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 さて、この経高は如何なる人の子孫で、如何なる罪を犯し、また、如何なる理由で土佐にやって来たのか。
之について遡って述べると、、そもそもこの山内蔵人経高は、藤原氏の出であって、祖先はかの有名な大職冠藤原鎌足公であります。この鎌足公の孫に、北家を立てた房前大臣がいて、北房前の曾孫が冬嗣、冬嗣の孫は基経で、その子が仲平である。
この仲平は、従二位左大臣となり枇杷大臣と号した。
この後、子孫の名は殆ど知られていない。
枇杷大臣の子は左衛門佐経實で、経實は、越前國今立郡山内に居住して、元慶三年に卒した。
その子が蔵人経高である。父の時代から山内に居住していたから地名を氏として山内蔵人経高と称した。
時の帝宇多天皇は、藤氏(藤原一門)が威権を専らするのを憎み、その勢力を殺ぐのに力を入れられた。
この事から、経高のような藤氏支流の者は当時非情な圧迫を受けた。
近頃まで『藤氏にあらざれば人にあらず』とまで言われるほどの時世に生まれながら、このような迫害を受け、世の不遇を嘆いていたが、その恨みは遂に恐るべき謀反を企むまでになった。
しかし、その謀み意の如く成らず敗れ去り、播州高砂浦で捉えられてしまった。
その後、伊予の國に流されて、道後の城主、河野四郎直實の監視下に置かれることとなった。
即ち、浮穴郡河上ノ庄、山内谷の獄舎に3年もの間閉じ込められていたが、宇多法皇の勢いが陰りを見せたため、直實は謹慎している経高を不憫に思っていたので、家臣・前田主殿、市川隼人の両人に命じて、その頃京都の三条に侘び住まいしていた経高の妻、高殿の宮を迎えに行かせた。
暫くは経高と高殿の宮の二人を三坂の城に住まわせていたが、まもなく経高主従10数人を土佐の國須崎に逃した。

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