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 サッカーとOB吹奏楽団と弘子ちゃんとのデートに明け暮れた2年間。学業の方は浪人時代に培った教養力でろくに授業に出なくとも優を取ることができていた。おまけにサッカー部に代々伝わるノートがあって、授業科目の教授の最近5年間の試験問題まで付けてあった。生産管理の三木信一先生には、津野は一度も授業を受けずに優を取ったと当分云われ続けた。ところがここで大きな計算違いが生じた。第二外国語に選んだドイツ語がどうにもいけない。正にアレルギーと言っていいほど馴染まなかった。1年の後期には一応教室には向うが途中で足が止まってしまう。そんなこんなで1年の独語は当然落ち。その後遺症を引きずって2年には、必修2課目を落とすと3年に進級出来ないという関門に当然引っかかることとなる。あと1年の遅れはかなりしんどいし、両親にも申し訳がない。ということで、2年のドイツ語は諦めて、1年のドイツ語に絞って勉強することに。
 ここで危険予知能力が働いて2年の教養ゼミに倫理学・鈴木照雄教授を履修しておりました。この鈴木先生は、このころの商大を代表する厳しい先生で「英語の鬼の成瀬か、ドイツ語の仏の鈴木」と生徒間ではもっぱらの評判。なにせ鬼より怖くて頼みにいった生徒を仏にしちゃうらしい。このゼミで出会ったのがマックスウエーバー著『プロテスタンティズムと資本主義の精神』。このゼミでは不思議と興味を持って皆勤で学んだ。やはり浪人時代苦し紛れに、上の丸教会・内貴牧師にお話を聞きに通ったが、その教派がプロテスタントであったこと。倫理とはそも何ぞやとの疑問をかねてより抱いていたことからか。ゼミは専ら自分が担当した部分をまとめて順次発表し、教授がそれに対して討論を重ねる形式で進む。その最後のまとめ的部分を任されて渾身の発表を行ったところ、教授から絶賛の評価を頂いた。
 もうおわかりでしょう。2年の後期試験。案の定まったく歯が立たなくて後は先生に泣きつくしか手はなくなった。獨語1は大河内先生で神戸大姫路教養学部の講師でもある。訪ねていった姫路の官舎でお願いの向きを申し上げると、そんなことだろうから、2年生には全員最低可をあげている、あとは鈴木先生のお願いしなさいとの有難いお言葉を頂いた。
 どう尋ねたのか覚えていないが、京都の鈴木先生宅へお願いに参上。余程必死の面持ちだったのか、ゼミの発表の印象が良かったのか、何故か今まで一度たりとも下駄を履かすようなことはしたことがないと断言される先生が『もう成績表は教務に提出した後だけど、明日大学にいって点数を訂正(訂悪)してあげる。』とひとこと。後で、『津野君あれは下駄どころではない、竹馬だったよ。』と叱られたのは言うまでもない。
 かくして、やっとのこと3年進級とあいなりましたとさ。


 

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             (トロンボーン左端 弘子ちゃんは前列右から3人目 指揮 青山正)
名古屋・室蘭・岐阜と優勝を重ねるためには、優れた指導者の元、これでもかという程の練習を行わなければ出来るもんではありません。また40余名が一団となってのチームワークも欠かせません。そして振り返ってみた時に、かくパートにキラリと輝る才能が育っておりました。もともと明石高校音楽部は華麗なトランペットの名手を輩出したことで、特に東京のJAZZ界では有名でありました。(このことは後に詳しく報告いたします。)
そんな先輩に負けないトランペットが2年下の水野雅夫君。秘かに和製ハリージェームスと呼んでおりました。大阪市大理学部進学の秀才でありながら、在学中はDEXIEBANDで大活躍。クラレに就職して米国クラレ子会社社長におさまった男前。ユーホ二ウムの田中英夫氏は2年上の部長さん。在学中は2限目には部室で昼弁当を使うというバンカラながら、その音色は美しく、超絶技術の持ち主。神戸いすずの重役となられた。クラリネットの松尾泰三は同級。錦城中学のころから耳の良いのは有名で、山手照夫先生の秘蔵子。3年連続優勝の翌年は招待演奏となるのだが、たしか長崎での招待演奏では指揮者を務めた。まあ音楽性は彼が一番とおもっている。惜しくも50前で亡くなった。青山正氏は一年上。フルート・ピッコロより指揮のほうで開花。不思議と難曲を上手にまとめあげる才能の持ち主。阪大理学部からセキスイ化学へと進まれた。セキスイでも特許を取られて今なお活躍中。今だにOBの定演となると現れるのがフルートの井上哲氏2年下。彼こそ名手といえる音色の持ち主。関学のオーケストラでは指揮者を任される。関学・慶応の合同定期演奏会が東京で開かれた際、私と弟・啓三をトロンボーンのトラ(エキストラ)に呼んでくれました。これには申し訳ない失敗談もありました。・・クラのパートでは中井正人氏1年下。松尾と中井の二人で4・5人分の音量があったのではなかったか。甲南大のオーケストラで指揮者。後に明石市会議員となって去年引退されました。

