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一言で言えば、同一・同品種・大量生産の近代社会での経営原理は、まさに如何に、優れた同一品種を大量に安価に供給し、人々がそれを選択するまでも無く、受け入れて良しとする社会。これを打破するには、個々人が自身でなすあらゆる選択の判断原理を唯物的数的お徳感覚でおこなうのではなく、其々の信じる価値判断により多種多様に行うべしということ。言ってみれば、ブランド物の高級万年筆よりも、我が子が少ないお小遣いの中から選んで買ってくれたありきたりかも知れない万年筆の方に価値(ねうち)を感じるということか。・・サッカーのリーグ戦が終わって、3部落ちをまぬがれ、二度とサッカーなどするものかと、同志社・香露園のグランドにシューズを捨てたのが11月22日の我が誕生日24歳。その日から、卒論提出期限のたしか十二月十五日まで、かかりっきりでデッチアゲタ卒論がそれ。審査担当の加地教授ももひとつ分からない様子。栗田教授もまあいいだろうぐらいのこと、しかし、あれから40年、いま図書館に保存されている我が卒論を以前読み返した時の感想は、まさに「マックス・ウエーバーもP・F・ドラッカーも超えた。」・・ちょうどリーグ戦突入寸前、昭和41年の就職戦線は前年までの青天イケイケとは違い、一転暗雲がたなびき出したような状況に転じていた。サッカー部のキャプテンを申し付かっていた私にとって、この際津野の代で3部落ち必定などとの先輩の声もあり、就職どころの騒ぎではない状況。(実はこれが人生の最大の痛恨事、就職先の選択が一番大事と今になっておもいしる。)YAMAHA。野村不動産・阪和興業・杏林薬品などと受けてみるが内定が出ない。一年上ながら、留年してともに就職先を探しているK先輩も、おなじ状態。お互いに情報を交換するうちに、K先輩が先日うけた(株)入江商店が再募集との張り出しを発見。受験にあたり、Kさんに先日の試験問題を教えてもらって傾向と対策とするつもり。ところが、入江商店総務があろうことか同じ問題を使いまわし。当然私は全問正解。開闢いらいはじめての100点満点。さあ大変な秀才がきたものよと大騒ぎとなったらしい。早速、社長・重役面接の通知を頂いた。この当時の入江商店社長・入江一雄といえば、大阪道頓堀に本社を構え、八幡・富士製鉄の資材納入窓口商社として大変な勢い。ブルドックのような社長の風貌も、威厳あたりを払っている。開口一番、クラブ活動と、卒論のことを聞かれる。
学業成績は優が35ケとかなりの線。ただし、専門科目・語学を除く一般教養で稼いだわけ。ちょうど構想ちゅうの、価値合理主義を拙くも説明していると、社長が突然私を指差し「お前、明日から来い。」と一言叫んだ。あとで知るに、価値合理主義の説明がいたく気に入られたとか。
①は、その学年の関門とやら。ドイツ語Ⅰ・Ⅱのうち一つは通つていないと3年にはなれないOUTと言うわけ。Ⅱはほって置いて、極力授業にも出席して習得に励みはしたが、試験の結果が出る前に落ちであることは明白な事実。そんな時、最後の手段として、担当教授に泣きついて下駄をはかせて貰うしか道は残されていない。ドイツ語もA文法とB訳読の2教科があって、必死のパッチで、といあえずは姫路・神戸大学姫路の官舎におられたドイツ語Aの大河内助教授のもとへお願いにあがる。恐る恐るお尋ねしたところが、勿論点は足りてはいないが、関門のこともあり、お情けで及第点をあげているよとの、天から降ってくるかのような有り難いお言葉を頂く。そうなればBの鈴木先生には絶対お願いしなければと2月の寒さつのるなか、京都の自宅までお邪魔することに。そのころ、商大の学生間では厳しい先生方を称して「鬼の成瀬に仏の鈴木」との言い伝えがありました。サッカー部でも代々の科目ノートが受け継がれていて、この先生ならこの10年このノートとおなじ事を言うだけだから、サボって練習に出て来いというわけ。