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我々も総会の度に気持ちを新たにしなければならないところ、むしろヤレヤレの感じが勝ってしまっている。こんなことでは、80周年の後の展望がひらけないのでは。昔は公文会長に総会のたびごとにいたらなかった点を叱られたものです。今はそんな損な役を買って出る存在が懐かしい。事業報告に立って皆様に龍馬IN神戸事業で思いのままやらせていただく暴走をお許し下さいと謝ったものの、この会をかき回しているのは、実は俺でないのかとの反省もあります。
それこそあと10年後のわが県人会のオリジナルなありようを一度立ち止まって考えるのも一案。
そんな意味で、今回の正調よさこい踊り総踊りは意外な効果がありました。はじめは照れくさそうな様子であとをついていくだけの所作が、ラストの頃になりますと、てんでに手をふる足をふる。皆さんいい顔で踊りの輪に溶け込んで見えた。いつもなら決して踊りなどしなかった人が、鳴子を手渡されて渋々
輪におしこまれた様子が一変熱気さえ感じる盛り上がりとなりました。続いての「南国土佐」大合唱となった頃は、皆さんが主役となっておられました。かくあってこその県人会と、大きなヒントを頂いたことでした。
元来、トロンボーンという楽器はその成り立ちからして、伴奏にまわる役割で、曲のテーマがさまざま変化してゆくバックで軽快・重厚なハーモニーを奏でるように出来ていると、ずっと思いこんできました。だって、トロンボーン教則本を例にとっても、当分山本正人著しかなかったように思います。その練習曲もトロイメライ等しか載ってなかった。私自身ソロの楽しさを覚えたのは、大学生時代、大阪音楽団のバズーン奏者であった1年先輩の大崎健一氏から、JAZZBAND「セイバリーイン」参加を誘われてグレンミラーサウンドに夢中になってからのこと。SWINGのDIXIEのとその後の人生を方向づけされたのもこの頃のこと。そんなレベルの私にとって、呉教授のハイブリッドトロンボーンは全身を耳にして一音も聞き逃すべからずの宝物だ。優雅に、激しく、優しく、厳しく、あくまでも美しく、囁くように、雄たけびを上げるように、演奏は流れてゆく。音質も中音域に特に深みがある。高音がよく響く。どこをとっても申し分がない。そんな中、中盤で最もハイトーンの速いパッセージに少し音の掠れと狂いがあったように聞こえた。・・一瞬耳を疑いつつ、ああやはりそうなのかと一人頷く。彼もやはりプレス派それもかなりのハードプレス・唇にマウスピース痕クッキリ派なんだ。ラッパの奏法にプレス奏法とノンプレス奏法がありますが、我々が習ったころはプレス主流の時代。この奏法の利点は、音色に奥行きと味が出ること、JAZZなどには最適。しかし、永い演奏をしていると唇がバテテしまうのが欠点だ。だから、演奏本番前の練習もやり過ぎるとよい結果にならないことがある。そのほどほどがまことに難しい。そのうえ3日も吹かないでいると唇が戻ってしまい、もとに戻すのにその倍の時間がかかる。そんな厄介な奏法をノンプレスに換えようとやってみたこともあるけれど、これが全く別物で、たぶん習得には相当時間を要し、その間まともな音もだせなくなる。アマのわれわれが今更めざすところではありません。
たぶん会場でこれを聞きつけた人はほんの少し。ある意味ホットするものを感じて目を瞑る。こんな贅沢な時を過ごしていいのかな。また聞けるときがあるのかな。・・深いため息とともに、腕組みをして席に身を沈めるのが精いっぱい。感動を独り占めだ。ご両人に本当に有難う。夢私めが聞き耳を立てていることを気づかれる心配もない。・・・拍手
私にとってのふたりとの因縁話もさることながら、演奏会では両人が明石高校音楽部の1年違いであったことは披露されなかった。演奏後のふたりが交わした熱い?抱擁の意味は、高校以来音楽畑で互いに研鑽を重ねてきた想いも込められたものだったろう。それと、今や松井先生は明石フイル(たこフィル)の看板指揮者として活躍中ですが、これに対する呉先生のバックアップも凄いものがあると聞いています。関西音楽界を引っ張る両輪の関係を思えばステージでの演奏の意味も違って感じられるのではありませんか。50年の時の重みと、両人に対して心からの応援の気持ちで、しかも極上の演奏を聴けるなんて。あの会場を埋め尽くす人々の中で、まるで私のためだけに演奏してくれているような錯覚をおぼえながらの2時間。まさに至福のひと時でありました。
