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さんよう喫茶のマッチは、開店以来一貫して、石田一二(ワンツー)画伯と中井禎一画伯にデザインをお願いしておりました。それが本日到着20余枚が同封されておりました。・・先生本当にありがとう。
第210回クラッシックステレオコンサート
昭和37年8月18日(土) PM6:30
明石デパート4階中集会室
深夜 本を読みながら 我知らず寝入り 慟哭している夢を見て ハッと目を醒ます
枕元のスタンドが 霧でもかかったように 潤んで見え 目尻が妙に生生しい
フ―ッと溜息をついて 明かりを消すと 闇と一緒に夜風が渦巻いて 顔に涼しい
カーテンが揺れて 星が二つ三つ その瞬きに誘われて 思わず呟いた
『もう 何の悩みもない筈なのに』 1962.8.7
*後遺症とは恐ろしいものです。2年もの浪々生活に心底疲れていたのでしょう。大学生活が始まってはや8月となり、もうグランドを走り回る生活に明け暮れていたはずなのに,なおこの有様です。もちろんここで言う慟哭なんて、生易しいもので、親父を亡くした夜、一晩泣き明かした身も世もあらぬ全身を襲う悲しみの渦のことを思えば、まだまだ格好をつけている姿に過ぎないな。
むしろ教養力で合格を果たして、まずご心配をかけた担任の住田圭司先生を母校に訪ね、結果報告と御礼を申し上げた。先生にはまる3年にわたり、どれほど内申書を書いていただいたことか。そのうえ、余った内申書を覗いてみると、誠に過分な下駄の履かせよう。感謝・感謝の心のみ。
次に、音楽部恩師・有永正人先生を訪ね頂いた言葉が「臥薪嘗胆の一語やな』。まことにそのとおり。
ついでに現役のブラスの様子が気にかかり、教員室を出て練習場所の講堂に向かう。すると一人の女学生・それも真黒に日焼けした、やせぼしの、小柄な子が、フルートの練習をしているのが目についた。・・思わず先刻承知の上で、講堂はどこですかと聞いてしまった。・・後刻、合奏が始り、久しぶりにタクトを振らしてもらう。もちろん先ほどの女学生も一団の中に居た。すこし驚きの表情を浮かべて。
これが、我が妻・弘子ちゃんとの最初の出会いでありました。それから今に至る46年間ものお付き合いになろうとは。・・それまでには多少の経緯がございます。
8月2日(土)かねてより姫路お城まつりで種子島伝来の火縄銃実演があると新聞での告知を見逃さず、昼過ぎ電車で出かけた。日頃は車での姫路行きばかりとて電車から見える光景が実に新鮮に写る。加古川・坂元の区画整理も立派に完成して、念願の南北道路完成までもう一息。やはり不動産屋の血が騒ぐ。天下の姫路城を目前にした大手前公園までは、みゆき通りをそぞろ歩く。やはりお祭りとて、なかなかに賑わっております。
お目当ての火縄銃の実演は公園広場に到着と同時に始まった。岡山城鉄砲隊の面々の勢揃いである。感想を言えば、その鎧冑のさまざまから見て、侍大将と見まがういでたちもあり、一見その昔を彷彿とさせるものがありました。
しかし、元来サムライはあくまで刀槍での戦いに拘り、火縄銃鉄砲隊は身分の低い兵により編成されていた筈。少々そのいでたちに違和感を覚える。実技そのものは轟音を発し、白煙を上げる迫力はかなりのもの。これが信長軍の3000丁も揃い、1000丁スずつの3段連射を見舞われた武田勝頼もびっくりしたことでしょう。
腰周りには弾薬帯を巻いた姿から、何故か、旧陸軍の38式歩兵銃の装備姿を思い出した。
先日から、深夜NHKテレビが「兵士の証言)シリーズの再放送を流しています。かの激戦、それも究めつけの負け戦で奇跡的に生還した兵士の回顧のみを中心に編集されたもの。その元兵士の誰もが、話しているうちに言葉に詰まり、湧き出る涙をぬぐおうともしない。38銃一丁を頼りに、圧倒的米軍と戦いとも言えない局面に投入されて、よく命があったものだと振り返る。