その先輩連が口々に、鈴木先生の仏とは、学生を仏にしてしまうことからきているのだよとわざわざ教えてくれる。仏のように優しく救ってくれるわけもないとのこと。しかし、私にしたらそれで諦めるわけにはいかないわけがある。ここでもう一年だぶるようであれば、今つきあっている弘子ちゃんともお別れのはめになりかねない。意を決して、京都へと向かった。鈴木先生にはこちらの用件など先刻ご承知であったろう。開口一番、いままで誰にも下駄を履かせたものなどいないよと言われる。がしかし、今回一人、試験の時刻を取り違えて受験できなかったN君には、前期の成績が良かったから合格点をあげておいたと言われる目が笑って見えた。Nくんとは、誰あろう私の親友且つサッカー部マネージャーでもある。・・ひと時間があって、先生曰く「もう成績表は大学に提出ずみですよ」。瞬間我が人生も終わったかと土壇場で首をさしだしている気分。ややあって、「明日大学にいって、点数を訂正してきましょう。」との言葉を頂いた。かくして、我が首は繋がり、帰り道の足取りの軽かったこと。
かのさんよう喫茶で帰りを待ちわびていた弘子ちゃんにまっさきに報告いたしました。その後聞くところによりますと、私めの点数訂正は教務課でも話題となっていたとか、また履かせた下駄も、あれは竹馬じゃなかったかと言われるほど。またその後、鈴木先生がそのような情けを見せることは二度と無く、一年上のサッカー部Wさんも卒業間際まで、鈴木先生のドイツ語を残し、就職も決まっていたことと、我々の手品をもれ知っていて、駆け込んだけれど、にべも無く追い返されて、我々と一緒に卒業されたのは未だ忘れられない思い出の一つであります。
かのギリシ哲学の権威・田中美知太郎先生の一の弟子といわれた鈴木照雄先生ご逝去を今、ブログ「哲学の森」を見て知りました。2008年5月9日とのこと。・・先生とのご縁は、神戸商科大学2年の教養ゼミでゼミ生としてご指導いただいたことが始まりです。大学に入学して、ハリキッテ第二外国語にドイツ語を履修したのはいいが、このドイツ語だけはスタートからつまずいて、授業中、順番に当てられるのが嫌で、終いには、教室に向かうにも足がゆうことを聞かないまでになってしまった。そんな状態で1年がすぎ、当然ドイツ語Ⅰは落ち。ドイツ語はいわば我がアキレス腱となっていました。と言うのもドイツ語Ⅰ・Ⅱを落とすと、2年から3年に進級するさいの関門に引っかかり。学内浪人を余儀なくされる。・・2浪の私にはこれ以上の足踏みは許されない。そんな時、2年の教養ゼミ選択の際、なんとかドイツ語を好きになろうとドイツ語と倫理学の教授であられた鈴木先生の倫理ゼミを選んだ。内心ドイツ語担当教官にお近づきになっておこうという計算が働いていたのかもしれない。しかし浪人時代の濫読のお蔭か少々倫理学・哲学に興味を持っていたのは確か。そのゼミでご指導いただいたのが、エートス即ち、人々が属している社会の一般的な気分とで言おうか。ethics/倫理の前段階のことと言える。その教材として先生が選ばれたのがマックス・ウエーバー著「プロテスタンテイズムと資本主義の精神」という名著でありました。大塚久雄教授の名訳でも知られるこの本を題材に各人が与えられたチャプターを学習・発表するのである。このゼミでの私は、ドイツ語の授業と違って実に意欲的に勉強いたしました。マックス・ウエーバーが言わんとしていることは、近代資本主義の精神とも言える、適正な利潤と勤勉な仕事振り。無駄をしないことによる資本の蓄積。これらのことが近代資本主義を生み出す土壌となったのではないかという考察であります。フランスの宗教改革者カルバンが唱えたプロテスタンテイズム・新教の教義では、旧教とは違って、人は救われる者・イエス復活の際天国に召される者は生まれた時から既に決まっていて(運命予定説)、親が救われるから子もすくわれるわけではない。旧教の如くいくら罪ぶかくとも免罪符を贖えば、罪は許されることは決して無い。それゆえ出家して、救いをもとめることも無意味で、人々はひたすら世俗内・即ち現世で、禁欲的な生活を送り、なんとか自分だけは救われてあることの証を得たいと勤めるすることに専念。これが近代のもう一つのムーブメント。近代個人主義の誕生を促したのではないかということ。このマック・ウエーバーの主張は衝撃的なものに感じられました。彼はなお近代合理主義の生み出した産業革命による同品質の大量生産・量の多数が正義とする社会の行き着く果ては化石化した、それこそ金が敵の無味な世界にと成り果ててしまうことだろうと予言した。
