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 15日までは龍馬レターが来たやら来ないやらの話しばかりになりますがお許しを。
今日もポストは空っぽ。むなしく郵便受けの底まで手で確かめての事だ。
もうこの週末しかないのにと、がっかりな気持ちで8階の事務所から淡路島を眺めていると、3時携帯が鳴った。
「もしもし北海道の浦臼小学校ですが」の声だ。「遅くなりましたが、浦臼小学校は15人の6年生ですが、龍馬さんへの手紙に参加します。本日15通を発送します。」と続いた。
2月1日、土居晴夫先生宅で龍馬講演会打ち合わせの際、頂いた1月1日付け朝日新聞北海道に掲載された北の龍馬達特集(1)に掲載された龍馬の肖像画を囲んだ浦臼小学校6年生15人の写真を見て、早速お願いの手紙を差し上げた。
まったくの不注意で、浦臼と羅臼を取り違えて、羅臼小にお願いの手紙が行ってしまったところ、親切にも羅臼小から浦臼小に教頭先生が手紙を転送して下すった。
そんなことで、短い3学期の忙しい中で、どうか参加して下さいと心中願っておりましたが、思いがけず実現の電話を頂くことになりました。
明日、明後日にも届くであろう15通の宝物が待ち度しい。

北海道・浦臼小学校6年生の皆さん(朝日新聞・北の龍馬たち)

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 締め切りを5日後に控え、お願いしていた方々に、なお宜しくと念を押す。
内心では、3月末まででも、締め切りを伸ばしたい気持ちだ。
しかし、選考を進める上で、ルールは守らないと仕方が無い。
今日もはるばる厚木の空から、昨日手紙を出したけど、もう一度書き直したので差し替えてくれとの電話だ。
公私とも忙しい中、無理やりのお願いを叶えてくれる。もう感謝感激あるのみ。
神戸で賢人会と言えるハイレベルな同窓の集い。それも70代半ばの同級生が集まり、研鑽を重ねておられる会の主宰者K氏からも貴重なメールを頂いた。
戦後、復興の時代を生き抜いた方ではの、貧困からの脱出、差別撤廃など、潜ってこられた人生そのものが凝縮した龍馬さんへの手紙です。是非とも 龍馬ブログを見て下さい。
と言うわけで、この頃神戸で流行るものは、説教強盗ならぬお手紙強要。金を出せ、いや手紙出せ。


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 最近商用で大阪・日本橋に度々出かける。その所用先は地下鉄・日本橋5番出口にあって、用事・打ち合わせが終つてビルを出ると、道の向えに黒門市場の入り口が見える。ついふらふらと誘われるように市場に足が向く。
大阪の台所、その活気もこのお昼の時間帯ではまだ人出も少ない。心おきなくブラブラ見物して歩く。
市場を出て、道具屋筋を冷やかし、千日前の吉本の看板を見上げながら難波に出るのがお気に入りのルートだ。
前のうちは、この難波から船場筋まで商店街を歩いても平気だったが、最近は戎橋・道頓堀辺りまでが限界となった。
ところで、龍馬伝でも顔を出している岡田以蔵が最初の暗殺をしたのがこの道頓堀・九郎右衛門町(浪速区難波1丁目)にあった料理屋「大与」の近くの川岸でのことだ。
武市半平太率いる土佐勤王党による藩参政の吉田東洋を暗殺を疑う、生前東洋に引き立てられていた、下横目・井上佐市郎と、この勤皇党のメンバーとが藩主・山内豊範の参勤交代で大坂に入った折、大流行していた麻疹のため、豊範をはじめ共回りが次々と罹患し、8月22日まで滞坂を余儀なくされた。
『維新土佐勤王史』によると、佐市郎は「元吉(東洋)の横死を悲しむ事深く、しきりに刺客の踪跡を探り、つねに勤王党を仇視して、報復の念止まざるより・・・」とのことで、平井収二郎は同志に佐市郎殺害をもちかけた。
その同志というのが、岡田以蔵・岡本次郎・久松喜代馬・村田忠三郎らであった。
さきに吉永良吉と小川保馬が佐市郎を料理屋「大与」に誘い出し、さんざん酔いつぶしておいて、連れ出したのが九郎右衛門川岸。待ち構えていた以蔵らが飛びかかり「以蔵は不意に手巾を佐市郎の首に投げかけ、力に任せて絞め殺し、また喜代馬は短刀にて横腹を刺し、死骸を道頓堀川中に突き流した」という。
それが、以蔵の最初の暗殺で、たぶん戎橋か大黒橋のすそから佐市郎を投げ入れた。
ひっかけ橋とか名前が付いた戎橋を渡るたびに思い出す因縁話。龍馬伝は拾ってくれるかな。

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 3月7日の龍馬伝。話の中心は、弥太郎と龍馬と加尾の三角関係の様相を呈してくる。
ほんまかいな。弥太郎と龍馬が初めて出会うのは、長崎にて。後藤象二郎の斡旋によったはず。
龍馬が長崎に向かう弥太郎を捕まえて小ざっぱりな様子に驚くが、土佐の地下浪人といえども、あれほどの汚ようはいくらなんでも酷過ぎる。
ところで、いよいよ吉田東洋、山内容堂が登場する場面。
どうも俳優さんがた、年を取り過ぎて見える。
たしか、老候と雖も、容堂は当時30代。将軍後継に腹を立てて隠居をし、忍堂と称していたが、如何にもあてつけがましいとして、藤田東湖より容堂と称するよう勧められた逸話が伝わっている。その容堂さんがほとんど白髪あたまでの登場だ。片や、吉田東洋も当時40代ですから、あんなに歳は取っていない。
どうか、基本となる事跡の検証の手を抜くことなく、少なくとも、調べりゃ分かるレベルのことで、我々にストレスを与え給うなと、お願いいたします。

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 今、「正成と道誉」を読んでいます。
たまたま、サンケイ新聞社神戸支局に龍馬レター選考会の広報をお願いに、チサンホテルの北側を目指して行く右手。湊川神社が何時もの清々しい佇まいでおわします。
三宮からテクテク歩いて来た途中、三宮神社、走水(はしゅうど)神社とお参りをした。
となれば、あらためて龍馬さんも参った湊川神社を素通りするわけにはいけません。

日ごろは、このあたり湊川神社より菊水煎餅のほうが気になる信心のなさだが、今日は御門から威儀を正してのお参り。すぐさま目につくのは大楠公御一代記。横山大観の筆による美々しい絵巻が掲示してあります。
稀代の知将で知られる楠木正成公はこの湊川の地で激戦の末、弟正季公と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」(七生報国)と互いに誓い合い、兄弟刺し違えてその生涯を閉じられた。
後に水戸光圀公がその名を惜しんで「嗚呼忠臣南子之墓」を建立されてからは、勤王志士の心のよりどころの1つとされ、吉田松陰、真木保臣など多くがお参りをした。
その子の正行・小楠公との桜井の別れも、青葉の笛の歌と共に有名だ。

ところで、楠木親子がそこまで尽くした後醍醐天皇は、その誠心誠意を充分受け止められたかというと、そうは思えない点が多々ある。そもそも醍醐天皇の親政を目指しての建武の中興という政治改革は、やはり理念・観念ばかりが先走って、やがては足利尊氏にその政権を奪われてしまった。 
大楠公の必死の建言、策言もそお身分の低さから取り上げられず、みすみす自滅の道を辿った。
そして天皇親政の三度目の試みが明治維新と言う事になる。
楠公さんはこの有様をどう見たんだろうか。そして今回の政権交代おも。・・・気になるところです。
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