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第204回クラッシックステレオコンサート
昭和37年2月16日(金)場所さんよう喫茶
人の才に”苦悩する才能”が有るとしたら、私は前世に置き忘れたようでございます。
私が、今の今まで、ある事について、悩み続けてきたと思い込んでいた、その姿は
唯いたずらに、身勝手な憂愁に浸っている、実に弱い意思そのものの幽姿でしかない
もののように思えるのです。苦しんで苦しみ抜き、ひたすら悩んできた筈であった私が
今、感じているこの情感は、その”苦しみの”の因、”悩み”の実相を遂に把握すること
なく、突出した両の手のやり場に困り忘ぜんと大地に突っ立っている情感ではないか。
・・・悩みは底知れず、悩む自分の姿を”悩み”を持たぬそれよりも貴いものと考えてきた
のではなかったか。・・・空になった想念のままぼんやり青空に溶け込んでいる自分に
フツト気づいて春愁とは違った気の滅入りを感じたところでございます。
*もう救い難い程落ち込んでやがる。浪人2年にして、もう入試目前の2月半ばですよ。前年の7月に喫茶リオ・ブラジルがオープンして半年間は、連日朝から深夜までお店にかかりっきりになっていて、勉強は全く手を付けておりません。というのも、リオ・ブラジルはその当時発売ほやほやだったエレクトーンを取り入れ、YAMAHAの協力もあって、連日デモ演奏をするは、オーデイオはあの松岡氏が腕に拠りをかけた優れもので、絵画展も同時に開催し、連日の大盛況を博しておりました。その傍ら、この半年でエロエロ勉強はいたしました。そして1月15日の成人の日の朝、突如俺はなにをしてるんだとおそまつながら気がつきました。ですから、この頃は、俄然勉強を始めたばかり。
もっとも、前年の10月には、音楽部の呉幸五郎先輩からコンクールに行くのに、トロンボーンが足らないんだよとのお誘いを受けて、東京の台東体育館で行われた全日本吹奏楽コンクールに自由曲チャイコフスキー作曲交響曲第6番「悲愴」第三楽章で出場し、一般の部で第2位の成績を収めてはいました。その際聞いたフランス軍楽隊・ギャルド・レプブリケーヌの演奏は、これが同じ金管楽器の音かと耳を疑うほどに、優美で、柔らかなサウンド・響きをもったものでした。そのことからか、2年近くご無沙汰のトロンボーンをまた吹き始めるキッカケとなりました。・・・そのことが以後の人生の一番の鍵となりました。
ちなみにそのときエレクトーンのデモ演奏に来てくれていた沖浩一君は1966年の第三回ヤマハエレクトーン
コンクールで見事一位に輝いたほどの名プレーヤーで、あまりの熱演に同じ建物の映画館から、音がもれてこまるとの苦情度々でした。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)