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楠瀬さんは高知の出身、土佐高校の秀才であります。その彼が落ちたとなれば私も心してかからねばと思い、試験問題を聞いておくことにした。楠瀬さんは快く、覚えていた問題を正解つきで教えて下さった。とくに日本国憲法を問う問題が印象に残っていいる。これで傾向と対策が出来たとばかり入社試験に臨んだ。本社は大阪・堂島にあった。堂島といえば北の新地のど真ん中。夜ともなれば、赤い灯・青い灯が燈る享楽の巷であります。そんな町を突き切って木造2階建ての歩けばギシギシ音がする本社。忘れもしない安達課長の仕切りで試験を受ける。答案用紙をめくってあっと声を上げそうになった。なんと、前回楠瀬さんが受けた試験と同じ問題だ。この時の入試担当でもあった安達課長さんが、同じ問題を使い回していた。入社してから、かの安達課長さんともお付き合いができましたが、どう考えても同じ問題を使い回すような芸当ができる人とは思えなかった。結果、我が答案はほぼ満点に近いもんであったらしい。試験担当者は開白以来の秀才が来たと大騒ぎだったとか。おまけに教養科目ばかりだが、優が30ほど。サッカー部のキャップテンでもある。重役面接は翌日だったか。この会社のウルトラワンマン入江一雄社長を中心に、両脇重役連中が居流れる。
これもあとで徐々に知ったことだけど、入江商店は小さいながら、このワンマン社長のもと、旧日本製鉄、そのころは八幡・富士に分かれていた製鉄会社専門の納入窓口商社として隠然たる実力を有し、知る人ぞ知るユニークな会社でした。ちょうど7年ほど前から、学卒を採用するようになったばかり。商大G9・河井雄輔氏がはや課長で頑張っておられた。おまけにG10森本茂男氏はサッカー部の先輩であります。
そんなイケイケの社風を誇る重役連中は見るからに曲者揃いの印象。よくは覚えていないが、家庭状況・長男で自営らしいが店を継がなくていいのかとか、クラブ運営はどうのとかの質問があり、最後に卒業論文の話となった。・・卒論のテーマはほぼ決めていて、ドラッカーとマックス・ウエーバーの良いとこどりをしたもの。すなわち『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をベースに新しい経営理念を提案しようという大それた構想。
語るうちに熱を帯びてくるほど自分なりの考えを披露している時、突如ワンマン入江社長が一言、私を指さしながら叫ぶ声が聞こえた。「お前明日から来い」。かくして合格通知を口頭で頂く仕儀にあいなりました。ほんとこれでいいのかなとの思いを胸に抱きながらも。
昭和40年正月から練習は益々厳しさを増してゆく中、4回生となった段階で人生の選択・就職活動にも励まなければならない。当時確か就職活動解禁は7月ころではなかったかな。世の中の景気はといえば、前年までの就職売り手市場であったのが、3月6日の山陽特殊製鋼の倒産(負債500億)に象徴されるように、一転不景気風がふきだしていた。そうなれば企業の学生選択も厳しくなるのは当然。そんな世の中の動きも無頓着に音楽関連の企業という訳でYAMAHA当時日本楽器製造株式会社を第一希望に選んだ。あとで分かったことだが、楽器やさんと音楽活動とはほぼ関係無いということ。そんなことも分からず受けた就職試験。開通したばかりの東海道新幹線で浜松へと出かけたが、なんと一次のペーパーテストで落ちちゃった。算数の問題が解けなかったんだ。(2年後弟・啓三が同じくYAMAHAにトライして見事入社を果たして勤めあげ2年前定年を迎えた。)そして殿村先輩が引っ張って下さった大阪ガスの入社試験を次に受ける。その次第は2008.6.26項に記したとうり、あえなく失敗。かなり力を入れて下さった殿村先輩にはいまだに申し訳なくおもっています。
出足でしくじった我が就職活動はこの辺りから迷走を始めた。阪和興業・杏林薬品等方針もなにもあったもんではない。究極は野村不動産を受けるつもりで発送した願書が、なぜか野村証券に届き、慇懃無礼な御断りの手紙を頂いたり。その後のことを考えると、野村不動産への願書が無事届いておれば、かなり違った人生の展開があったような気がします。なかなか決まらない就職はどうやら田中先生の耳にも入っていたらしい。
同じ学年ながら一年余分に学生生活を楽しんでおられた楠瀬さんも就職で苦労をされていた。その楠瀬さんが受けてダメだった株式会社入江商店が第3次の募集を懸けてきた。そろそろ内定を獲得しておかないと、サッカーのリーグ戦に差し支えてくる。西明石にも入江商店があるが、これは米と氷を売るお店だ。まさかそこまでのことはなかろうと、鉄鋼関連という情報のみを頼りに受けることとなった。
昭和39年の秋、OB吹奏楽団は高松大会で3年連続優勝をとげる。一方サッカーは関西学生リーグ2部で一挙に優勝を狙うものの果たせず、4か5位におわったのではなかったか。その頃の関西学生リーグは1・2・3・4部ABとあり、各部は6校編成で、2部の4位とあらば、関西でTOP10に入る位置にいたわけだ。好漢松本靖弘主将からキャプテンシーを受け継いだ私の頭の中は、2部死守の一言でありました。早速OFFSEASONもあらばこそ、走力強化の走りこみと、サーキットトレイニングを取り入れた練習を開始した。(これ以降の悪戦苦闘は2008.6.14項から始まるサッカー命の日々・淡水サッカークラブの23項に記した。)