日本軍部指導部の徹底した頑迷愚劣さは、太平洋戦争のあらゆる局面で遺憾なく発揮された。その犠牲になった兵士たちは堪ったもんじゃない。その嚆矢とされているのが、ソロモン諸島・ガダルカナル島奪回作戦ではないか。旭川市を基地に編成されていた第七師団歩兵第28連隊、工兵第七連隊第一中隊および独立速射砲第八中隊からなる一木支隊(隊長一木清直大佐)が、日本軍が建設した飛行場を奪回すべく、2000名の兵員でもって隠密上陸を敢行した。結果、駆逐艦をつかっての作戦であったため、上陸できた兵員は916名とされている。そしてその装備もほんと38銃しか手にしていなかった。しかし軍部には、それまでの大陸での戦闘のイメージしか持ち合わせていなかった。一方、米軍はそれまでの敗勢を盛り返すべく、全ての準備が整い、近代戦の最先端をいく装備でてぐすねひいて待ち構えていたから堪らない。貧弱な装備をカバーするには、夜襲にたよるしか能がない。それも銃撃を禁じられた白兵突撃を命じられる。銃剣で相手を突き殺せというわけだ。
米軍は飛行場周辺に、数限りなく集音マイクを設置し、日本軍得意の夜襲攻撃も、その気配を察した米軍の照明弾のもとに、丸裸にされてしまった。この本格装備の米軍と日本軍が地上戦を戦った最初の戦闘で、一木支隊の916名中777名が戦死した。殺戮ともいえる戦闘が終わり、累々と横たわる日本兵の前に6台の戦車が現れたそうな。その戦車は、密積している死体と負傷兵をめざして突進し、まるで虱でもつぶすように蹂躙を重ねた。その後、ガ島では31000名の兵士が投入されて、5000名が戦死、15000名が飢えで死ぬことになった。
思わずこみ上げるのは、この初戦を少なくとも教訓・学習して、せめて次の作戦に生かすことでもなければ、兵士の死はまったくの犬死となる。しかし現実は、インパール作戦の無謀を例にとるまでもなく、終戦にいたるまで繰り返され、無辜の兵士と民を地獄へと追いやった。この程度の低さはまったくどうしたことだったのか。想像だにだきません。司馬遼太郎が太平洋戦争は書けないと筆を投げたのも頷ける。
西南戦争末期の西郷軍と大久保利通率いる政府軍ほどの格差戦争の経験はどこに置き去りにされたのか。
物量が戦場を支配する原則を無視して、大和魂ですべてを押し切ろうとした我々日本人のしょうこりなさはいまだ引きずっている気がしてなりません。
第205回プログラム クラッシック・ステレオ・コンサート
昭和36年3月16日(金) 場所 さんよう喫茶
旅先で、想いも懸けず知り合った人、好意を寄せあった人に、
お互い、何も残さない積りが、”いざ”となると、フツと涙の溢れてくるような
淋しい気持ちを感じ、あの惜別の情のもたらす感傷に浸る時
人の心情は限りなく、純になるものと思います
・・それは本当の意味での善意の源となるものかも知れません・・
そんな場合、人は努めて美しい思い出を無意識の裡に創ろうといたします
それでなくても、別れるまでの瞬時が、瞬時であるが故に、貴く、美しく
それ自体がもう思い出となっているのです
そして一時、人は思い出が生む感動の強さのために、忘却という事実を忘れるでしょう
お互いに決して思い出を色褪せさせはしないという確信、そして誓いを
大きな慰めとして別離してゆくのです。
けれども、その瞬間から人は、その思い出に渦巻く感情から、また別の感情の大海へと
乗り出してしまい、もう再び帰ってくることは出来ないのではないでしょうか
*ほんとよくもわがままを許してくれたことです。不思議と悲壮感もなく、ピーカン(両切りたばこ・ピースの缶入り・これが誠に旨い)片手に大阪から急行・生駒に乗って東京へ記念受験に出かけた。慶応・経商、早稲田・政経商と一巡して、新橋の第一ホテルを宿にしていたが、懐が淋しくなって木賃宿に場所を変えたとき、仲居のおばさんに親切にして貰った。別に何があったわけではない。 けれどかなりおセンチになっていたんだ。忘れもしません、東京から3月3日ー4日の商大受験のため、3日の早朝、舞子駅に降り立つと、両親が車で出迎えてくれて、熱いコーヒーにサンドイッチを用意してくれていた。あの味は忘れられない。ほんと美味しかった。
