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 土佐藩船手方、大廻船御船頭であった中城助蔵(直守)の手記「年々随筆」に
「九月二十五日(ママ)早朝、車輪船沖遠ク来而碇ヲ下ス。
午時ニあこめ渡合二入面碇泊。安芸船之由。」と記す。彼自身まさかこの船に龍馬が乗っていようとは夢にも思わなかったろうし、龍馬一行が彼を訪ねて来よう等とは思いもよらぬことだったに違いない。
震天丸が沖の礁(はえ)で潮待ちをしたのは、龍馬の指図だったかも知れない。船長たちは、浦戸へ入港するのは
初めてであったが、龍馬は種崎の地続きの仁井田浜で、徳弘孝蔵指導のもとに砲術の稽古に励んだことがあった。沖の礁は砲撃の目標でした。
龍馬はこの港の岩礁、潮流、澪筋などよく知っていた。その上、彼は勝海舟の神戸海軍練所で航海術、観天測儀観潮術を学んだ専門家でであったし、航海の経験も豊富だった。

前回イカルス号事件の談判が須崎で終わった時、龍馬は高知城下へは入らず、佐々木三四郎とともに夕顔で足摺回りで長崎へ帰った。
今回の航海は、足摺岬を東へ回って来る航路を取った。
この年の正月二十日夜、龍馬が高知の姪春猪に書いた手紙の末尾には、次のように書かれてあって、自身の運命を暗示するような文書に思われる。
私ももしもしも死ななんだりや
四五年のうちにハかへるかも
露の命ハはかられず
先々御ぶじでをくらしよ

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        歴史家 内川清輔氏の手書きの地図


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