それまでの省エネぶりから想像を絶する変わりようは、さぞや3回生以下を驚かしたことだったでしょう。しかし、我が代で、3部落ちするわけにはいかない。過去に部落ちを経験した歴代主将は落ちを恥じて淡水サッカークラブへ顔を出さないとの話も聞こえてくる。もはや、ラッパを吹いているどころの騒ぎではなくなった。
そのころ、OB}吹奏楽団は3年連続優勝の翌年、招待演奏に招かれ、昭和40年(1965年)11月14日遥か長崎の地で、松尾泰三指揮のもと、「象とハエ」(クリング)「雷鳴と稲妻」(シュトラウス)「組曲第2から」(ホルスト)を披露して、その存在を全国に誇示した。この11月14日といえば、私はサッカーリーグ戦の最中で、第4戦対神戸大を戦っていたころだ。その時点で1分け3敗。第5戦の大阪府大に勝たなければ、3部との恐怖の入れ替え戦が待っている。とてもOBの成績を気にするどころではなかった。
この年、指揮者が松尾泰三に変わった事情はよく分からないが、永年明石高校音楽部を指導されてきた有永正人先生が定年を迎えられ、八代高校へと転出されたことが主な原因ではないかな。
招待演奏は名誉なことですが、これがために有る意味緊張が解けて、翌年のコンクールをまずることになった楽団は多い。我がOB楽団もごたぶんに漏れずその傾向を示したのと、決定的要因は昭和41年(1966年)8月6日有永正人先生急逝に見舞われたことであります。精神的支柱としての先生の存在が如何に偉大なものであったことか、求心力を失ったOB吹奏楽団は、この年の仙台大会での2位を最後に、全日本の舞台に戻ってくることは2度とありませんでした。
その後、昭和60年8月11日の県大会銀賞まで、細々とコンクール県大会出場を続くが、この間関西大会に駒を進めたのは、まだ栄光の名残のあった昭和42年・43年の2度のみであります。
サッカーはといえば、3年生という気楽な位置で戦うというより楽しんでいた部分が多かった。実際は3年生が一番チームの主体となって走らねばならないところ。4年生のバラエティに富んだメンバーに頼りっぱなしで申し訳ないことをしたものです。・・この年新人は5名で経験者2名。我ら3年生は私と長本省三の2名という淋しさ。次は自分が責任を背負う覚悟だけは出来ていたのかな。
そんな学園生活の合間に神戸大附属明石中のブラバンを無理やりコンクールに出場させたり(2008.6.7項)商大マンドリンの定期演奏会にエキストラでギャラをもらって出演したり、我が商大応援団吹奏部の立ち上げに手を貸して、ついでに商大祭での演奏披露にまでこぎつけたり(2008.7.5項)と楽しいことばかり。・・やがて来る苦しみの1年の執行猶予期間でありました。
このころが、私のクラッシック・トロンボーンとしての絶頂期ではなかったか。強烈なプレス奏法は相変わらず、常にベルを下に向けて、音の響きを意識して、体全体を共鳴させる。絶対的ファーストの自信をもって舞台にあがったものでした。弟・啓三がサードで十分にハーモニーを支えてくれる。セカンドの内山一彦はいかなる場合も我々に吹き勝ことはない。最高のバランスを誇るトロンボーンパートでありました。
事実、全日本よりも難関であった関西大会でこの年勝ちぬけた理由のひとつは、我がトロンボーンの鳴りの良さであったに違いない。マエストロ朝比奈隆氏から、明石のボーンはプロ並みだとの有難いお言葉を頂いた。
結果、昭和39年(1964年)11月8日高松市市民会館での第12回全日本吹奏楽コンクール一般の部優勝。
これで3年連続・通算4回目の全国優勝を果たしました。
踏組曲「シルビア」より バッカスの行列 ドリーブ作曲 指揮 青山正
全く予想だにしなかった一報が水野君からの電話がもたらした。一瞬何のことを言ってるのか、理解を超えた衝撃的連絡でした。「矢頭が昨日亡くなった。」・・水野お前何言ってんだと叫びたくなるのをかろうじて抑えて、次の言葉を待った。原因は肺血栓であったらしい。と言われてもどんな病気なのか想像もつかない。確かこの15日、別件で電話を入れた際、ユーロッパ出張の際、アキレス腱を切りましてね、ちかじか手術しますとの話を聞いた。サッカーの試合でもしたのかとの問いに、道を歩いていて、たまたま転がってきたボールを蹴ったとたんに切れたとの返事。そんなことも有るのかと言葉を返し、もう歳なんだから、常にないことはしないでおこうと自戒をこめて電話を終えた。G22といえばまだ60そこそこ。人生いまからだろうに。たしか家業のレジャー用品の輸入業に励み、苦しい時期を乗り越えて、最近では大人の風格さえ感じさせるほどの落ち着きと貫録が出てきましたなあと冷やかしたり。淡水会神戸支部長も引き受けられたとのこと。しかし、私は何故か胸に収まらぬものを感じておりました。・・・それがこの事態だったんではないのか。考えすぎかも知れないが、本当に口惜しい。
肺血栓を検索してみると、血流停滞・下肢深部決選症等の言葉が躍っている。やはりアキレス腱の手術による合併症ではなかったのか。医者はその予防を行い、手術に際してそれらの事前説明はあったのだろうか。
あれこれ思いは浮かぶが、御遺族の心労を考えると身につまされる。
明日、明後日とは惜別の辛い日々となりました。・・・・合掌
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)