たしか、舞子公園のお粗末なポッちゃん便所で用を足して、商大に向かったんだっけ。後日、息子たちに省線の車窓から、舞子付近を通過する度に、「あそこで運をつけたにかわらん」と言い続けて顰蹙をかっておりました。
その際の入試は、国語は文学全集を読みあさった効果なのか、三好達治が出たせいか。また数学は大道で解いた問題がでておりました。英語もかなり出来ちゃった。かなりの手ごたえが有りました。それが証拠に、母親にだけは、「今度は通ってるかしれへんで」と囁いたことでした。
親父が知り合いのT教授に入試合否をいち早く教えて貰うべくお願いしていたらしく、後になって聞くところによると、T教授に2年目には、初回より成績が落ちている、息子さんに諦めるように言って下さいと言われたとか。
そうは言ったものの、ありがたいことに、今回も気に懸けて下さっていたらしく、発表の前日には合格のTELを下さった。しかし神戸新聞の発表記事で確かめるまでは気が落ち着かなかった。
そんな泣き笑いのうち自ら招いた受験地獄から、やっと這い出ることができました。
第204回クラッシックステレオコンサート
昭和37年2月16日(金)場所さんよう喫茶
人の才に”苦悩する才能”が有るとしたら、私は前世に置き忘れたようでございます。
私が、今の今まで、ある事について、悩み続けてきたと思い込んでいた、その姿は
唯いたずらに、身勝手な憂愁に浸っている、実に弱い意思そのものの幽姿でしかない
もののように思えるのです。苦しんで苦しみ抜き、ひたすら悩んできた筈であった私が
今、感じているこの情感は、その”苦しみの”の因、”悩み”の実相を遂に把握すること
なく、突出した両の手のやり場に困り忘ぜんと大地に突っ立っている情感ではないか。
・・・悩みは底知れず、悩む自分の姿を”悩み”を持たぬそれよりも貴いものと考えてきた
のではなかったか。・・・空になった想念のままぼんやり青空に溶け込んでいる自分に
フツト気づいて春愁とは違った気の滅入りを感じたところでございます。
*もう救い難い程落ち込んでやがる。浪人2年にして、もう入試目前の2月半ばですよ。前年の7月に喫茶リオ・ブラジルがオープンして半年間は、連日朝から深夜までお店にかかりっきりになっていて、勉強は全く手を付けておりません。というのも、リオ・ブラジルはその当時発売ほやほやだったエレクトーンを取り入れ、YAMAHAの協力もあって、連日デモ演奏をするは、オーデイオはあの松岡氏が腕に拠りをかけた優れもので、絵画展も同時に開催し、連日の大盛況を博しておりました。その傍ら、この半年でエロエロ勉強はいたしました。そして1月15日の成人の日の朝、突如俺はなにをしてるんだとおそまつながら気がつきました。ですから、この頃は、俄然勉強を始めたばかり。
もっとも、前年の10月には、音楽部の呉幸五郎先輩からコンクールに行くのに、トロンボーンが足らないんだよとのお誘いを受けて、東京の台東体育館で行われた全日本吹奏楽コンクールに自由曲チャイコフスキー作曲交響曲第6番「悲愴」第三楽章で出場し、一般の部で第2位の成績を収めてはいました。その際聞いたフランス軍楽隊・ギャルド・レプブリケーヌの演奏は、これが同じ金管楽器の音かと耳を疑うほどに、優美で、柔らかなサウンド・響きをもったものでした。そのことからか、2年近くご無沙汰のトロンボーンをまた吹き始めるキッカケとなりました。・・・そのことが以後の人生の一番の鍵となりました。
ちなみにそのときエレクトーンのデモ演奏に来てくれていた沖浩一君は1966年の第三回ヤマハエレクトーン
コンクールで見事一位に輝いたほどの名プレーヤーで、あまりの熱演に同じ建物の映画館から、音がもれてこまるとの苦情度々でした。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)