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前期最終戦でこの試合の取りこぼしは許されない。出来るだけ点を稼がないと、土壇場で得失点差で涙を飲むことになりかねない。
不安は阪大外語戦でCP新田がレッドカード退場でこの試合は出場停止。攻撃の要を失って大丈夫かなという懸念があった。
OB連もこの状況は先刻承知で、名誉監督・木下健、前監督・吉田進が顔を揃える。吉田氏は横浜から日帰りとのことだ。前期全試合応援の的場会長・遊上会計も最終戦の見とどけに参集。
1:00キックオフ 前半はあまり盛り上がりのない一進一退の状況。兵庫大は一分しかしていないが、ほとんどが接戦で一点差負けが多い。その守りをみていると、それも頷ける。
一方、県大は逆襲からチャンスをつくるものの、ゴール前で決定力が発揮できないでいた。
やっと40分過ぎに一点。
後半はがらりと変わり、時間帯にまんべんなく3点得点した。
名誉監督の感想は今日はゆっくり見させてもらったということだったが、もちろんもうひと押しが欲しかったという意味が隠されているんだ。
それにしても前期10試合を何とか無事に乗り切った。現役の皆さん御苦労さん。・・・集合写真をパチリ
4時過ぎには殿村先輩から電話が入る。これはこちらから報告すべきでしたと謝り、4-0完勝と告げる。
この調子なら2部昇格も叶うかもと電話の向こうで喜んでおられた。総会でお会いしましょうと約束を交わす。
今関西連盟のHPを見ると、あとの試合大国際大VS兵教大は1-1の引き分けだ。
とすれば県大神戸は京大に次いで単独2位となったわけだ。
この年、長男の嫁さんが作ったお節を初めて頂くことに。
三男も駆けつけてくれて、大変な状況ながらひと時心の安らぎを得る。
ちょうど木更津ー川崎を結ぶアクアラインが完成・開通した直後だったと思う。
正月2日5人で通り初め。海蛍で東京湾のど真ん中の雄大な光景を堪能した。実に爽快なり。
1968(昭和43年)ころ、木更津の出張所から大阪への出張はフェリーでこの湾を渡るのが一番の近道。
長男を亡した時、親父が駆けつけてきたのも、羽田から川崎・フェリーだった。
君津の町は腰を抜かすほど変わっていて、どこにもその面影はありません。水道管ようの異形管を君津駅貨物ヤードに引き取りに行った際の草茫々の風景は今も忘れることがない。
木更津駅前の唯一のレストラン・オランダ屋も見つからない。
ただ驚いたことに、新居ように新築で借りた桜井のバンガローのような一軒家数軒が残っていました。
当時はすぐ目の前に波打ち際が迫り、スコップで一掬いすれば、驚くほどのあさりが獲れた浜は立派な宅地に
先の先まで埋め立てられておりました。
ともかく、ここが我々の出発点・原点だと説明してしばし佇む。なんと32年ぶり。
振り出しに戻ったなと弘子ちゃんと感慨に浸った。
次男がロンドンへ飛び立った後、いよいよ腹を括った。
明宝ビルと交渉して7・8月最後のBGを開き、10月5日にブラジルを閉店退去することに決定。
このビル建て替えからでもブラジル25年、ビアガーデン24回開催の幕を閉じる。
ブラジル創業37年目。たぶんこのブラジルは2浪していた私の拠り所として親父が手を打ったもの。
幸いというか、不幸にもというか神戸商大に潜りこんで、チョイト学を着けたばかりに、今日の閉店の憂き目を見たものか。なまじ学をつけるより、水商売に徹することを教え込んだ方が良かったかも。
場所をさんよう喫茶(明神ビル地階)に移して平成11年2月24日まで粘りに粘ったのは、やはり親父に申し訳ないという気持ちからだったかも知れない。
しかし、お袋は駅前で借り物商売の厳しさを知っていて、私がトコトン苦労した姿を見ているからか、こんな商売するもんじゃないと慰めてくれていた。
ブラジルとBGの現状回復に一苦労。特にBGは仮設の厨房設備から、ステージまで電動カッターを片手に一人でやっつけた。さすがにブラジルは解体屋に頼んでの大工事となった。
とくにお店の半分を一段床あげをするのにコンクリートを打っていたのがトラブルの元。これの撤去に時間とお金がドッサリかかった。
