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4年生の秋、階段を8m墜落したころから、なぜか勉強に勢を出すようになりました。なにしろその当時コアカリキュラムと称して戦後の民主教育の旗頭となっていた清水一郎先生に、あろうことか、親父が「ちょいと、絞めてやって下さい。」と頼んだらしく、親公認のシゴキとなりました。なぜかいやに俺にだけは念のいった絞り様。席を前後していた同じくヤンチャ者のタッスンこと田角君と両名が、「コラ、ツノ・タスミ屋上を往復20回走ってこい」等と謳うような口調で命じられる。副担当の横山先生からも目の敵。良い子と仕方のない子との色分けは、一度されると絶対変わらない。生徒の出来不出来によるのか、家庭事情によるのかよく分からないが。文化祭の劇の配役においてもその原則は守られて、右柳(うりゅう)君やアッサンは常に主役で、5年の時、大きな役を貰ったけど、野球チームのはぐれ役で、劇の最後に泣いて土下座する役回り。悲惨な思いで話は尽きることがない。
一方、シミキン(清水先生)の授業は、まさに当時最新のグループ授業のモデルといえるもの。連日全国の学校からの参観があり、教室はそれらの先生でごった返すほど。いや、シミキンには勢いがありましたね。あのタバコのヤニ臭さと、皮製の頑丈なスリッパを頻りに思い出すのは、いつも叱られるとき下を向いている目に入るのがこのスリッパで、両切りのピース御愛好ゆえに、ヤニの匂いが漂っている。
しかし、この厳しさの御蔭で、成績はこれが同一人かと疑うほどの変わり様。きっと墜落事故のせいだろうと散々からかわれました。
ちょうど4年生からは、校内競技大会が始まる。これがなぜか附小ではサッカーでありました。たいがいの小学校が軟式野球であったのに。後年その理由が分かったのだが、その当時の体育担任の吉i井生が、サッカーの兵庫県教員チームの補欠だったことからサッカーを取り上げたとのことだった。そしてこれが私のサッカー人生の始まりとなったわけです。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)