忍者ブログ
書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
[147]  [148]  [149]  [150]  [151]  [152]  [153]  [154]  [155]  [156]  [157
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 今も古い出納帳といっても、もっぱらチケットの預け先と入金状況、それともろもろの経費の領収書の記録だけなんだけれど、手元に残っている資料を見直しながら、我ながらあの大コンサートを独りでやりおうせたもんだと自分ながら感嘆いたしております。
 あれはいったいいつ頃だったんだろうか。チケットを無理やり押しつけている記録が5月26日。それまでに企画立案の期間を考えると4月の初めだったかな。明石高校4回生音楽部OB・フルートの関谷卓児氏からTELが入る。「津野君、東京のBLUE COATSと言うBIG BAND 知ってるよね。明石高校・旧制中学併立1回生のトランペットで森寿男さんと、本木英夫さんの同級生でやっている人気FULLBANDのことだが、7月15日と17日関西で公演が有るんだが、ちょうど16日(水)が空いちゃって、ギャラはアゴ・足無しの裸足で好いんだけど、何か仕事ないかと言ってきてるんだ。津野君のお店では狭すぎるが、何とか面白い企画ないかな。」
 そのころ10年も上のOBから声がかかれば至上命令と同じ事。何としてでもやってくれとのお言葉。俺も若かったんだ。なまじJAZZに手を染めていたばかりに、BLUE COATSの何者かは十分承知しているし、関谷氏は伊藤隆文氏と4回卒の同級生でもある。そのうえ森・本木といえば、戦後の東京のJAZZ界で、いち早く明石高校のラッパとして勇名を馳せた伝説的プレーヤー。ご両人の活躍の御蔭で、あとに続いたラッパ吹きが東京のバンドに雇ってもらう際には、ギャラが並の3段は上だったとか。それほど評価が高かった。その森寿男さんがバンドマスターで、本木さんが一番トランペット、おまけにグレンミラーサウンドが売りときては、にべもなく断る言葉が出てこない。
 啓三に相談すると、BLUE COATS招聘大賛成是非やろう、日本楽器神戸支店も応援させるとの返事。
啓三も神戸支店を根城にしたBIG BAND「大器晩成会」を立ち上げて腕がウズウズしていたところか。明石メイトも満5年を経過して、かなりの充実をみせている。もちろんBLUE COATSの前座とはいかないが、そこは何とか熱演で許して貰おうという考えだ。もちろんプロとの共演であればこれ程良い刺激はありません。
 森・本木氏が昭和23年卒で伊藤さんが27年卒。そして忘れちゃあいけない、日本のマイルス・デビスとの呼び名で有名なJAZZペットの片岡学鯰学舎(高級料亭)主人にお願いして、音楽プロディユサーも兼ねて貰うという豪華なラインナップが纏まった。片岡氏は明石南高校卒で明石中学音楽部がマッカーサーの命令で、新制高校制となり、明石と明石南の両校に引き裂かれた際の一人であります。・・もちろん司会は末廣光夫御大

   

拍手[0回]

