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①は、その学年の関門とやら。ドイツ語Ⅰ・Ⅱのうち一つは通つていないと3年にはなれないOUTと言うわけ。Ⅱはほって置いて、極力授業にも出席して習得に励みはしたが、試験の結果が出る前に落ちであることは明白な事実。そんな時、最後の手段として、担当教授に泣きついて下駄をはかせて貰うしか道は残されていない。ドイツ語もA文法とB訳読の2教科があって、必死のパッチで、といあえずは姫路・神戸大学姫路の官舎におられたドイツ語Aの大河内助教授のもとへお願いにあがる。恐る恐るお尋ねしたところが、勿論点は足りてはいないが、関門のこともあり、お情けで及第点をあげているよとの、天から降ってくるかのような有り難いお言葉を頂く。そうなればBの鈴木先生には絶対お願いしなければと2月の寒さつのるなか、京都の自宅までお邪魔することに。そのころ、商大の学生間では厳しい先生方を称して「鬼の成瀬に仏の鈴木」との言い伝えがありました。サッカー部でも代々の科目ノートが受け継がれていて、この先生ならこの10年このノートとおなじ事を言うだけだから、サボって練習に出て来いというわけ。その先輩連が口々に、鈴木先生の仏とは、学生を仏にしてしまうことからきているのだよとわざわざ教えてくれる。仏のように優しく救ってくれるわけもないとのこと。しかし、私にしたらそれで諦めるわけにはいかないわけがある。ここでもう一年だぶるようであれば、今つきあっている弘子ちゃんともお別れのはめになりかねない。意を決して、京都へと向かった。鈴木先生にはこちらの用件など先刻ご承知であったろう。開口一番、いままで誰にも下駄を履かせたものなどいないよと言われる。がしかし、今回一人、試験の時刻を取り違えて受験できなかったN君には、前期の成績が良かったから合格点をあげておいたと言われる目が笑って見えた。Nくんとは、誰あろう私の親友且つサッカー部マネージャーでもある。・・ひと時間があって、先生曰く「もう成績表は大学に提出ずみですよ」。瞬間我が人生も終わったかと土壇場で首をさしだしている気分。ややあって、「明日大学にいって、点数を訂正してきましょう。」との言葉を頂いた。かくして、我が首は繋がり、帰り道の足取りの軽かったこと。
かのさんよう喫茶で帰りを待ちわびていた弘子ちゃんにまっさきに報告いたしました。その後聞くところによりますと、私めの点数訂正は教務課でも話題となっていたとか、また履かせた下駄も、あれは竹馬じゃなかったかと言われるほど。またその後、鈴木先生がそのような情けを見せることは二度と無く、一年上のサッカー部Wさんも卒業間際まで、鈴木先生のドイツ語を残し、就職も決まっていたことと、我々の手品をもれ知っていて、駆け込んだけれど、にべも無く追い返されて、我々と一緒に卒業されたのは未だ忘れられない思い出の一つであります。
かのギリシ哲学の権威・田中美知太郎先生の一の弟子といわれた鈴木照雄先生ご逝去を今、ブログ「哲学の森」を見て知りました。2008年5月9日とのこと。・・先生とのご縁は、神戸商科大学2年の教養ゼミでゼミ生としてご指導いただいたことが始まりです。大学に入学して、ハリキッテ第二外国語にドイツ語を履修したのはいいが、このドイツ語だけはスタートからつまずいて、授業中、順番に当てられるのが嫌で、終いには、教室に向かうにも足がゆうことを聞かないまでになってしまった。そんな状態で1年がすぎ、当然ドイツ語Ⅰは落ち。ドイツ語はいわば我がアキレス腱となっていました。と言うのもドイツ語Ⅰ・Ⅱを落とすと、2年から3年に進級するさいの関門に引っかかり。学内浪人を余儀なくされる。・・2浪の私にはこれ以上の足踏みは許されない。そんな時、2年の教養ゼミ選択の際、なんとかドイツ語を好きになろうとドイツ語と倫理学の教授であられた鈴木先生の倫理ゼミを選んだ。内心ドイツ語担当教官にお近づきになっておこうという計算が働いていたのかもしれない。しかし浪人時代の濫読のお蔭か少々倫理学・哲学に興味を持っていたのは確か。そのゼミでご指導いただいたのが、エートス即ち、人々が属している社会の一般的な気分とで言おうか。ethics/倫理の前段階のことと言える。その教材として先生が選ばれたのがマックス・ウエーバー著「プロテスタンテイズムと資本主義の精神」という名著でありました。大塚久雄教授の名訳でも知られるこの本を題材に各人が与えられたチャプターを学習・発表するのである。このゼミでの私は、ドイツ語の授業と違って実に意欲的に勉強いたしました。マックス・ウエーバーが言わんとしていることは、近代資本主義の精神とも言える、適正な利潤と勤勉な仕事振り。無駄をしないことによる資本の蓄積。これらのことが近代資本主義を生み出す土壌となったのではないかという考察であります。フランスの宗教改革者カルバンが唱えたプロテスタンテイズム・新教の教義では、旧教とは違って、人は救われる者・イエス復活の際天国に召される者は生まれた時から既に決まっていて(運命予定説)、親が救われるから子もすくわれるわけではない。旧教の如くいくら罪ぶかくとも免罪符を贖えば、罪は許されることは決して無い。それゆえ出家して、救いをもとめることも無意味で、人々はひたすら世俗内・即ち現世で、禁欲的な生活を送り、なんとか自分だけは救われてあることの証を得たいと勤めるすることに専念。これが近代のもう一つのムーブメント。近代個人主義の誕生を促したのではないかということ。このマック・ウエーバーの主張は衝撃的なものに感じられました。彼はなお近代合理主義の生み出した産業革命による同品質の大量生産・量の多数が正義とする社会の行き着く果ては化石化した、それこそ金が敵の無味な世界にと成り果ててしまうことだろうと予言した。
私の持ち分の研究発表の時には全力を投じて読み・理解したことを述べた。その際、一番に拍手喝さいして下さったのが鈴木先生でありました。このことから、二つの幸いをいただくことになりました。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)