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img363A.JPG少々世間を騒がせた顛末で所帯を持った清志さん(きよっさん)は意地から西新町の源床の町内に新居を構えた。勤務は新浜の鳴尾組とあれば、チャリンコでものの5分とは掛からない。11月22日に私が生まれて、12月8日が真珠湾攻撃・日米開戦、風雲急を告げる騒然やる世情のなか、どんな気持ちで日々暮らしていたのか。そのころの明石は昭和12年川崎重工の飛行機部門が独立した川崎航空機工業株式会社・通称川航を中心とする軍需産業。とくに戦争の勝敗を決する飛行機の重要生産基地として軍需景気盛んでありました。親父の古いネガブックから、そのころの西新町での露地で遊ぶ私のオムツ姿に並んで笑っている次兄良幸の長女・伊津子、長男の敦志の姿がある。同じく軍需産業で船舶タービンを製作していた「きしろ」に勤務のため、須崎から一家あげて明石に来ていたにかわらん。最初は連戦連勝で提灯行列など繰り出していた戦況も、ミッドウエイの負け戦から、調子が狂いだした。そしてB29による本土爆撃が始まると、真っ先にこの川航が狙われた。南から侵入してきたB29が淡路島の松帆灯台の上空で、豆粒のような黒い塊2つをポロリと放つ。それがしばらくすると、轟音を発して明石の川航一帯を目指してまっしぐら。それも民家・住宅を焼くための焼夷弾ではなく、生産設備破壊のための1トン爆弾である。このため川航の社員はもとより、動員されていた(総員10,000人)、明石中学・明女等の学生多数。また目標をそれて町に降り注いだ爆弾で多数の市民が犠牲になった。上の丸のある一家は防空壕に1トン爆弾が直撃し、一家全滅となった。特に昭和20年7月6日の歴史に残る明石大空襲は市民を狙った無差別爆撃で、町のほとんどが焼かれ、明石公園に避難の人々が殺到し、そこにも爆弾が雨と降った為傷つき逃げ惑う人々の焼けただれた皮膚が、松の木の幹に数え切れないほどへばりついていたとの記録があります。我が家は源床のお客であった、今の西区、そのころの明石郡玉津町上津橋の農家の納屋へ疎開していて、4歳の記憶に遠くの山の向こうの空が真っ赤に見えた光景をいまだに覚えている。その納屋で弟啓三が生まれたのが、8月5日。そして15日の終戦を迎えることとなる。後に貧乏の苦労をかけた母親がしみじみいうことに、「貧も辛いが、戦争だけは二度と、まっぴら御免。」

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