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img362A.JPG戦争中は、油の一滴は血の一滴と叫ばれ、一億総玉砕と信じ込んでいた人々も、さて終戦の玉音放送を聞いて、ハッと我に帰った。向こう3軒両隣りの箍が外れて、まさに戦後の上を下への混乱戦争開始となりました。上津橋から、元の四郎兄宅に転がり込むべく、あるやなしやの家財を積んだ、3輪のバタコが上の丸への人丸坂を登る途中で、木炭エンジンが過熱して立ち往生。この光景は、はっきり覚えている。居候状態の上の丸の一室で、隣りの部屋から聞こえてくる、ふかし芋を食べている気配に気がついて、イモが欲しいとぐずる私を叱ったところ、なんで叱られるのと言った私を、情けなくて、辛くて、うだいてやるしか仕方なかったと、当分話す度に涙していた親父。同じ町内の1丁目、ちょうど山下町から明石神社への坂を登りきった辺り。荻野賢一氏宅(2階屋)の1階東半棟を借家して移り住んだのは、まもなくのことでしょう。この借家はかなり広い前庭があって、太い松の木が格好の遊び相手。鶏も犬も飼って、穏やかな日常を取り戻した。といっても、一升瓶に欠けかけの玄米を入れて、竹の棒でモミガラを取る作業は私の役目だった。なにしろ、今有名鮨店として時めいている菊水鮓もその頃は、握るネタも無くて、国道筋の店先で、アイスキャンデーを製造販売していたものです。荻野大家宅には、知子ちゃんという同い年の少女と、同じ呼び名の晋一という兄さんがおられた。友達が家先から「しんちゃん」と呼ぶ声に二人が返事して首を出すことしばしば。この晋一兄には、明石高校音楽部の先輩となり、商売上にても、出入りの酒屋さんとして、お世話とご迷惑を掛けることとなりました。そんな暮らしのなか、今だに不思議でならないことは、親父が私をこともあろうに、附属小学校に入学させたことです。明石女子師範学校の附属小として、明治37年(1904年)開校の上流の姉弟が通う坊ちゃん・お嬢ちゃん学校で、まだ既述の経緯で「さんよう喫茶」を開店したか、しなかったかくらいの頃。とてもそんな良い学校にやれる余裕が有るわけがない。身の丈以上のことに挑戦し続けた親父だったが、この仕業もそのうちの一つであったのか。その最大の原因はどうやら、四郎兄の長男常彦君が2年上で、附属小に入学を果たしていたことかららしい。兄貴に負けるなとばかりに押し込まれた私には、最初から場違いなところに入れられた違和感が、あの墜落事件を起こす頃まで付いて離れなかった。1年から4年までの小学校生活はほとんど記憶にありません。まず附属幼稚園の試験に滑り、小学校の入学試験に合格した晩、母親がようやったね、おめでとうと用意してくれた饅頭の味を除いては。・・それともうひとつ、あれはたぶんそんな夢うつつの日常のことか。近くの雁が池の辺りにトンボ採りに弟啓三をひきつれて出かけた際、見事な鬼やんまを見つけ、追いかけたはいいが、足元を確かめず、ちょうどプールサイドのような壁になっていた護岸を踏み外し、池の中に真っ逆さまに飛び込んだ。(よくよく飛び込む運命か)その時の緑色した水の色、口から吹き出す泡の激しさ、耳元で響く水音、それでも網を外さず持って、アップアップするしぶとさ。弟はびっくりこいて家に急を告げに走っていった。あたりには誰も人影もないとおもった瞬間、長い棒のようなものが眼前に差し出された。もがきながらもその棒に手がかかった時の嬉しさといったら。麦わら帽子を被ったおじさんの太い腕が体を引き揚げてくれた。あのときのあの救いの棒はなんだったんだろう。うろ覚えながら、おじさんの背後には大きな桶が3台乗せた荷車が有ったっけ。あの命の棒は肥桶の柄杓だったにかわらん。

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CIMG8400b.jpg4歳にして、大空襲を逃れて拾った命を、もう一度拾い直すことになろうとは。よくよく、運に恵まれた男に思えるが、常に「不幸中の幸い」としか言えない『運』に恵まれ続けた60余年といえる。
この6月27日、東京都杉並区第10小学校の屋上天窓から、小学6年生が転落して死亡との悲惨な事故が報じられた。天窓は強化プラスチックのドーム型で1Fまで、吹き抜けで、高さ12M以上とか。屋上での授業を終えたあと、天窓に乗って遊んでいたらしい。死亡した少年は運が悪かったのか、それとも12Mを転落すれば、人間はとてもじゃないが無事でおれないものか。
