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ba0b7bd4jpeg    吹奏楽部を最初から設立しようとの計画があったのか、無かったのか、北林に聞いて確かめないと。北林が最初からマンドリンから無理やり引き抜かれて参加していたことを考えると、できれば吹奏楽部とはいかないまでも、勇壮なブラスバンドぐらいは、儀杖に必要と考えていたかも。ところが、趣意書にて浄財を募ったところ、予想以上の反響で、そこそこの資金が集っちゃったんでしょう。早速、バンドの編成をということになった。うろ覚えだけど、3回生は北林1人。クラ・サックスなら高校で吹いていたらしい。2回生は平田拓雄(日清製油・現在司法書士)がトランペット。1回生に小林武司(明石高校音楽部後輩・第一勧銀本部システム部長)がクラ。仲本浩章(故人)がペット。岡田勝(明石商業・松陽高校教員)が下手なトロンボーン。・・トロンボーンには点が辛くなる。でとてもメンバーが足りない。バンドにならない状態。そんななか、児島団長から直々、何とかしてくれと泣くように頼まれた。吹奏楽部は10月6日設立とし、1964商大祭デビューをしなければと無謀な計画だけが先行している。もっぱら練習の合間をみてドレミの音階練習から始めないと、十分な音など出る代物ではない。それでも、小豆島での合宿が終わる頃には、不思議なもので、其々が腕を上げてきた。しかし、演奏上、絶対的にパート・人数不足でどうしようもない。・・一計を案じて、(前に松井隆司君のことを書いた項参照)ちょうど全日本吹奏楽コンクール関西大会出場のため指導していた神戸大学教育学部明石附属中学のブラスバンド全員と、同じくアルバイトで教えに出向いていた高砂のカネカ化学のバンドの全員を強制招集して人数を整えた。商大祭園遊会には中学生が出演し、中学生の中に,田中博教授のお孫さんのお嬢さんがいたりして女生徒はモテモテで大喜び。さすがに国際会館での演奏会には荷が重かろうと、こちらはカネカ化学の連中と、明石高校OB吹奏楽団からのエキストラの招いて堂々たるシンフォニックバンドが即席ながら、出来上がった。いま当時のステージ写真を見るに、我ながらまあ立派なものです。

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今まで書き綴り、書きなぐってきた文を再読すると、まるでサッカーしかやっていないような印象を与えかねない。しかし、実際は勉学に励み、読書に勤しみ、デートも欠かさず、ラッパもずっと吹いておりました。昭和37年の秋ごろか、同期の2回生の中の元気者7人ほどが、元気をもてあましてでもないだろうが、1.我が学園に独特なスクールカラーを打ち出す機会をつくること。1.体育会、文化会のより一層の発展。1.商大生同志間の融和。の3つをスローガンに応援団創団の動きを示した。準備段階として児島武・鯖田淳一・北林弘美・竹内茂・赤木克彦・岡田述史・萩原圭裕が7人のサムライと称して、まず陸声会を立ち上げた。グランドの隅で蛮声を上げている連中は、揃いも揃って、小柄で、恐ろしく足が短かったことを何故か妙によく覚えている。翌昭和38年2月1日を期して、サッカー部顧問であられた田中博教授を顧問に迎え、神戸商j科大学応援団が創団、発足した。当時応援団設立趣意書を各界OBに発したところ、予想以上の反響があり、多大な厚志を頂く結果となった。皆さん母校を思う熱い気持ちの結集であったのでしょう。特に力を入れられたのが、当時東京財界で勇名を馳せておられた高商2回生・野村證券中興の祖と謳われた北裏喜一郎社長であったとか。

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さても不思議なことに、たった4年の間走り回ったに過ぎない淡水サッカー倶楽部の総会ともなると、齢60余歳にして、未だいそいそと出かけて行く。これは一体なんなんだろうと考える。いまさら、球を蹴るわけでもなく、ましてや100メートルも走れないに違いない。しかし、OB戦観戦中、現役・OBのサイドに拘わらず、GOALチャンスとなると、身体が知らぬうちに反応して、思わず喊声をあげている自分に気がつく。きっと商大サッカーで培われたGOALを目指す本能・野生がまだ、身体に息づいている証拠だと感じる。どれほど試合に臨んで我がほうが劣勢であっても、一身を持って敵GOALを目指す。いくら跳ね返されても、失敗しても、TIMEUPの笛を聴くまでは、点差がいくら開いていようと攻撃の姿勢を崩すことは決して無い。この実にストイックなまでの試合・練習の繰り返しが本能・野生にまでなっている。お蔭で、卒業して後の実社会での、苦難の波を被る際、困難を察知する前に、身体に一種電流のごとき緊張が走り、危機到来を知らせてくれる。追い詰められたとき、知らぬうちに思わぬ手段に打って出て場面を打破する。要するに球際に強いことで、どれほど助かったことか。事実サッカーにおいてもFWとBKの一対一のGAMEで、FW朴木(ほうのき)と対して10戦10勝だったことを覚えている。この戦局感と身の処し方を学んだことを武器にして、この40余年を凌いできたと言って過言で無いと思う。・・・このごろ去年の10月頃をピークに不動産業界の雲行きが怪しくなってきており、一般企業も企業立地・収益物件取得に弱気を見せだした。そのことを我が本能が感じて警鐘を鳴らしだした。売り手・買い手双方に満足のいく取引でないとまず成立しないご時世の到来であります。そしてこの状況こそが、我々街場の業者にとって望ましいものなのです。景気がよければ、我々のレベルに降りてくる前にBK間で取引成立となってしまう。我々の出る幕も無い。しかしこのように落ち日和ともなりますと、買いNEEDS側に立って、売り物を嗅ぎ当てる我々の出番となるわけです。また倒産・破産物件の任売相手を探しですのに、日ごろの好奇心で集めた情報を駆使する機会到来となる。曰く不動産アメーバー。この存在がないと物は動かない。
執拗にプランを組み立て、フォーメイションを変えてGOALを飽くことなく目指す。要は実業のフィールドでご臨終の鉦が鳴るまでサッカーをやっておれば良いだけのことか。

