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5月25日のページにあくまで私見としての土陽会小史を記した。かく言うわたしも今年で66歳。我ながらホントカヨの心地でおります。今会を引っ張っていただいている須藤会長・小島専務理事・島本事務長の高知丸の内高校同級生トリオの皆さんもめっきりお年を感じておられるのでは。小島理事が80周年を一つのけじめと考えられて、この2年をかけて会の若返りを図ろうとされている気持が痛いほど解ります。そんな中無事に終えることが出来た今回の総会の反省点は、参加して頂いた来賓の皆様へ十分なホスピタリテイで対応できたかどうか。会員のとなった皆様に対して、ようお出でて下さったとお迎えができたかどうか。土佐人の悪い癖は酒が入ってしまうとすべて良かったことに納得してしまいがちなところ。会場の片隅で淋しくされていた会員はおられなかったか。いま思い浮かべているところです。
我々も総会の度に気持ちを新たにしなければならないところ、むしろヤレヤレの感じが勝ってしまっている。こんなことでは、80周年の後の展望がひらけないのでは。昔は公文会長に総会のたびごとにいたらなかった点を叱られたものです。今はそんな損な役を買って出る存在が懐かしい。事業報告に立って皆様に龍馬IN神戸事業で思いのままやらせていただく暴走をお許し下さいと謝ったものの、この会をかき回しているのは、実は俺でないのかとの反省もあります。
それこそあと10年後のわが県人会のオリジナルなありようを一度立ち止まって考えるのも一案。
そんな意味で、今回の正調よさこい踊り総踊りは意外な効果がありました。はじめは照れくさそうな様子であとをついていくだけの所作が、ラストの頃になりますと、てんでに手をふる足をふる。皆さんいい顔で踊りの輪に溶け込んで見えた。いつもなら決して踊りなどしなかった人が、鳴子を手渡されて渋々
輪におしこまれた様子が一変熱気さえ感じる盛り上がりとなりました。続いての「南国土佐」大合唱となった頃は、皆さんが主役となっておられました。かくあってこその県人会と、大きなヒントを頂いたことでした。

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このホームページの本体・神戸高知県人土陽会は「大正から昭和初期のころ、郷土出身の先輩、弁護士浜宇津淳一郎先生が、神戸市会議員、兵庫県会議員、衆議院議員(原と改名)出馬時に当たり後援兼親睦団体として、高知県人同志会が結成されていて、不肖私も秘書山本弘亮氏の呼びかけで大正14年頃から入会。その後昭和5年頃、原 淳一郎弁護士、山地四郎神戸市会議員、浜宇津英一市教育委員各位の発起で、当時の鈴木商店関連会社を中心に高知県出身の役付き有志で、土陽会を結成。郷土を語り親睦を深め、郷土意識の高揚に寄与した。」(土陽会理事・豊永栄福)会であります。一方私といえば、「隠居したら土佐・新庄の山に帰って近所の若者を集めてワイワイやる。」が口癖だった親父・清志への純粋に親孝行のため昭和54年。前年に開店していた鍋ガーデン・よさこいマル一を会場に『東播土佐人会』(会員60名)を立ち上げ第一回総会を開催している。その県人会立ち上げの際、土陽会の会員だった岡田四郎伯父の紹介で公文適土陽会会長・豊永栄福理事に県人会の会則つくりからご指導頂いた経緯があります。このご縁で昭和55年11月16日開催された神戸高知県人土陽会50周年記念総会に親父が東播土佐人会の会長として招待され嬉々として参会したもんです。そんな関連で並立していた東播土佐人会も、昭和60年5月26日の土陽会55周年総会を機に、前年惜しくも亡くなられた公文適会長の後をご子息・公文康先生が継承されると同時に同会に吸収合併することになりました。この総会から会場はよさこいマル一となり、当時我が明石駅前マル一グループの売り物でありました、ビデオ・カラオケの司会を仰せつかったのが事のはじまりです。以降、総会のアトラクションの部のカラオケ司会から始まって、大福引会ETC。終いにはアトラクションの部の司会は何故か津野の仕事となり、その後神戸に会場が変更になってからも、当分の間、毎回自前のカラオケセットを持ち込んでセッセとご奉仕いたしておりました。途中、私の事業不調の煽りで一・二回抜けた回があるかもしれませんが、去年までの正味22年間アトラクションの部の間、もっぱら司会・進行にこれ勤め、お料理をまともに口にしたことなど一度たりともありません。その私が去年初めて閉会時刻を30分もはやめてしまうという失敗をやらかしたのです。かようにボケてくれば、自分から司会のお役御免を申し出なければと考えておりましたところ、今回の理事会で総会予定プログラムを拝見いたしますに、申し出る必要も無く、交代者の名前が記されており、女房ともども目を見合わせたところです。しかし考えてみると頼まれもしないのによくよくの22年。有る意味馬鹿としか例えようがないのではないかえ。そこで、せめて自分自身に『よく続けてくれました表彰状』を贈ることにいたします。

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神戸高知県人土陽会のゲストブックの場を借りて、徒然なるままに想いを書き綴る私の健気さに動かされたのか、当会HP管理をお願いしている野崎パソコンの真理子さんから、「つのしんの独り言」というコーナーへ強制疎開となりました。疎開と言えば、ほぼ死語となった感じですが、昨日3月10日はかの東京大空襲・63年の日とか。まさに疎開の言葉が身に沁みる。私の戦争体験と言えば、現在満66歳(昭和16年・1941)。昭和20年では3歳6ヶ月の頃。あとで聞くに、明石の川崎航空機工場めざしての度々の空襲を避けて、今の神戸市西区高津橋の農家に疎開していた頃。山の向こうの空が真赤に染まっていた情景を覚えている。弟の啓三がその農家の納屋で産声を上げた10日後が終戦。親父は戦時中新浜の鳴尾組・海運関係に勤務していたことから、重油を扱っていたらしい。戦時経済統制法違反で前科一犯ですが口癖でありました。引っ張られても自分1人で罪を被ったとか。そのせいで男を揚げて、戦後の喫茶出店のキッカケを掴むことになったそうな。あの戦争只中に二人の子供を抱えることの苦労はどんなだったかと問いかけても、その時はただ夢中でガムシャラに暮らしてきたとの感想。ただ食料不足は応えたらしく、戦後すぐは親父の兄の家に居候していた時、隣の部屋で従兄弟達が焼き芋を食べている気配に、私が欲しいとぐずりだし、いくら言い聞かせても泣き止ます、終いにどうして僕には当たらないのと責められたときは、思わずうだいて泣いたことがあるそうな。母が戦争だけは嫌が口癖だったのもそれゆえか。・・・戦災被害の方々の霊に合掌。

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