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 この地に在った、魚住城(魚住古城)は南北朝の文和年間(1352-56)赤松則祐に従った赤松一族の魚住(太夫判官)長範が住吉神社の社領魚住荘の領主として魚住町中尾の瑞雲寺ー住吉神社付近に居館を構えたのが始まりと云われ、応仁の乱には赤松正則に仕えた魚住長秀が軍功をたてたと云われています。
時代は下がり、天正6年(1578)加古川城(糟谷氏)における毛利攻めの軍議の決裂で別所氏が織田信長に叛いたため、羽柴秀吉による三木城攻めが始まると、別所氏についた魚住(左近亟)頼治が毛利軍の播磨の前線基地として、高砂城と共に兵糧攻めにあった三木城籠城の軍を支援するため、毛利軍からの兵糧等物資輸送の一大補給基地として魚住町中尾の城から、赤根川によって東面を遮断する大久保町西嶋の丘に城を移したとされている。魚住左近が在城していたとされますが、魚住氏の居城は魚住吉長の代(1560-1570年代頃?)には安田城(加古川市尾上町・赤松政村の頃の城主:魚住左近太夫)に移っていたようです。

俄か造りの魚住城は掘割に柵を巡らしただけの簡易な城だったようだが、毛利氏と別所氏を繋ぐ連絡の城として、三木城支援の紀州雑賀衆を迎えいれ、毛利氏からは吉川元春・小早川隆景等が魚住城に入り、2万の大軍を率い軍船数百隻には兵糧が満載されて播磨五泊の船泊港の「魚住の泊から高砂泊」にかけて碇泊したと云われます。梶原(平三兵衛景行が守備する高砂城からも加古川を遡上して三木へ搬送されていたが、「三木の干殺し」と云われた悲惨な作戦に、同年10月頃には秀吉側の大軍に攻められた高砂城は、梶原氏は毛利の援軍を待てずに城を放棄し三木城にはいっている。・・・(HARIMAuozumiから)
日ごろ何気なく行き来している、魚住町中尾、高砂、加古川尾上などが、歴史の舞台になっていた。

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