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       (出番を待つ弘子ちゃん)
                                                                                        この年、明石高校OB吹奏楽団としては、OBメンバーだけでの編成でコンクールに臨んだ。私の方は会場が岐阜ということで、辛うじてリーグ戦とのバッティングを回避できての参加となった。そのころのサッカー部の状況は、昭和29年の1部から2部への転落。昭和35年の2部から3部への転落を重ね辛い辛い3部暮らし。小林・堀川両主将ともどん底のチームを率いて、悲願の2部復帰を目指して奮闘力戦された姿は忘れられません。幸い昭和38年のリーグでは4回4人・3回5人のメンバーに恵まれ、3勝2分けで優勝を飾り、2部との入れ替え戦を阪大と戦うことになりました。場所は大阪・靱公園グラウンド。ちょうど大阪駅前梅田地下街が完成開業となった時。なぜかグランドに母親と弘子ちゃんも観戦に現れ、帰りに梅田地下に寄ろうなんて気楽なことを考えていたようです。ところが、この入れ替え戦が0-0の引き分けに終わり、再試合を京都・京極グランドで行うこととなりました。たしか一週間後、京極会場で行われた再試合。前半終了間際か、RWで走り回っていた私が、ハーフラインそれもセンター近くでこぼれ球を拾い、前線の吉田尚RIにパスすべく、大きく蹴り出した球が、なんと吉田さんの頭上をはるか飛び越えて、ゴールに向かって大きな弧を描いた。その時の阪大のキーパーは忘れもしない青山さん。たぶんかなり前目にポジションを取っていたに違いない。我が執念の籠った球は、なんとキーパーの必死にジャンプして差し出す手の先を飛び越えて、バーの下を掠ってゴールしてしまった。これには蹴った本人が頬をつねるぐらいの驚きで、グランドは一瞬静まりかえったのち、商大応援の一団から歓声が湧き上がった。このゴールを切っ掛けに、小嶋さん(3回)、大小田さん(4回)のゴールも決まり3-0で勝利を収め目出度く2部復帰(昇格ではなくあくまで復帰です)を果たした。これが記憶に残るゴールその一であります。
一方、コンクールは指揮者が一年上級の阪大生・青山正氏のもと、自由曲・序曲「ウイーンの朝昼晩」(スッぺ作曲)を引っ提げて参加。昭和38年(1963年)11月10日岐阜市民センターでの大会で余裕で見事優勝を飾った。
 

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img387.jpg神戸商大1年生のサッカー部員がリーグ戦の最中に、戦列を抜け出すという、いま考えるとトンデモナイことが出来たのは、一重に小林主将の理解と、私がいなくともそう戦力に影響ないためでした。北海道は室蘭までといえば、往復だけでも丸3日。コンクール当日をいれれば4-5日の日程を見込んでおかねばならない。
事実、大阪発夜行・日本海に夜8時ころの出発だったか、日本海側を一路青森目指して北上する列車中のなんと長かったことか。青函連絡船も十分時間がかかりました。そんな長旅にも拘らず、皆元気一杯で臨んだコンクールは、有永正人先生好みの選曲で、歌劇『ファースト』から、ヌビア人の踊り、クレオパトラと奴隷達の踊り、フリネの踊り(グノー作曲)。これまでのグランドマーチではいくら完璧な仕上がりでも、難易度において見劣りした経験から、我が楽団のもうひとつの特色であるエバーグリーンハーモニーと歌心を前面に打ちだした、会心の選曲でありました。バレー歌曲でありますから、今回はわれわれブラス・ラッパ隊の派手な活躍の場面はなかったが、より高度な音楽性を求められるものでした。
会場は室蘭富士製鉄体育館。昭和37年(1962年)10月28日。結果 一般の部・優勝でありました。
とくに我がトロンボーンパートは、私が1STで弟啓三が3RDを担当。このとき以来、大津野・小津野と呼び分けられるようになったとか。このときの登別での祝勝会・大浴場混浴事件は2008.8.8の項参照してください。
登別で本隊と別れて、トンボ帰りに東北本線を西下。早速サッカーの練習に参加・復帰いたしましたとさ。
この年、あろうことか関西勢がコンクールの全部門を完全制覇するという快挙を達成した。これを記念して翌年正月15日宝塚大劇場にてアマチュアトップコンサートが開催され、近くに住んでおられた小林先輩に聞きにきてもらったことを懐かしくおもいだします。

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CIMG9448A.JPG西国三十三霊場二十八番札所・成相山成相寺「波の音 松の響きも 成相の 風吹き渡す 天の橋立」
二十九番松尾寺を先にお参りして、再び高速道に戻り、天の橋立ICへと急ぐ。約九十分で成相山登り口に到着した。なんとか納経できる時刻に間に合った。R176から割と地味な案内板があって(国分交差点)国分寺跡の表示を右に見て、狭い山道を文字道理駆け上がる。お寺の料金所手前の3折の坂はかなりの急こう配。
エンジン1速であがれと親切な指示までしてある。成相山569メートルの山腹といってもかなり頂上近くにある成相寺からは、松傘公園は眼下に見えない。橋立も眼前を真っ直ぐ天に向かってというより、右に流れて見える。橋立の右側が阿蘇海で左が宮津湾。阿蘇海は橋立にょって仕切られた海跡湖で野田川が流れ込み、狭い水路一つで宮津湾と繋がっている。弘子ちゃんがなぜ成相寺に拘ったかというと、この寺の住職さんが、明石の材木町にある愛染さんの住職も兼ねておられると聞き及んだから。その愛染さんの斜め前に、私の実家があり、夏祭りにはささやかながら屋台もでて、金魚すくいをした思い出があつた。
納経を終えて、駐車場に戻りふと案内板を見ると、これより車で4分、歩いて20分で成相山頂上・パノラマ展望台ありとの案内があった。常なら車でのぼれるのに、8月の集中豪雨で道がほれて、いまは歩きのみ。
あえて登ろうと言い出したのはどっちだったっけ。残り600mの標識まででも、登ること25分。やっと辿りついた展望台は、御寺の奥さんが勧めるだけあって、それは見事の一言。標高500Mの展望を満喫しながら、厄除け願のカワラケ投げを試みるも、見事輪の額に当たって砕け散った。かくなれば一刻も早くお山を駆け降りて、かねて耳にしている阿蘇海の畔・雪舟庵で地ものの海鮮寿司に舌鼓を打つことにしよう。

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