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一昨日の関東高知県人大懇親会に引き続いて、きょうは神戸ポートピアホテル・大輪田のホールで近畿連合会の総会です。現鈴木会長御勇退と同時に、在阪の県人会の高齢化・会員減少・後継者不足の実情が噴出して、この総会後2年の猶予をもって近畿連合会のありかたそのものから検討しなおそうとの決定があった。もしかしたら当分、もしくは二度とこの形式の総会が開かれないかも知れない。そんな感慨が沸くのも、今回で6年ごと当番県人会4度目となる近畿連合会総会の過去の苦労を思い出した故だ。
一度目はポートアイランドのフェリー発着ホールで600余名を招いての総会。出し物にブラジル・サンバとよさこいをコラボして自らサンバ音楽隊のリードを務め、中内知事の傍らに本場カーニバルの本物のサンバダンサーを多数出現させ、そのハプニングに知事も大変驚かれたという逸話を残した。
2度目は国際展示場で最大規模の総会だったが、商売の不調で本番不参加。目玉の出し物に、神戸消防音楽隊を招聘してこれも好評を博す。3度目はこのポートピアホテルのオーナーが神戸商大の先輩にあたり、ダイエー中内功氏の御令弟・中内力とあって無理を通していただいて、おまけに出し物は弟・啓三が所属する関西学院軽音OBバンドを招いてのFULLBAND演奏。ステージ前にダンスフロアーも設えて、SHALL WE DANCE。これもそれなりの成果を収める。考えれば当番県人会をいいことにやりたい放題。で今回は神戸中華街の獅子舞・獅誠館をお招きしての連獅子舞となった。これには安岡司信氏にお願いして万端整えて頂いた。
さて総会は、セレモニーとしての総会次第が一時間以上という従来のこの会の様式を一部たりとも変えることなく構成・進行された。会長の御時世の嘆きを盛り込んだご挨拶に引き続いての知事様の県況報告も、東京でのご挨拶とは調子が違って何事も全国46番という苦しい実情の訴えが主となるお話になっちゃった。実際景気が悪いんだ。
この退屈なセレモニーの対策として、従前から、市町村首長様ご紹介の折、せめて同じ出身地の出席者の御起立を願ってはどうかという提案をしておりましたが、今回も受け入れられず、確信犯的に、今日の司会者小崎くに子さんに直接お願いしたところが、県の総会担当に相談・通報されちゃった。いまだ名前が覚えられない新任の次長が飛んできて、前例もないし、それをすれば会場がざわつくから却下との申し渡し。ちょっとした司会者レベルでの演出のつもりが、厳しい壁の出来となった。図らずも官僚の言いなりになっている日本の実情を見せられることになった訳だ。敵は案外手ごわいかたくなさ。間際に見せたあの冷たさは、おまんらおだてて使ってやっているんだとの本音を見せたに変わらんぞ。この余裕のなさと、県に丸投げが今回の行き詰まりの一因。検討委員会といいながら県主導となれば、結果は火を見るより明らか。ろくなことにはなりません。
ただ慰めは今回の連獅子舞が大好評であったこと。このことを慰めに、連合会とは当分GOODBYE。
PS・・・そんな高齢者集会の真ん中に降り立った天使が一人。生粋の土佐っ子で、そのへんのハチキンは及びもつかない清純気品を漂わせる彼女は、仁淀川町池川の特設お茶試飲コーナーをお手伝い。お名前も所属も聞き出したが、ここには書かない。写真以上の雰囲気あり。思わずお茶のお代わりに通いすぎました。
もとはと言えば、このブログは神戸高知県人土陽会のゲストブックから強制疎開されたもので、たまには古里県人会の報告もいたします。我が神戸土陽会須藤淳会長(元神戸外大学長・・外大は2期校で2回も受験して落ちたトラウマから、須藤会長の前に立つと落第生の気分が未だ蘇ってくる。)が瑞宝中綬章(旧 勲三等)を授章されて多忙を極められていることから、関東へは君いってくれとの命令一下、11月7日東京へ出かけてまいりました。花の東京のちょいと東、錦糸町は東武ホテルレバント東京・錦の間。