そんななか、演奏会そのものに感じた私の拙い感想も少しはありました。
そのひとつに、神戸文化ホールのステージ音響に関して、音が前に出ないなあ感じたこと。脇で聞いている弟に何度も確かめるように、音がこもってるなあと言葉を交わした。ステージ反響が良くないのではとの疑問です。なにしろステージ上には第一部から、2・3年で80人は超えているメンバーでの演奏であります。もっと音の厚みと、圧倒される程の音量があってもと感じた。もっとも、私の捉える感覚は、昭和40年代のもので、それから退歩はすれ、進歩しているとは言い難いことは承知。
それでも、次に何が起こるかというワクワク感が少し乏しくおもえた。振り返ってみるに、我々が現役のころ、ブラスは男子のものの時代でありました。40名の部員のうち、女性と言えば、CLA・FLUTE・SAXとパートも限られてほんの4-5人がいたように思う。それこそ、ヤンチャざかりの悪童集団が、ラッパを吹く時だけはお澄まししているという、荒々しさと若さのエネルギーに満ち満ちたものでした。演奏からして、あるいみ我が俺が式で、必要ないところで、頑張りすぎておこられることばかり。ピアニッシモではパート全員が音を出す必要はありませんよとの恩師チュウサン(有永正人先生)の声がいまだに聞こえてきます。
檀上をみれば、今時そのもので、部員130余名中男子15名の構成。女性ならではの、優雅さと調和に、瑞々しさと、色気が加われば、鬼に金棒じゃないかな。
そんななか、部員全員による混声合唱のステージがあった。イカキタの恒例のステージということだけれど、これが意外と聴かせる。ブラスの演奏会に同部員による合唱というこの仕組みに、松井先生が引きずっているエバーグリーンの世界を見たと感じた。爾来人間の声にまさる楽器はないのであります。第九の最終章・合唱の出だしでいつも、毛穴が広がるような感動をおぼえるのは、私だけだない筈。しかも演奏曲目は、重厚で、むしり単純な、調和の世界。じつは、これが難しい。複雑なフレーズを吹き飛ばす、唄い飛ばすことは案外とやれるもの。この単純ながら、絶対調和を求められる音だしこそ、それも自前の声でなおかつ、美しく謡いあげねばならない。最高のトレーニングになっているだろうな。
そんなことを思いながら、2008年のコンクール課題曲「セリオーソ」を聴いた。松井先生もあと2年足らずで定年をむかえるはず。そうあと2年で、念願の全国大会出場を果たさねばならない。時間がないのです。
私なら、この時点でかなり焦りをかんじるだろうに、指揮する後姿(後姿の良さは阪急の鈴木さん並み)にはそんな感じを微塵も見せず、松井ワールドを奏でてゆく。このペースなら、キット今年は行くよ。全日本に。
昭和43年卒業と同時に新設の明石北高校に音楽教諭として赴任した。じつはこの当時から、松ちゃんを明石高校の音楽教諭に迎えようという動きがOB連の中にあり、この動きはその後、松ちゃんの転校時常について回ることになります。実際、県教育委員会のしかるべき筋に明石高校赴任を働きかけたのは2度や3度ではありません。
明石北へ赴任して直ぐに吹奏楽部を創設した彼の悩みは、絶対的な楽器数不足でした。そのころちょうど私は明石駅前でMUSIC・INNボサ・リオというライブハウスも経営しておりましたので、店に転がっていたペコペコのTUBA、弘子ちゃんの妹が持っていたC管のSAXなどを供出いたしました。弟もそのころYAMAHA(当時日本楽器)神戸店の営業でおりましたので、かなり供出に協力したと聞いています。そんな苦労の最中、我が店に備えていたエレクトーンの練習にやけに通い始めた。同じビルの7階に弟を通じて誘致したYANAHA音楽教室があり、最初はその当時はやり始めていたエレクトーンの練習を始めた頃だったらしい。しかし、どうやら目的はすぐ変更された模様で、今の奥さんとはそのときその教室で知り合ったことは確かな事実です。
