押しピンで止められた模造紙に大書されている祖父母、信太郎・政に始まる一族の系図。
9人の子をなした祖父母は、この時点で、9人の婿・嫁を得てそれが34人の孫を成し、その孫に16人(写真では17人)の連れ合いを得て、曾孫が36人。総勢104人、どこかで聞いたような数字です。
それと驚くのは、親父が付けていた備忘録に、お店の売り上げから、借金の返済状況まで詳しく書かれた末尾に親兄弟から甥・姪からその子たちまで、克明に生年月日が記されていることです。
幼少の頃お袋に、この親父は、親に持つより伯父さんに持つ方が良いんじゃないの等と減らず口を叩いたほど、故郷孝行をしていた親父らしいと言えばそうなんだが。
これによると、長兄清寿とは21歳と親子ほども年が離れている。この長兄が出来者で、まだ家運も隆盛の頃、旧制中学を兄弟でただ一人終えて、確か満州鉄道の関係でなかなかの羽振りだったとか。
その長兄を頼って東京へ押しかけ、挙句冷たく追い返された途中、電車賃にも事欠いて転がり込んだのが、当時明石税務署勤務だった兄四郎宅だった。これが明石との因縁の始まりだつた。
そんな経緯もくみ取れる系図写真を見つめなおすうち、この系図に書かれた人についても詳しくは知らないのに気付く。ましてや46年経った今、この系図がどう広がっているのか知りたくなってきたのは当然のこと。
来年のブラジル行きも大いに関係していて、確か昭和14-15年神戸から笠戸丸に乗ってブラジルへと移民した次姉一家を見送った話も思い出す。この姉・鶴子さんは同じ津野姓に嫁ぎ、ブラジルに渡っている。
親父の兄弟はすでに末子の叔母独りを残すのみとなったが、今のうちにもう一度、家勢調査をやっておかなければ。
CIMG9792A.jpg

























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 このブログで重ねて津野親忠公の史実を書いておりますが、その根拠は深尾叶氏著の津野興亡氏に依ってている。出版が大正4年11月30日。その復刻本が平成3年11月須崎史談会から発行され、それを入手した。
この津野興亡史は確か高知新聞に現代訳されたか、何方かに再編されたかして連載されていた覚えがあります。
まずはこれの確認と、もしなければ、徒然なるままに現代訳、創作をしてみようと永年思っている。
全26章からなっていて、220ページに及ぶ。各人の来歴詳細におよんでいて、貴重な資料といえます。

CIMG0455A.jpg

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                                                                                                                                                                                   CIMG0119A.jpgCIMG0160A.jpg                         















昨晩、雲の上のホテル・温泉で同じ湯船に浸かった仲故か、三嶋神社の社内に前田稔副会長様が構えてくださった観覧席の真前、囃子方のすぐ後ろに、紛れもない吉村作治早大教授が座っておられるのを見かけ軽く会釈を送る。何ゆえの吉村教授かと、昨日のブログでぼやいたのを、須崎の津野本家・洋史君が気にかけてくれていて、先ほど、わざわざの電話で、今日の高知新聞の記事にそのことが書いてあるとの報告をくれた。
その内容は、テレビ高知の企画で、「日本の祭り2008」という特集があり、吉村先生はそのメインキャスターとして24の祭りを回っておられるとか。・・これで合点がゆきました。
 そういえば、神楽の前後・最中しきりとテレビカメラが動いていて、あれはおざなりの取材クルーではないなと見ておりました。神楽が終わってからも、門前で見物帰りのお客を捕まえては、インタビューをしている。早速取材ネタを差し上げねばと歩み寄り、「実は今日、この津野山神楽を始めた津野氏の末裔である津野一族が、神楽を拝見に集まっており、今から社前で記念写真を撮るところです。」と語りかけた。素人が考えても、これ以上のネタはありません。1100年の時を越えてなお遠祖を敬う心持こそめでたけれだ。
 西内の叔母と妹が早速インタビューに捕まっていた。なにを聞かれたか長々とおしゃべり。門前を去ろうとしていた私をデイレクターが追いかけてきて、津野氏のことから説明を求める。・・これはかなり力の入れようが違う。きっとまとまった番組として取り上げるにちがいないと感じて、ひろっちゃんに新聞を気をつけてみてくれともお願いしておりました。・・・この12月7日PM4:00に特番があるとも記事が伝えていると言う。多分長短は別にして、必ず取り上げてくれるような気がしております。たまたま16人も一族が集まって、伺った時に、テレビ取材にぶつかるとは。これは御先祖様が「はるばるようきたことよ。」とのお褒めの言葉を下さったように思えてなりません。

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