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平成5年に母親を亡くして、平成6年は喪中。
同年一周忌を終えて、長男結婚。結婚式はハワイの海の見える教会で挙式。バースそっくりの牧師さんの先導。弘子ちゃん先にロスへ行き、三男とともにハワイに駆け付ける。
二男・三男と夫婦でハワイ漫遊。真珠湾の付近をウロウロ。米兵に誰何されて、飛んで逃げる。
結婚を急いだのは、6年1月25日に東京転勤となっていたため。
同年次男早稲田政経卒業、協和発酵就職、大阪勤務となる。どうやら我々のことが心配で大阪勤務を希望
してくれたに違いない。
平成7年1月17日阪神淡路大震災発生。このあと、神戸が壊滅的被害のあおりで、難民が明石に流れ込む。
お店は震災フィーバーといえる生協が5月末まで続いた。おかげで三男のLACCのMUSIC・CONPOSERの卒業式に参列のため渡米。ついでにラスベガス・グランドキャニオンへと足を延ばす。
平成8年の写真は、二男大阪勤務、三男帰国して東京へ職探しに出発寸前の11月5日のもの。
平成9・10年と無くしていて、平成11年の写真は、前年次男が協和発酵よりロンドン大学MBA留学が決まり、
出発前に、結婚の了承を嫁の両親のもとに頼みにいった時のもの。富山は八山という料亭前。
嫁はこの8月15日次男の末ロンドンへ関空より出発。もちろん見送りに。我々貧乏困窮の最中、気持はあれど何もしてやれないもどかしさ。
我ががん君、早期発見ということで事前治療は一切ありません。ただ自己血採取にそなえて鉄分補給のためカプセルを一ヶ毎日服用。おかげでウンチが真っ黒に。
25日、世間はクリスマスと言うう日に、私は朝から自己血採取。400CC頂きますと看護師は事もなげにぬかす。けれどどの看護師さんも親切で、キビキビト誠に気持がよろしい。
ついでに、3年ほど前、膳立腺がんを切りまくった先生がおられたようだがと聞くと、「ええ、いまはがんセンターの東隣で開業されてますよ。」との返事。やはり私の推測は当たっておりました。その上「あの頃は、陛下も前立腺がんの手術をされたせいか、患者さんがおおかったから。」とも聞きました。
畏れ多くも陛下と同じ病を患うなんてと喜んでいるばあいではありません。
採血は10分のところ、8分で終わり、血管はいい感じですよと看護師。
このあと、自己申告でどうも下肢の血行がおもわしくないように思うと言っていることから、下肢のCT撮影を行う。なにせ学生時代サッカーに狂ったころ、走りまわって下肢を酷使している。先般の淡水サッカー会長がアキレス腱切断の手術後肺血栓症で亡くなったのも、下肢に血流欠陥があったからではないかと思っている。
造影剤を飲んだついでに泌尿器撮影もすます。看護師がおしっこよく我慢しましたねとほめてくれる。写真だ膀胱がパンパンなのが分かるんだ。
歴史上、関ヶ原で西軍の大将として敗戦の責めを負った毛利は三分の一にまで縮小した領地に家臣の殆どが流れ込み、それまでの知行を削りに削って、歯を食いしばって耐えに耐えた。
大政奉還して駿河一国のみとなった徳川家にも旗本一族が大挙押し寄せ、知行にありつけぬものは、帰農してもなお駿河を去ろうとはしなかった。戊辰戦争に敗れた会津藩はわずか3万石、実石7千の辺境の斗南藩に4700余名の藩士とその家族計1万7千人余りが入植。
殿様に頼るしか道がなかった武士階級のみじめな姿と見るか、領米を分け合って命を繋いだと見るか、意見の分かれるところだろうが、附いてくるくる家臣を見捨てる姿はなかったようだ。
そんな貧困の中で子弟の教育に努め、後の明治の世に多数の人材を送り出している。
そんな大和の国で、いま大企業の職場では正規社員と派遣社員の厳しい階級別け、まるで土佐の上士と下士(郷士)の再現とも思える情勢となり果てた。となれば、歴史の事実が証明しているように、これ以後、この階級間の激烈な闘争が巻き起こることは必定。
首切りを宣告された派遣社員が、その企業のみを相手取って騒ぎ立てているに過ぎないと楽観してはならない。必ずや複数の、あるいは全国の派遣社員階層が結束、大波となって深刻な労働争議へと変化していくことは自明です。規制緩和の流れにのみ込まれた犠牲者の多くは、襤褸の筵旗を押し立てて国会を取り囲むことになるでしょう。
正に経済災害と言えるこの年末・年始、急遽街に救世軍が行ったような炊き出しとテント村を何故政府は用意しようとしないのか。麻生政権が浮上する唯一の道は、この緊急経済震災援助法の発令でしょうに。
平成2年の賀状につかっているのは前年の夏、ライオンズクラブのYE(YOUTH EXCHANGE)事業のホストファミリーを引きうけた際のロビンの送別会風景の一場面。状勢としては交換学生を40日間も受け入れる余裕などあるわけがない中、長男が1986(昭和61年)6月に先行してネブラスカに40日間交換学生としてお世話になっていた御返しとして、どうしても受け入れなければならなかった。みての通り、私が望んでいたプリテイなガールとは違って、でっかいお尻の男の子みたいなロビンはある意味気を使わずに付き合え、それはそれでよかったんだ。この40日の間、弘子ちゃんはつきっきりで世話を焼いた。明石市長への表敬訪問から、盆踊りの着物の用意まで。伊丹へ見送りにゆくころは本当別れがたいほど、お互いに気持が通じていた。
この年、次男が早稲田政経へ進学。三男も白稜中から高へ進級。
平成3年の写真は、我が家の運命が大きく変わったことを示している。前年平成2年の5月に太寺の家を売り払い、魚住の地へ、夜逃げとまでいかないが、昼逃げぐらいの厳しさで引っ越しした直後のもの。
三男の様子がかなりヤンキー風になってくるのは、平成4年(下)の写真を見ればお分かりでしょう。
平成4年長男 鴻池運輸に就職。
同年、4月三男ロスアンジェルスへ、留学の下調べに。長男同行。
同年8月三男ロスへ。とりあえず英語学校に通って語学力養成の必要あり。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)