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かくなれば、そうあることを肝に命じ、大筋戦略に意を尽くし、こまごまとした作業・作成は若い人に頼ってやってもらうことにしよう。。。こう書けば「いやそのとおりと頷かれる方も多いんではないかい。
一年になった秋にははや全日本吹奏楽コンクール東京大会・両国体育館に連れて行ってもらうことになりました。まさにその時、そこに居合わせただけでの好運であります。流行りのトレンチコートを張り込んでもらって勇躍東京へと向かう。さて何でいったやら、どうせ汽車に決まっているが、夜行だったのか、サッパリ覚えていない。相撲では聞きなれた両国体育館のデカカッタことは不思議と印象に残っている。無我夢中でステージを終えて、結果発表を待つ間に、当時としては、超サプライズプレゼントが用意されていた。ギャルド・レプブリケーヌ軍楽隊(正式名・フランス共和国パリ親衛隊軍楽隊)の模範演奏が始まったのであります。それまで聞いたこともない、舌を噛みそうな名前に戸惑いながらも眼前で繰りひろげられた演奏は、まるで別世界。この世のものとは思えぬなんとも柔らかくって、響きがあって、全員が歌うがごとく、それでいて厳しく、規律ある演奏態度。もうこうなると、結果発表などそっちのけで、一音も聞き逃すまいと、背伸びする。トランペットとコルネットはああして使い分けてsるんだとか、ピストンでなくて、みなロータリーバルブなんだとか、木管のクラリネットは音の深さが違うとか、好き勝手なことを思いながら演奏に聴き入る。・・・気がつけば結果発表があって、蒲郡中OBに敗れて2位の成績。まあ初出場ばら上出来と思っていたら、他の皆はえらい悔しがりよう。ギャルドがきけただけでももうけもんとはいかないらしい。この時は、音楽部の東京在住のOBが大歓迎してくれて、あの銀座スエヒロでヂナーへのご招待。さすがにビフテキとはいかず、うすいカツレツだったけれど、さあ皆はナイフ・フォークの使い方が分からない。チューサンが面倒とばかり、さきにナイフで切りわけて、お箸を使いなさいと大声を掛ける。まるでお上りさん・赤ゲットーだからしかたがない。
先日も須磨浦公園の出かけて須磨浦ロープウエイの真下にある料亭「花月」でレトロな雰囲気のなかで、リーゾナブルでなお美味な神戸牛会席を頂いたりして、近場で楽しむのも悪くないとの結論に達した。今日も(9月7日)昼前に思い立って森林浴がしたくなり、かねて調べておいた「ひょうご森林浴場・雪彦峰山県立自然公園に出かけた。鹿ヶ壺の壺という表現が気になり、いったいどんな風になってんだろうとの好奇心。鹿が水浴びでもするような水たまりをそう呼ぶのかもしんない。
現地到着が3時過ぎ、少々お腹がすいていたので、鹿ヶ壺山荘に飛びこんで名物麦とろ定食を頂く。
腹ごしらえができたところで、謎の鹿ヶ壺にいざ見参。
現在は「やすとみグリーンステーション鹿ヶ壺」と呼ぶキャンプ場をかねた入口に昭和5年と記された石柱があった。「天然記念物鹿ヶ壺歐欠兵庫県」と刻まれてある。さて壺とは?と進むうち、これまた薄汚れた大看板が現れた。なるほどこの看板の解説を読んで初めて鹿ヶ壺の全容が見えて来た。
引用「林田川の源流鹿ヶ壺は、雪彦峰山県立自然公園内にあり、滝の流れは20度から90度の階段状の急斜面を水が上流から運んだ石や砂とともに流れ落ち、階段面において旋回し、数十万年の長い歳月に岩盤、河床をえぐり、岩質は石英粗面岩のかたい岩質であるが削り磨いて、大小数十個の甌穴をつくり、これらの甌穴に鹿ヶ壺、底なし等その形状にちなんで古くから名前が言い伝えられています。最大の甌穴が鹿ヶ壺であり、鹿が寝ている姿に似ており、鹿ヶ壺と名づけられ全体の代名詞となっております。底無しの壺はその深さ約6メートルあり、まったく底が見えないところから名前がつけられ、これらすべて一枚岩盤で出来ており、甌穴の大きさ、またその数においても全国的にもめずらしいと云われております。」・・・なるほど。甌穴の甌(おう)とはカメのこと。POT HOLEといったほうが解り易い。岩石面上に出来る円形の穴を言うらしい。落差にして何十メートル有るんだか。上から主な甌穴としては鹿ヶ壺・鹿ノ尾・オハグロ壺・底無・駒ノ立洞・五郎田壺・雑橘壺・鳥ノシコミ壺・五郎在壺・尻壺とある。林間の涼風を楽しみながら、階段を上ってゆくと、子どもたちの歓声が聞こえる。滝すべりに興じている姿が眼前にあらわれた。見るからに滑らかそうな岩肌を天然の滑り台に見立てて意外な程の急速度で滑り落ちる。はらはらしながらも、その度に拍手を送って声援する。流れに手をやればヒンヤリと心地良い。・・・なかなかのところですよ。