 あれは小学4年のこと。秋の運動会の予行演習があった日の昼休み。屋上でお弁当を使って、さあ
運動場に戻ろうとした伸一少年は、まあいたずら盛りもいいとこで、ヤンチャそのものの性格の持ち主。
屋上搭屋の階段手すりにお弁当箱を乗せて、滑らして遊ぶつもりが、手加減を誤って手すりの向こうに落としてしまった。階段下で弁当箱が大きな音を立てているのが聞こえてくる。思わず、手すりに身を乗り出して下を覗こうと、飛び上がったところまでは何とか覚えている。・・気が付いた時は、校医の西井外科のベッドの上だった。猛烈な前頭部の痛みと、絶え間なく吐き気が襲ってくる。頭はガーンと音が鳴り響いたまま。もう何が起こったのか理解できない。・・・しばらくして、親父が駆けつけてきてくれた。嬉しいながらも、なにかとんでもないことを起してしまってすまない気持ちばかりが湧いてくる。西井先生とのやりとりが聞こえてきた。「幸いひどい内出血はないようだが、今夜熱が出るようだと、命の保証はできかねる。なにしろ頭を冷やして安静に。」・・そのままベッドに寝転んだ状態で考えてみるに、どうやら3階から階段を落ちたらしいことが分かってきた。・・今も目を閉じてこれ以外のことを思い出そうしても、まるでサッパリ思い出せない。覚えているのは、事故後学校に行きだしてから、友達が事故の状況を色々教えてくれたことばかり。なかでも同級生の桑山壮一(故人)のお姉さんが1階の階段を2・3段上がろうとしていた足元に、黒い塊が落ちてきたとおもったら「つのしん」やった。あと少しのとこでお互い頭がぶつかり悲惨なことになっていたかも知れないという話は、聞いている本人にとってショックそのもの。下から7段目ステンの滑り止め金具が貼り付けてある階段の角に頭から真逆さまに落ちて激突した。オデコの左側、手でさするとあのときの特大たんこぶの名残が感じられる。・・何しろ気分が悪かったなあ。
 上記の記事の12Mと言う高さが気になって、いったい俺はあの時、何Mを落下したのか確かめないと 気が済まなくなってきた。7月7日午後2時ころ、神戸大学発達科学部附属明石小学校の校門をくぐる。守衛さんに来意を告げて、先生につないでもらう。入校証を胸に付け、教員室に向かう。事情を話すとあきれたような表情を浮かべて、副校長に取り次いでいただいた。副校長平山順一先生は、その昔我々が習った威厳に満ち溢れた清水一郎先生・石井三郎先生と違い、今時の感じのいい先生です。
廊下は授業の合間だったか、生徒があふれ賑やかなこと。どの子もさすが附属の生徒、いいとこの坊ちゃん・嬢ちゃんばかりと見受けた。
 平山先生に案内頂いて、墜落現場へと急ぐ、といってもおもったより校舎は狭く・小さく感じる。一階7段目のステップを確認して、上を見上げてみると、身体一つが通り抜けるくらいの空間が吹きぬけている。あの記事と一緒だとおもいながら、2階・塔屋へと登った。屋上はその昔、シミキン(清水一郎先生のあだ名)に事あるごとに叱られて罰として、何回も往復走らされた思い出しかなっかたが、まあなんとこんなに狭いところだったとは。ちょうど落ちたとおもわれる手すり際から、用意の鳴子を重石にした
紐を垂下げる。紐はどんどん繰り出して8Mのところで鳴子の音がした。ああ8Mを勢いよく頭から飛び込んでいったわけだ。まさにダイビングしたと同じ。
 よくもまあ命が有ったもんだとの思いがわき上がってきたのは、車で帰る途中から。俺の命は確かに
あの時終わっていても何の不思議もなかったこと。それを思うと、生きていたばかりにいらぬご迷惑をかけた人々に申し訳ない気持ちが湧いてくる。と思えば、せっかく拾った命だ、完全燃焼しないことには申し訳ないとも思い返す。
 後日談としては、当分学校の話題となり、連日上級生がわざわざ教室まで、顔を見に押しかけてきたこと。そして、この事故後、不思議なことに伸一少年の成績が人が入れ違ったかと言うぐらい良くなって、6年生の卒業写真では我ながらキリット賢そうな少年の姿に。・・これが我が人生の『不幸中の幸い』第一号。