PR
 1978年6月3日の第13回全日本デキシーランドジャズFESTIVALに出演したころ、伊藤隆文は久米の仙人・ターヤンになっていたと10月13日の項で書きました。なにしろY子に夢中で気もそぞろ、40歳以上年下のジョノカ(彼女)が出来て、自身は独身であります。そのジョノカを俄か歌手に仕立てて歌わしちゃった。神戸のジャズ愛好家連中に通じる筈がない。それも天地真理の「水色の恋」ときた。ここまでのめり込む気持ちは今なら分かるようなきがします。ターヤン最後のローソクの火が燃え上がっていたんだ。
 運悪くこの演奏会では、前の2回分の上出来の名残があって、出番もオオトリで最後となっておりました。
神戸祭り協賛とあって、TV放送もされると聞かされた。実は前回のTV放送の時、世間一般にはまだまだビデオレコーダーを持っている人が少ない頃で、仕方なく岸本カメラのT氏に録画をくれぐれもお願いしていたのに、仕事に追われて録画しそこなった失敗がありました。今回はその轍を踏むまじと万端用意して待ちかまえておりましたのに、バンドの連中も親戚一同にTVに出るから見てねと言いふらしておりましたのに、刻々と迫る放送時間終了間際になっても我々の姿はブラウン管に写らない。最初はラストに滑り込みで入れてくれているだろうと高をくくっているうちに、番組のエンドロールが流れ出した。その時になって、あの内容と出来上がりでは放送出来たもんじゃないと気がついた。さすがにターヤンもそのことに気がついたらしく、ジョノカをあまり店に連れてこなくなりました。その代りに以前に増してジャズ教室が厳しいものになったことは言うまでもありません。
そしてメンバー一同が口々に、悔しさを晴らすためにも自主番組でTVに出たいものだ言い出した。
 このころになると、ハウスピアノにまだ高校生だった大里聖彦、和歌山大学経済学部の教授でもあるクラの渡辺氏、バンジョーの大森氏も飛び込みで、シンエーフーズを飛び出したペットの南野君がお店のスタッフにと所帯が増えてまるで一大ファミリーを形成するに至っていた。VOCALには宝塚出身の明石純さん、もちろん弘子ちゃんもフルートで参加。メンバーの家族ぐるみの付き合いとなったおりました。
 この情景を「伊藤隆文とJAZZ仲間たち」と題して番組を作ろうという案がどうして出来たのか覚えていないが、もちろん末廣光夫御大にナレーションをお願いして、今度はゲストなしで、明石メイトジャズとの共演のみで録画しちゃいました。もちろん放送をばっちり録画したことは申すまでもありません。
 全員がこの企画のためクタクタになっちゃって、急遽このTV出演を第5回GOOD TIME JAZZ FESTIVAに換えることでお茶を濁すことにとなりました。 ・・1979年(昭和54年)6月3日のこと。
 

拍手[0回]

CIMG9497A.JPGCIMG9495A.JPG         すみません、これは神戸商大、現兵庫県立大学・神戸サッカー部のHP担当としての観戦報告です。
恥ずかしながら、前吉田会長の10年の間、リーグ戦を観にゆくことはありませんでした。とにかく試合となれば豹変する自分が恐ろしくて、また現役の時のように、皆様に迷惑を掛けかねないとの心配が先に立つ。 
しかし、このシーズンは、就任したばかりの矢頭会長の思いがけない急逝に遭遇して、彼の無念を思うと居たたまれず、せめて試合の観戦報告なりともと考えた結果、自然と足が向いておりました。
試合の詳しい経過・内容は現役がなかなか達者に淡水サッカークラブ・HPの試合速報に記してくれておりますから、それを参照してください。
最初弘子ちゃんから、大人しくするようにとの言いつけを守って、ビデオを撮ることに専念しておりましたが、試合の後半にもなりますと、すっかり忘れて、ビデオを再生してみると、どこのオヤジが怒鳴っているのという具合に声が録音されておりました。かなり恥ずかしくて、だれかれなくは聞かせられない代物でした。
ゲームは2-0(1-0、1-0)と前期1ー3で負けた借りを返せたが、実際は5-1ぐらいは特典していておかしくない内容であり、チャンスメークもしておりました。
チームは1年4名、2年4名という若いパワーが売りでありますが、やはり若さゆえマリーシアと言いますか、巧妙さと言いますか、サッカーセンスの発揮がまだまだ見られないのが残念。2手あとのプレーを予測した動きがあれば、そしてもう少しの落ち着きと、ダッシュ・ターンの鋭さ、正確なキックがあれば。
後半だったかGKのナイスセービングがあり、冷や汗ものの危機を脱した。おのセーブは良かったね。
右サイドのキャップテン・戸田の飽くことのないセンタリング、ゴール間際までの切り込みは武器になります。
肝心なのはオポジットの位置取りと、呼吸の合わせ方に課題が残っている。5番・10番・良いよね。33番のバーすれすれのシュートも良かった。後の4試合で上位とあたることになるが、この勢いで全勝してください。
応援に駆け付けて下さった木下名誉会長様、野間副会長(わざわざ東京から)様に感謝。

拍手[0回]

img698A.jpg
第1回 ゲスト司会・安達晴彦 (メモリーズ オブ ユー)1975.4.23

第1回の司会者が安達治彦といとも簡単に書いておりますが、安達治彦氏は知る人ぞ知るJAZZ・ディスクジョッキーでSTANDARDを語らせると止まらなくなるという人気アナウンサーで、そうそう呼んで気安くきてくれるようなお方ではありません。たしか「安達治彦のメモリーズ・オブ・ユー」では人気を博し、私もこの番組(ABC)の大フアンでありました。残念ながら、1992年に脳卒中で倒れられ、タレント活動を休止された。2000年4月12日肝臓がんのため他界された。この時の実況テープが残っていて、いかにもJAZZをともに楽しんでいる姿が目に浮かぶような司会ぶりであったのを思い出します。・・それもこれも人気者の伊藤隆文の人脈でお願いできたことは言うまでもありません。この傾向は第4回のGOOD TIME JAZZ CONNCERTまで続き、おかげで当時のこの明石では考えられない豪華なゲストを迎えてのコンサートとなりました。