賃貸店舗であれば、いつかこんな日が来ることは自明。とあれば解体現状復帰が簡単にできるように考えて内装すべきだったんだ。いまさらながら後で気がつく癲癇病。経験が後から付いてくる。
実に高い授業料を払ったものです。
PS・・・1999年の営業日誌を見返していると明石焼きのレシピ(割り)がでてきました。
この割りでの玉子焼きはなかなkに好評でした。
当時の一回の仕込みでの分量ですので、割合だけでも参考にして下さい。
メリケン粉 250G じん粉 250G 玉子全卵 16ヶ だし 2800CC
ベーキングパウダー 10G ウス口 万 素 塩 好みにて
いそいでシャッターを切ったのは、いち早くこのちらし寿司に食らいつきたいからか。かなりのピンボケ。
たいがいの旨いと聞いたお寿司屋さんには足を運ぶが、ネタはともかくシャリで納得のいったお店は、ほんとあったかな。菊水本店のこおこ巻きにむくかなり酢をきかしたものから、こりゃ酢飯といえないもの、赤酢を使っていい感じのものまで。
その中で、明石土山の「すがし」のシャリが気に入って通い始めて、たぶん1年半は経ったかな。
名前のすがしってなんだろうとのれんをくぐったのが始まり。
1・2回は刺身を頼んで目が飛び出たり、大トロを頼んで臍を噛んだりしたが、ここのシャリがほんと私好みのしょうしょう甘くちで、3回目かに頼んだ特上ちらしを食ったときからはこのちらし一筋。
最近では顔を出しただけでちらしを出してくれるようになっています。
今日は加古川の法務局で公図を一件挙げて、加古川工業団地内の倉庫物件の下見に行った帰り、弘子ちゃんは夕方から三宮へお出かけとかで、少々夕飯には早かったけれど、一人で来たわけです。
ほんと美人のおかみさんが早速奥さんはと尋ねる。今日はお出かけランランで僕一人とぼやいて席に着く。
そしてかのちらしが黙っていても出てまいりました。
ちらしといえば、実は魚のヘタ特集と思えば毎回出てくるちらしの様子さえ楽しみとなる。
大将の機嫌のいいときには、ほんまかいなというほどのトロの切り身が入っていたりして。
今日は鱧の梅肉おとしにウニとイクラが何時もより大盛り。赤だしに粉さんしょを利かせて一気にいただいた。
ちなみにすがしとは、大将の古里勝田郡にある小高い山の名前とか。
宅急便ですの声が聞こえた。山形さくらんぼが届いた。三男が父の日のプレゼントとして贈ってくれたんだ。
サクランボが熟すまで待ってのこと。先ほど美味しく頂いた。
届いたのがお昼前、そうとなれば早速お礼を兼ねて先日から気になっていた孫授かりの玉の緒地蔵さんをお参りにゆくことにした。
事は何時も急に展開する。なにしろこの一週間不気味なほど私が関係する範囲の業界は静かなもの。
6月末の決算報告・総会が済まないと企業立地は動かない。
7月になると縣案の案件の結論が出てくる。運命の一瞬だ。その為にも玉の緒神社にご利益のお参りだ。
加古川消防・志方分署の前の細道の奥にお地蔵さんはいますとの新聞記事だけを頼りに出発。
志方分署は思ってより辺鄙な場所にあって、そこに辿り着くのに一苦労。この志方には加古川牛を求めてたびたび来ていて土地勘があると思っていたのが裏目にでたんだ。
やっと探し当てた玉の緒地蔵尊は人々の切なる願いと成就の喜びが満ち満ちたオーラ漂う霊気を感じる。
早速孫授かりを地蔵さまに祈願して、商売繁盛は玉の緒神社にお願いする。
玉の緒神社はこの土地がら有名なお肉やさんから日本を代表するハムメーカーの寄進の石柱が並ぶ玉垣。
そして驚かされたのは、あの三島由紀夫の慰霊の碑が同じ境内に安置されていたことだ。
右隣には市ヶ谷の自衛隊本部で割腹自殺した際の檄文が看板に大書してある。坂井時忠兵庫県知事の揮毫。三島は本名・平岡公威、父は平岡梓で水産局局長とある。本籍が志方・上富木。
意外な碑を見つけて今検索してみると、確かに三島の父方は志方出身で生涯で2度この地を三島は訪れている。一度は徴兵検査、そして墓参り。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)