特に面白かったのは高商1-3回生の創部時代の詳しい記述を読んでみるに、今まで伝説的に聞いていた実績が、ごく普通の、われわれと変わらぬ少年たちによって残されたものであることを発見したことです。
これと同じことが、伝説として語られる明石高校音楽部・OB吹奏楽団が打ち立てた全日本吹奏楽コンクール4回優勝・日本一の頃のメンバーだった自分自身が、高商1-3回生の方々と二重写しに感じたことでした。
明石高校一年生入学(昭和32年1957年)の1月に明石高校OB吹奏楽団が結成されていて、全日本の吹奏楽コンクールに一般の部が新しく設けられることになった。戦後12年いよいよ世の中も落ち着いて、中・高・大学・職場と吹奏楽が広がっていく中、一般人による楽団の普及・充実を図るため一般の部を急遽立ち上げたというわけ。といいながらまだまだ一般人だけでの十分な楽団編成は困難を極める。そこで暫定処置として、現役高校生の参加が許されることとなった。わがOB楽団の結成もこの処置を受けてのことと、連盟から是非のとの申し入れがあったがためでありました。・・普通なら高校生が一般人に混じって出ていいわけがない。
そんな事情があって、一年生の身ながら、一般の部に出演し、全関西大会で優勝。全日本が東京は両国国技館で開かれる。しかし自由曲はベートーベンの交響曲第一番第二楽章であまりトロンボーンの活躍する余地はない。
それなのに写真でわかるようにTBが6人もそろっている。編成上もきっと一年生の西江か津野が外されるのではとのおもいがあった。一日追い込み休憩時間、トイレに行くと、有永先生(指揮者)とならんで用を足すことになり、恥ずかしくてもじもじしていると、横向きのまま、先生が「心配することはないぞ、みんな一緒に東京へ行こう」と言って下さった。「ハイ」と自分でも驚くほど大きな声で返事をして、早々にその場を離れた。あの時の思いがけない言葉の嬉しさと、下半身の生暖かい湿っぽさの感覚はいまだに残っている。
第228回昭和39年6月21日(日)
場所明石デパート4階中集会室
クラッシックステレオコンサート
ホタルを素手でとらえた腕白は
テのひらを 汗ばむくらいにぎりしめ
時々、指のスキマから
光るお尻をのぞいて
ホッと安心のため息をつく
幸福(しあわせ)が手のひらに
幾度も幾度も確かめる
逃がさないように!!
にぎりつぶさないように!!
(手中のホタルは光がうすれて見えるもの、君の手は、暗闇ではないのだから)
*このはがきでさんようクラッシックステレオコンサートのアーカイブは終了です。たぶん昭和25年5月ころから昭和42年11月17日の親父の誕生日まで、17年間途絶えりことなく、248回を数える開催は、商売気だけではやれるもんではない。たぶん自分も音楽が好きで、始めればとことんやり通す親父の生きざまも影響しての超ロングランでありました。このコンサートに影響されたと後日おおくの人に感謝されたこと度々。そしてなによりわれわれ兄妹が音楽に興味を持つにいたる最大貢献をしてくれました。
このころには私はサッカー一色、弘子ちゃんとのデート一色の日々となり、あまりコンサートに寄り付かなくなっておりました。・・この一文は親父が書いたもののようです。
いまさらコンサートに協力していただいた今は亡き佐山敏夫先生・讃井毅先生・加古川の奥田楽器店専務様がたに心から感謝もうしあげます。・・ようやったもんぜよ。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)