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img363A.JPG少々世間を騒がせた顛末で所帯を持った清志さん(きよっさん)は意地から西新町の源床の町内に新居を構えた。勤務は新浜の鳴尾組とあれば、チャリンコでものの5分とは掛からない。11月22日に私が生まれて、12月8日が真珠湾攻撃・日米開戦、風雲急を告げる騒然やる世情のなか、どんな気持ちで日々暮らしていたのか。そのころの明石は昭和12年川崎重工の飛行機部門が独立した川崎航空機工業株式会社・通称川航を中心とする軍需産業。とくに戦争の勝敗を決する飛行機の重要生産基地として軍需景気盛んでありました。親父の古いネガブックから、そのころの西新町での露地で遊ぶ私のオムツ姿に並んで笑っている次兄良幸の長女・伊津子、長男の敦志の姿がある。同じく軍需産業で船舶タービンを製作していた「きしろ」に勤務のため、須崎から一家あげて明石に来ていたにかわらん。最初は連戦連勝で提灯行列など繰り出していた戦況も、ミッドウエイの負け戦から、調子が狂いだした。そしてB29による本土爆撃が始まると、真っ先にこの川航が狙われた。南から侵入してきたB29が淡路島の松帆灯台の上空で、豆粒のような黒い塊2つをポロリと放つ。それがしばらくすると、轟音を発して明石の川航一帯を目指してまっしぐら。それも民家・住宅を焼くための焼夷弾ではなく、生産設備破壊のための1トン爆弾である。このため川航の社員はもとより、動員されていた(総員10,000人)、明石中学・明女等の学生多数。また目標をそれて町に降り注いだ爆弾で多数の市民が犠牲になった。上の丸のある一家は防空壕に1トン爆弾が直撃し、一家全滅となった。特に昭和20年7月6日の歴史に残る明石大空襲は市民を狙った無差別爆撃で、町のほとんどが焼かれ、明石公園に避難の人々が殺到し、そこにも爆弾が雨と降った為傷つき逃げ惑う人々の焼けただれた皮膚が、松の木の幹に数え切れないほどへばりついていたとの記録があります。我が家は源床のお客であった、今の西区、そのころの明石郡玉津町上津橋の農家の納屋へ疎開していて、4歳の記憶に遠くの山の向こうの空が真っ赤に見えた光景をいまだに覚えている。その納屋で弟啓三が生まれたのが、8月5日。そして15日の終戦を迎えることとなる。後に貧乏の苦労をかけた母親がしみじみいうことに、「貧も辛いが、戦争だけは二度と、まっぴら御免。」

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清志親父にとって、錦江ホテル勤務から始まる明石の地での皆様との御縁は、その後も途切れることなく、まるで阿弥陀くじの糸を辿るように、附かず離れず生涯を通してのお付き合いとして、熟成されてゆきます。錦江ホテルOWNER明石の財閥・古谷家はその後ホテルを手放しその跡地は播陽幼稚園(匠園長)となり、つい最近明石勤労会館に姿を変えた。その御子息古谷錬太郎氏は神戸商大学部7回卒で川崎重工明石の部長様。川重明石の不動産案件について度々御助言をいただいている。錦江ホテルの次に勤めた松田文蔵商店は当時全盛のライジングサン石油代理店で重油から蝋燭や石鹸の原料も扱う商社で、下宿は長田区の尻池町辺りにあったと2号線を車で通るたびに、懐かしがっておりました。その松田文蔵商店には神戸高商生の御子息・ボンボンがおられて格好よかったんだよとも申しておりました。そのことを何気なく覚えておりましたところ、淡水サッカークラブの会長に高商1回の松田俊治先輩が就かれた総会で、松田新会長より、津野と言えば、まだ私がサッカーの現役だったころ、うちに勤めていた津野とは関係あるのかとのお話を頂いて、双方ともが親子2代での御縁に預かったことの不思議さにしばし感嘆したことでした。その後戦争直前に、OIL関係から明石の鳴尾組の経理に転じ、ここでの上役が後に明石駅前再開発を一手に引き受ける永田政市。運送の川崎航空機関連で明石組運輸の藤原巻三等の知遇を得ている。その鳴尾組勤務中、戦争も終盤を迎えるころ、重油の闇に無理やり一役かわされて、それがたちまち発覚し、戦時経済統制法にて前科一犯となった。このとき親父は首謀者とまではいかなかったが、罪を一身に被り、関連者の名前を白状しなかったことで、かなりの貸を各人に作った。このことで親父にある意味信用がついたのは確かだ。留置場に入れられている間、関係者が母親にホント良くしてくれたらしい。もちろん口止めのためだろうが、親父にすれば、留置場に入るのは須崎で賭博の現場で網にかかって以来2度目となり、そんなに慌てはしなかったと、したたかなことを言っておりました。敗戦とともに、戦時犯は帳消しとなり、晴れて親父の前科も消えて無くなったそうな。変わったところでは、伊藤悌さんの御縁(奥さまの里)から藤田修作(川航明石事務局長)・浩平(シェル石油)兄弟と知り合い、バラ展および次項で詳しく述べる「さんようクラッシックコンサート」などを始めるようになる。ちなみに、伊藤悌氏の御令嬢がかのジャイアント馬場の御令室であります。