関東高知県人会大懇親会ということば通り、関東一円を網羅した範囲の同窓会・同郷会・職域会・親睦会等をコアとした、ゆるい縛りの関西で言う近畿連合会レベルの催しと見た。
出席者は約400余とのことだが、立食形式で人の交差が激しいため、もっと多数の出席者のような錯覚を覚える。メイン3テーブルのみが着席・コンパニオン附きフルサービスで、そんな席に近畿の代表ということで座らされるがどうも落ち着かない。
入場と同時に入口で水割り他が手渡される。どうやら政治パーチー方式か。土佐のおんちゃんにそんなことをしてたまるか。たちまち酒盛の輪があちらこちら。
関東高知県人会会長・元海上自衛隊幕僚長・藤田幸生氏の元気いっぱい肝要簡略な開会あいさつ。尾崎正直高知県知事の県況報告、そして江本孟紀氏のトークがあって、改めて鏡割りとなるころは、会場中名刺交換の渦が逆巻く。知事様の前には優に50人を超す行列ができあがっておりました。
席の両側は南カリフォルニア高知県人会創立100周年記念祝賀会実行委員長・飯沼星光氏。その幼馴染みの関東県人会顧問・元神戸製鋼所副社長・吉村聡一郎氏と多士済々。とくに南加州県人会には三男坊を高校卒業と同時にロスへ留学に放り出した際、唯つ足がかりとして、尼崎県人会の玉川氏に紹介状を頂いて持たせた御恩が有り、その経緯を説明、おそまきながら御礼を申し上げる。また来年11月1日デズニーランドでの祝賀会は十分魅力的。
PS・・・右側写真は山内興業社長・山内豊功(とよこと)ご夫妻と小生。豊功氏は銘酒・土佐鶴のコマーシャルに登場、その端正華麗な盃捌きは山内酔鯨候を彷彿させる血筋のお方。山内家19代御当主様。一方私は勝手に土佐戦国七雄・津野氏末孫を称し、長曽我部三男津野親忠公を最後に家名断絶の身が同じ写真に収まるなんて、考えられない構図であります。もちろん山内ご夫妻はそんなことなど御承知のはずはありません。乞うご容赦。
弘田龍太郎は明治25年(1892年)土居村西木戸(現在の安芸市土居)に生まれる。父は教育者で、明治初期に高知県議会議長を務めた弘田正郎。母・総野(房)は一弦琴の名手で、龍太郎の音楽的才能は母譲りのものでしょう。3歳の時高知を離れ、千葉師範学校付属小学校、三重県立第一中学校卒業。同43年、東京音楽学校(現東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学した。後に珠玉のような童謡を生み出す彼が、器学部からとは意外な気もする。在学中に歌曲『昼」を作曲するなど、多彩な音楽活動を繰り広げるが、ここは童謡に絞って紹介すると、文部省唱歌「鯉のぼり」も最近の研究で龍太郎の学生時代の作曲であることが判明したとか。
童謡にいたるきっかけは、北原白秋を中心とした童謡運動「赤い鳥運動」に参加。『靴が鳴る』・『浜千鳥』・『叱られて』・『雀の学校』・『春よ来い』などの名曲を次々発表し、童謡・歌曲作家としての地位を確立した。
歌曲『千曲川旅情の歌』や仏教音楽『仏陀三部作』オペラ『西浦の神』など。昭和27年『1952年)11月17日東京本郷弥生町の自宅で永眠。時に60歳。
他に山雀太夫・ねぎ坊主・貝がらの夢・金魚のひるね・村祭・おやまのお猿・おうち忘れて・雪うさぎ・ほうほう蛍・今夜のお月様・とおせんぼ・おしくらまんじゅう・薔薇と花子(与謝野晶子詞)。
私のかなわぬ願いは、万人の心に残る童謡を一曲残すこと。龍太郎さんに肖って、この際頑張ってみようかな。