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平成9年の総会にて現吉田進会長にバトンタッチというより、タスキを放り投げてから、はや満12年を迎えようとしています。オムロンの執行役員であられた吉田会長は、東京勤務にも拘わらず、リーグ戦ともなると、春・秋とも週末京都本社に用事を作り、必ず観戦督励を欠かさない。合宿ともなれば、これも必ず参加して現役を見守る。また、OB会に関しては、従来から盛んに会合を重ねていた東京支部の充実と、神戸周辺の若手OBの結集を図り、会費集金にも励んだ。会は見る見るうちに、組織として躍動感を帯びてきた。現役の指導に当たっても、殿村終身ヘッドコーチを中心に、イズミヤの人事をやっていたG15.楠瀬強氏が、部員の一人一人を注視して、助言褒め上げに徹する。G18濱口章氏も現役個々に声がけしてきめ細かいアドバイスを送る。ほんと現役OB一体となって2部復帰を目指して頑張って頑張っての12年。その間2部復帰を瞬間果たしたことが、多分1度ありました。その時期は、部員も多く、選手ばかりでなく、スカウテイング機能をもっプレイイングマネージャーの役割に徹したスタッフの存在があり、この体勢が継続できれば、2部にまずは留まり続けられれのではと期待したこともありました。近年は、総会にて何とか2部復帰を果たし、吉田会長の労苦に報いて欲しいとの懇願を繰り返すばかりと成っています。今年も7月12日には同じお願いをすることになるでしょう。ただ、去年の総会後吉田会長から、次期会長候補者に誰を推すかとの打診がありました。そのときは2部復帰条件付で具体名を一名挙げはしましたが、これは私の出すぎといまは反省しています。どうか自分の納得のいく人物に次期を託して下さい。それが今期であるのが望ましいと考えています。というのも後2年で創立80周年の節目がやって来ます。その周年を期して、我々の歩んできた道の集大成を計るための旗を振る中心は吉田会長をおいて他居ないからであります。・・どこまでもついてゆきますから。

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自営業の宿命は、景気の変動に左右されることでしょう。満5年間自分なりの原理原則を守って淡水サッカー会長を辛うじて務め、現行の総会形式も定着して来た頃。ちょうど平成7年の阪神大震災の復興景気も一段落をむかえると、明石駅前での我が生業も陰りを見せ始めてくる。同時に手がけていた不動産仲介業は順調に実績を伸ばし、本業の赤字を十分補う程になってくる。股裂きのような日々の仕事を抱えて時間がいくらあっても足りない状況。さすれば、そろそろ会長機能を次なる人物にバトンタッチしなければと決意して、平成9年6月の総会に臨んだ。次期会長を託す人物選定には何の迷いも無くG17回の吉田進氏を指名して、快くご本人の了承を頂いた。私が会長職を拝したときから、次は吉田と決めていたのには訳があります。話は40年前、昭和40年秋季リーグを5位でやっとのこと乗り切り、次期主将の指名決定に迫られたとき、彼を主将にしようかと相当迷ったことがあります。その際、彼なら、副将であってもチームへの貢献に全力を注いでくれると熟考結論して、副将指名をした経緯がありました。好漢・吉田は我々商経学部の文系人間とは違い、商大に管理学科が新設された際の、第1期生でたぶん京大くずれ。初代管理学科・小笠原教授(後に兵庫県副知事・芦屋大学学長)の秘蔵っ子のバリバリ理系人間です。何事にも前向きで、頼りがいがあり、疲れというものを知らない、誠実一路の人柄です。そして責任感を重んじることこの上ない人物です。というのも、私と長本が抜けた、翌年の秋季リーグで、運悪く3部落ちの悲劇に見舞われてしまう。本当に運悪くとしか言いようの無い結果でしたが、このことを誰よりも深刻に受け止めたのが、誰あろう吉田進氏でした。幸い立石電機・OMRON-京都に就職した地の利に恵まれた彼は、卒業後早速現役監督としてグランドに現れ、卒業3年後の昭和44年(水野主将)には見事2部復帰に導き、責任を果たされました。この時代、44年ー52年の間は、1部復帰祈念特別号の会誌を出したほどの盛り上がりを見せた、戦後第2黄金時代といって良いでしょう。その12年あまりの間、黙々と監督を務めていた彼以外にバトンを託す人物がいるはずがない。・・・この選択こそが、私の淡水サッカーに齎した最大の功績となろうとは、この時はまだ気づいてはおりませんでした。

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