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『さんよう喫茶』の項は2008・4・25の⑤から2ヶ月以上のご無沙汰でした。東京から追い返された親父が四兄・岡田四郎を頼って明石に身を寄せたのは、昭和10年三縄ー豊永間が開業して旧高知線区間が多度津側と一続きになって、須崎ー多度津間を土讃線とされて間もなくの頃らしい。さっそく職を探さねば居候の身は辛い。そこでどうやら最初にありついたのが、明石海岸にあった錦江ホテルの経理係。四郎兄の世話で、ついでに即席に経理の手ほどきをしてのことではなかったか。これは几帳面で器用だった親父にはぴったりの職場だった。後々まで、ホテルについては一家言をもっておりましたし、ホテル屋のセンスもこの時身に付けたものです。27b.jpg・・そして、そのホテルに我が母・光枝が、次姉の君枝とともに働いておりました。母は旧姓を井筒といい、井筒は明石新浜の漁師・網元であったと聞いておりますが、祖父源市はその頃は、旧明石市内の西に位置する、西新町で腕のいい散髪屋・源床を開いておりました。源市・しげ夫婦は都合8人の子を生みますが、全部が女の子という偏り様で、上3人が菊枝・君枝・光枝と揃った美人3姉妹で通っていたらしい。18歳で夭逝した和子、そして八女八重美と生まれるころには、源親父はどうせ又女だろうと、諦めの境地だったとか。ささやかな散髪屋であつても、男子を儲けて、跡を取らさないと井筒が絶えることになる。かくして、婿取りを考えねばならぬこととなり、上から順番に年頃になるのを待ちかねていたことでしょう。たしかに、母の上二人の姉はタイプこそ違え、なかなかの美人で、菊枝さんはほっそりたおやかな和風美人、君枝さんは錦江ホテルで明石の皇后さまと言われる程の美貌の持ち主。この姉の菊枝さんは見染められて、いやいやながら沢専治の嫁になり、君枝さんはホテルのOWNERのお母様の親戚筋で軍人の山口正雄と周りもうらやむ恋愛結婚。31b.jpg成り行き























上、母が婿を取って散髪屋を継ぐ段取りとなりました。三木の人で、腕のいい職人で源親父からすれば、打ってつけの御仁もみつかって、いよいよ結婚式をあげることになりました。そして実際、結婚式を挙げたらしい。その際の高島田着物姿の写真が残っています。が式を挙げたその晩、母は親父のもとに走った。このことを聴いたのは、私が高校生になってからのこと。まあそこまで決断を引っ張ったもんだという感想と、いやよくぞ決断したものだという感慨がありました。とりあえす、この決断がなかったら、私はこの世に生まれてはいなかった。両人は交際があったに違いなく、しかし親父からの具体的な申し出が無いまま、母が家の事情に従わざるを得ないと決心したものの、土壇場でたまらず行動を起こした。すでに神戸の松田文蔵商店(ライジングサン石油代理店)に職場を変えていた親父のもとへ奔つた経緯については、両者の言い分が違っていて、親父は母の方からやってきたとしきりに色男ぶったことを言い募っておりましたが、よくよく聞いてみますと、母の結婚式当日、親父が母にお幸せにとかなんとか電報をカマシタことが判明した。これを見た母がたまらず奔ったというのが事の真相らしい。この際、祖母・しげさんは両人のことは承知していたらしくこの一大決心を応援してくれた。あとのことは任せなさいとまで言ってくれたとのこと。その騒ぎがどう収まったのかまでは確かめてはいないが、昭和16年1月錦江ホテルで伊藤悌夫妻の仲人で挙式。新居を西新町の源床近くに構えたという。私がその年の11月22日生まれ。できちゃった結婚ではなかったことは確か。結婚に際して、須崎に帰郷、両親に母を紹介してところ、信太郎爺さんは一度式を挙げた女を嫁にせずともと、少々の異論があったとか。しかし、政婆さんの「清志が意中の人ならなんの不足があるものか」との一言で目出度く了承となったとか。 後日この一連を西新町スキャンダルと称す。

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