ところが、最多数の県人会が散在していた大阪の地で、どうやら大きな地殻変動が起こったらしい。今日大阪土佐料理店「みなみ」で開催された、高知県人会・近畿連合会の役員会で、老舗の大阪高知県人会と、7つの近在県人会が合併したとの報告がなされた。
大阪高知県人会といえば、上場企業の社長・役員が綺羅星のごとく居流れ、我々は仰ぎ見る存在とばかり思ってきました。最近ではN製鋼の社長が会長職を代々引き継がれ、専務理事も会社の秘書役がされるという不文律がありました。そしてその不文律は永劫揺るぎないものと思い込んでおりましたが、ここに至って、次期社長からは高知人でなくなる事情が判明。かくなれば、現社長退任に伴い、N製鋼からの会へのバックアップは全く期待できないとの事態となる。おまけに、最盛期250人を有した会員数も100人を切つているのが現状。名門大阪高知県人会危うしの状況が出来しているわけです。そのためこの際、近隣の大阪市内の単位県人会との統合を呼びかけたところ、単位県人会もまた、根本からの後継不在事情をかかえていたもんだから堪らない。雪崩を打って一挙7クラブが合併の運びになっちゃった。勢いというのはげに恐ろしい。
ここに至って、県の大阪事務所は、単なる単位県人会の合併とみなし、合併後の人事案を取り繕い、役員会冒頭、役員の了承を求める動議がありましたが、ことは近畿連合会・県人会自体をどうするのかという根源的問題の検証を抜かしての、ビボウ策にしか見えず、この会はじまって以来の議論百出となりました。それぞれの会の実情をお聞きすると、皆さん高齢化と、若手新規会員不足で、会の運営が青息吐息です。しまいにはこの際、近畿連合会から脱会して、初心に戻り慎ましやかな会として生きながらえたいとの申し出も飛び出した。この発言により会場の雰囲気が一変し、真剣に県人会活動の見直しと新たな創造なくしては明日がないことを再認識し、これからどうするかの議論に熱が篭ったことでした。
ことは簡単で、県人会ではなくKENJINKAIを目指せばいいだけのこと。聞かれれば喜んでお話いたしますよ。
その間、平成7年阪神淡路大震災を大奮闘でのりきられた平成12年5月21日の70周年記念総会で、会長を須藤淳元神戸外国語大学学長に譲られ、名誉会長となられました。この一連の推移を土陽会サイドからのみ見ていた私には、なにも会長を代わられる必要は無いんじゃないかと内心おもっておりました。しかし、本日この20年の適寿病院の沿革と取り組みの講演を拝聴し、先生のご挨拶を伺ううちに、開院当初、診療報酬の対象とならない、REHABIRI治療を、無報酬で7年間も続けられたことや、REHABIRIそのものが、ほかの診療科目のようにDOCTOR1人に頼ってできるものではなく、理学療養士を中心に、病院スタッフ全員が一団のチームとなって取り組まねば到底できるものでなないこと。それには、さまざまな現場研修と、海外からの先進知識の取り入れ等、若いスタッフの士気と連帯を高めてゆく作業の継続がかかせないことを知り、その実行に邁進された20年であったことを知りました。そんな凄まじい精進の中で、よくも土陽会のお世話まで頂いたことかと、理解のなかって身の不明を恥じたことです。会は先生のご長男。敦専務理事のご挨拶でお開きとなりましたが、医師であり、厚生省の技官として海外へ派遣されていたご子息の立派なご挨拶を聞くにつけ、この記念会は、適先生の20年の大成果の仕上げで、専務理事へのバトンタッチの宣言にさえ聞こえてきたわけです。そうであるなら、ここは一番、土陽会の大政を奉還して、再度先生のご指導を受けられないものかと、次の考えに及ぶ私めに御座います。あと2年で80周年となりますからー。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)