第2回 ゲスト・末廣光夫  1976.4.28
すえさんについては今更説明の必要もありません。神戸JAZZ界を仕切るMUSIC・PRODUCER.

第3回 ゲスト・小山乃里子 1977.4.20
「ノコさん」のニックネームで知られるラジオ・パーソナリティ、フリーアナウンサー。このころは「ごめんやす番場章夫です・MBSラジオ」で毎日お耳にかかっていて、声からのイメージがありましたが、ご本人にお会いして、まったく違った佇まいだったのに驚いた。しかし、お話をしてみると「ア、ノコさんだ」と納得。

第4回 ゲスト・古谷哲也(コンガ奏者) 1978.4.?
通称 古哲さんはコンガ奏者とあるように、数少ないアフリカリズムを感じさせる演奏ぶりでした。彼とターヤンがリズムセッション・バトルを始めると延々終わるところを知らず、まるでアフリカのジャングルの住人の如し。その後は古哲リズムワンダーと称し、子どもたちに音楽の楽しみをまずリズム遊びから教えることに情熱を傾けておられたが、さる2008.2.16前後に亡くなっておられました。





                 

拍手[0回]

img450A.JPGimg451A.JPG














img449A.JPG                                                                              第9回全日本デキシーランドジャズFESTIVALでのルイ・マスターピースでのデビュが余程鮮烈だったせいか、この年(1974年昭和49年)も押し詰まった12月5日地元ローカルのサンTVで我々のJAZZパーティ風景が放映された。題名は忘れてしまったが(誰か覚えていたら教えて下さい。)プロデュサーが白石さんだったか、おぼろげながらこの名前が浮かんでくる。
 ところでこの時のゲストが物凄い。伊藤隆文人脈を駆使してというより、ターヤン復活とあらば是非駆け付けて演奏を共に楽しもうと言う面々がずらり揃った。
 司会はどうしても末廣光夫氏。東京からターヤンの古巣でもある「薗田憲一とデキシーキングス」とVOCALの森サカエさん。地元BIG DIPPERも応援に駆け付けて賑わい、極めつけは南里文雄大師匠が再び参加して下さったこと。・・・森サカエのTHATS MY BABYはいかにもデキシーらしい色気のある歌でござんした。
 バリバリのプロの前で吹く羽目になった我々は、それでも演奏が始まれば気遅れも何も吹き飛んで、ターヤンを頼りに頑張ったことを覚えています。やはりターヤンらしいと口々に感想が相次いで面目を施した。
 薗憲さんのバンドは、売り物のハッピーデキシーそのもの。ラッパの、クラの、バンジョーの超絶技を目の当たりに見て、あっけにとられた。・・プロは凄いわ。
 残念なことに、その時はみんなが驚くほどの元気で「ラビアンローズ」を吹いて下さった南里師匠が翌年(1975年・昭和50年)8月4日に亡くなることになろうとは。ご逝去の一報に接したときの衝撃は、このときのセッションがあまりに楽しかったことを、改めて思い起こし、より深いものとなりました。
 薗田憲一氏も2006年7月12日に亡くなられたとか。トロンボーンとチュウバの薗田兄弟は奇しくも、土佐は須崎のご出身。我々津野兄弟と同じルーツでありましたが、この時は、その事実をしるよしもありませんでした。

拍手[0回]

[147]  [148]  [149]  [150]  [151]  [152]  [153]  [154]  [155]  [156]  [157
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
[01/30 つのしん]
[01/30 さくら]
[01/30 さくら]
[10/06 かめいち]
[10/03 庫山堂]
最新TB
プロフィール
HN:
つのしん
性別:
男性
職業:
企業向不動産仲介・企業立地
趣味:
ボランティア活動
自己紹介:
ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
バーコード
ブログ内検索
カウンター

Copyright © 『つのしんの独り言』 All Rights Reserved

Template by ゆうじ

忍者ブログ [PR]