私の持ち分の研究発表の時には全力を投じて読み・理解したことを述べた。その際、一番に拍手喝さいして下さったのが鈴木先生でありました。このことから、二つの幸いをいただくことになりました。
青森りんごの開祖と称される菊池楯衛が明治10年、農業研究団体「化育社」を結成し産業としてのりんご作りを根付かせたとか。平成17年で苗木が移植されて130年。国内およそ100万トンの半分を生産、生産額は1千億円規模をほこるまでになっています。その間の苦労たるや、われわれの想像を絶する人々の血と汗と涙の物語があったことでしょう。特に、平成3年(1991年)観測史上最高の瞬間最大風速53メートルを記録した台風19号により、県内全域に被害額1741億と言われる大きな被害を蒙った。この19号台風には私も散々な目に遭わされている。明石駅前、今では懐かしくさえ聞こえる「ダイエー明石店東館」屋上で昭和50年(1975年)以来夏季営業しているビアガーデン用の仮説ステージが根こそぎ吹き飛ばされたのはたしか9月27日か28日。同じビルの地階で居酒屋ブラジル営業中、一階隣の酒道場のおばちゃん店員が、お店の2階屋根に、なにやら大きなものが落ちてきたような音がしたが、もしかして屋上ビアガーデンの備品でも落ちてきたのではないのかとの通報。ビアガーデンはその年の営業は終わり、しっかり後片付け、養生はしてあるはず、何が落ちるものがあろうかと、半信半疑で屋上に上がってみると、屋上中央に設えてあった仮説ステージの姿が無い。広さにして3メートル×9メートル高さ80センチの舞台が陰も形も無い。人が15人乗って歌いまくっても大丈夫な頑丈な作りだったのに。・・吹き付ける強風に、屋上に出る塔屋のガラス戸を開けることもママならず見渡してみると、屋上の庭園灯のポールが頑丈なコンクリート造の柵の上方に弓のように曲がって、何かがそれをカタパルトにして、上空に飛び出したかのよう。おまけに、その横のダイエーの広告塔の側面がベッコリ凹んでいるのがみてとれた。この状況を見て初めてことの重大さに気が付いた。舞台が宙を舞って、山陽電車明石駅の駅舎・線路上に落下しているに違いない。まさに事態は絶体絶命であります。しかし、ここで我が人生のうちのベスト3に数えられる「不幸中の幸い」がまっておりました。幸いなるかな、その年の4月7日山陽電車明石駅は高架が完成し、JR明石駅に隣接並行する位置まで北に移転しており、旧の駅舎・線路もやっと撤去されて、舞台が舞い落ちたところは、ただの広場となったところでした。これが、実際運行中の駅・線路上となればそのための事故が発生し、業務上過失・莫大な損害賠償などが発生。いまの私は確実に無いことになっていた。そのころ店にいた中国人留学生のケツを叩いて大急ぎでの跡片付け。私はなお吹き盛る強風のなか、一部引っかかってバタバタはためいている舞台の残りにロープを懸けて、それを身体に巻きつけ必死に引っ張る。しかし地上9階の吹きさらし、体は凧になったかのように振り回される。ほんと生きた心地がしなかったとはこのことだ。格闘3時間余、綱引きに強くなったのはこの時の経験故か。いま思い出すだに身震いする、悪夢の一夜。その台風が青森にも空前の被害をもたらしていたなんて。・・・俺はまだ幸せ者だったんだ。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)