中学時代の紅顔の美?少年の時からの知り合いのせいか、それからも頼り・頼られる仲であったと一人合点しております。そして、その信頼関係がもっともいい形で発揮されたのが、神戸高知県人土陽会のHP・ゲストブックにも書いた、明石人丸ライオンズクラブ主催のアンサンブル・コンテスト開催への協力でした。明石の吹奏楽のレベルも中学の吹奏楽部が全中学に行き渡ったころ、一応の段階に達してはいたものの、なお上を目指すための仕掛けは無いものか模索しているその時、ちょうど私が所属していて2度目の幹事を仰せつかっていた明石人丸ライオンズクラブのテーマである「青少年育成のための」ACTIVITYに頭をひねっているその時、個々の技量を向上させる場としてのアンサンブル・コンテスト開催はどうだろうと双方から持ちかけあったようなタイミングで事は始りました。
最初はまず一回やってみようということで、会場も明石市民会館中ホールとし、ただし審査員の先生方は一流どころをお招きして、故山手照雄明石吹奏楽連盟理事長の後押しもあり開催にこぎつけましたのが昭和57年(1982年)2月29日のこと。ところがこのコンテストが期待以上に好評でその後連綿と続き今年で第26回参加78組出演者410名(金管打楽器・木管の2会場に分かれて)の規模にまで成長しております。
この間、松井先生は明石北高と兵庫高で計8回、吹奏楽部を全日本吹奏楽コンクール全国大会に導き、金賞に3回輝いたことは皆さんご存じの通りです。そして伊川谷北高校赴任は平成8年のことでしょう。以来イカキタで一からのクラブ育成に努力。今日にいたっていますが、コンクールにおいて、神戸市大会10年連続10度めの県大会出場権獲得し、兵庫県大会 金賞。2年連続3回目の関西大会出場権を獲得。関西大会においt銀賞を獲得されているが、悲願は全国大会出場にあることは言うまでもありません。
一方、松ちゃんこと松井隆司先生との御縁はこれまた語り尽くせないほど思い浮かぶ。
最初に松ちゃんに出会ったのは、彼が神戸大学教育学部附属明石中学2年の時かな。私たちは3兄妹で4歳下の弟・啓三と8歳下の郁子。不思議なことに難関入学試験をくぐり抜けて3人そろって附属小・中とお世話になりました。その妹も附中のブラスバンド部に入りクラリネットを吹いておりました。そのころのブラスバンド部顧問は赴任2年目の川端敏夫先生。天然パーマの優しげな先生だったことを思い出します。そして松ちゃんは妹と同級生でトランペットを吹いておりました。松ちゃんのお母さん・松井きぬ先生(教員)は一人息子を音楽の道に進めるべく、幼少の頃よりPIANOを習わせ、中学ではトランペットというわけです。たぶんトランペットは松ちゃん自身の望んだ楽器ではなかったかな。線は細いが美しくメロディーが吹けるタイプであったと思います。川端先生が附属明石中学の記念誌・「30年のあゆみ」で回顧されているのを拝見しますと、赴任された当時、ブラスバンド部は部員わずか3人という惨状であったそうです。しかし2年目、松ちゃん達がたくさん入部してくれて、彼らが2年となったとき、最小編成の人数がなんとか揃ったと書かれています。ちょうどそんな時、商大生2年のひと夏、ずうずうしく押しかけて、是非コンクールに出てみてはとそそのかし川端先生をその気にさせたのは私です。この吹奏楽コンクール・中学の部(B)に出場するということは、附中にとって結局空前にして絶後のイベントとなりました。せいぜい士官候補生とか錨を揚げての演奏で事足れりとおさまっていた連中に自由曲「軍楽隊のための第一組曲から・行進曲」(ホルスト)という、かれらにとっては大変な難曲を持ち込んだものです。ちなみにこの曲は昭和38年(1969年)呉教授のお父さん・呉幸五郎氏の指揮で明石高校OB吹奏楽団が福岡の八幡市民会館での全日本吹奏楽コンクール一般の部で全国3位に輝いた際の自由曲でありました。そんな大曲を押し付けたてまえ、その夏はつきつきりで練習に付き合い、予選の舞台袖まで付き添いをかってでてものです。その際松ちゃんが唇が渇くといって、しきりにウオータースプレイを使っていたことを覚えています。だけどこの壮挙?のためか、この時の部員の結束は強く、他に3年生の古閑・竹元・足立、2年生の大脇・今村・石川・田辺などの名前を未だに覚えています。
その後の松ちゃんは明石高校音楽部・大阪学芸大学特設音楽科にすすむわけだけど、コンクールへの指揮者デビユーは大学2年時昭和43年(1968年)明石高校OB吹奏楽団を率いての兵庫県吹奏楽コンクールだった。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)