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とにかく、日本人の悪い癖が今回の景況急落にも表れていて、巷の人出の悪いこと。
やっとオープンにこぎつけた前のカルフール明石。もっと言えば元のハイパーマート。今回はイオンタウンと改称してマックスバリューを中心に巨大書店やらドラッグやら大童で取り揃えてもまだ空きスペースの目立つ店内。人が出てないよ。木曜の5時過ぎ。マックスバリュー土山だけのほうが、もっとお客が多かったのでは。ここは態々屋上駐車場に車を置かないとだめなんだ。
その足で、東加古川の某有名焼肉店に久しぶりに足を延ばす。ころは6時45分。いつもなら車停められるかなあと心配するほど混んでいるお店の前に車が一台もありません。お店に入って、やってますかと念のため声を掛けたほど。店員さんが辛そうな顔をして、今日はお客さんが最初ですと言う。まあ空いてる方が料理が早くていいとか言いながら食事を終える8時までに来客はたったの一人でありました。
あきらかに何かが起こっておりますぞ。あのイケイケBOYのT証券I君の声も悲鳴に聞こえてくる。
といいながら、人の通る裏道にこそチャンス有りと囁く声も聞こえぬでもない今日このごろ。
あまりに世間が様変わりなのが気になって、そのことを記しておかねばと思い閑話休題としました。
もちろん最初は今までのクラブと思いこんでくる酔客と、明石で生演奏のJAZZが聞けるのかと喜んでやってくるお客とが入り混じって大変なこともありました。毎水曜は神戸のアマチュアながら老舗のバンド、ザ・ビッグ・ディッパーズがやってきて大盛り上がり。弟・啓三がYAMAHAの神戸店楽器主任であったので、その線からも多大なバックアップ。正式に看板をMUSIC INN として披露パーティを開いたのが1973年(昭和48年)10月10日。
啓三は関学軽音部を卒業後、兄貴が失敗したYAMAHAに楽々入社してしまった。たぶん一次試験の成績が抜群によかったからだろう。後で聞いてみると、軽音の部長を全とうする傍ら、ほとんどの学科が優だって。頭良いんだ。俺と違って。事実啓三の長男は灘中・灘高と進んでいまは東大医学系研究科機能生物学専攻・細胞分子生理学教室の院生だ。もしかしてノーベル賞も夢じゃないとチョイト身内自慢。
それからが実は苦難の日々が始まった。それまではお店の客の入りだけを心配しておればよかったのに、ボサリオでターヤンを教祖とするデキシーランド・ジャズの修行が待っていた。もちろんお店のライブとしての演奏活動だけにボサット見ているわけにいかず、昔取った杵柄ならぬトロンボーンを吹きだしていたから、このジャズ修行を逃れるわけにはゆかない。商売そっちのけでターヤンが現れる週3日は一杯飲みながら、一からジャズの手ほどき。それが深夜の2時3時。しかし音楽にかけては全くの素人ではないメンバーが集まっての練習はすぐに効果を現した。それでもどこか人前で演奏してみたいと思うようになったのは、私が所属していた明石人丸ライオンズの結成5周年の記念式典に「Lets go Dixie」と名打って、そのころ人気絶頂のレッツゴー三匹(正児・じゅん・長作)をメインに、実は真打ちにかの「南里文雄」先生をお招きする企画を私の独断専行で繰りひろげ、ターヤン、ナッカンを中心とするアンバサダーなるデキシーバンドと共演してもらった舞台のお世話をボサリオのバンド連中でしたのがキッカケでありました。・・・そうだ俺たちも舞台に立ちたいものだ。
このクラブというのは、今時のクラブではなくて、東京ナイトクラブの歌に出てくるような、綺麗なお姉さんを侍らすクラブのこと。てんぷらマルイチを開店した直後に明石に帰っていた私がこの店も担当することになった。
名前もクラブBOSSA・RIOと名付けて、大小痩デブ老若なホステスを取りそろえ賑々しく開店したはいいが、ある意味女性の生き血を啜るようなこの手の商売は全く馴染めない。その上ママのなり手がなくて終いには弘子ちゃんを駆り出してママに据えたは良いが、4男を身ごもってツワリが酷くて出勤停止。ついでにヤクザ屋さんに附けの取り立てにいって逆に恐喝にあう始末。これは弘子ちゃんの親父が県警の警部だったので早速願い出て立件逮捕して貰った。それにしてもこの仕事は我々が手を染めてはいけないとの結論に。
そんな時、てんぷら・クラブにお酒を入れてくれていた伊藤酒店店主・伊藤隆文先輩に、神戸に面白い店が開いたから見に行こうと誘われた。その店が今ときめいている開店早そうの「ソネ」でありました。伊藤さん(以後・ターヤン)のプロ時代のバンドメンバーである中川(以後ナッカン)がお店のど真ん中に据えられたグランドピアノで弾き語り。そのピアノの周りを外人がぐるっと取り巻いて、唄うやら踊り出すやら。それを日本人客が見物している。
そんなピアノの席に座らされて傍らでターヤンは早速トランペットを取りだす。ドラム・ベースと加わってジャムセッションが始まった。曲はSTANDARD中心。ガキの頃映画館でさんざん聞いた覚えのあるナンバーにちがいない。ターヤンのラッパの鳴ること鳴ること。おまけに酒屋からミュージシャンに変身してカコ良い。
ターヤン曰く、明石でもこのスタイルでやれば面白いんだけど。アマチュアのバンドの当てもあるらしい。結局問題はピアノの段取りだけということになった。・・・こうなれば実家にある妹の縦ピアノをとりあげるしかないか。
ハッピーデキシーばかりだから飽いちゃうんだ。本来デキシーは葬列を導く音楽隊で、天国に召された身近な人を往きは、惜別の情を込めてマイナーで、帰りは天国に召されたことの喜びをハッピーに演奏したものなんだ。ふと横を見ると、娘より若い、といってもOVER50のチョイトベッピンを連れた77歳のDOCTORの指先がリズムを取っている。かしこまって座っている姿で楽しんでるんだと微笑ましい。
いよいよレジェンド右近の登場だ。彼も昭和5年生まれの77歳。トラッドデキシーそのものの演奏ぶり。まさに伝統芸ですな。もちろん音もよく出ていました。それも今風の軽いもんじゃない、想いの籠った味のある音色。
バトルの際、金髪美人に吹き負ける場面もあったように感じたが、十分伝説を納得させるラッパでした。喝采
ステージングで言えばもっとハイライトさせるべきだっ
JAZZクラリネットの名手・北村英治師匠は相変わらず若々しいお顔でフアンに取り囲まれて談笑中。明石の市民会館の公演担当の広瀬君が無類のJAZZ好きで、私がやっていたMUSIC・INN ボサリオの常連の一人。その彼が職権を乱用して、北村英治を招いてボサリオのバンドと共演させる企画を強引にすすめた。ほんと官の力は強いは。北村師匠も二つ返事で来演を快諾。『JAZZ街あかし』と銘打っての公演が1976年11月5日明石市民会館中ホールで開かれた。その時の我々のバンドが「伊藤隆文とボサリオ一座」。御客もそこそこ入って、アフターのボサリオでのジャムセッションも盛り上がり、北村英治のクラを真近で堪能したことを思い出す。
余談になるが、JAZZに理解を示す貴重な存在であった広瀬君は、その後立て続けに、渡辺貞夫・日野皓正とJAZZの巨人の公演を組んだが、JAZZ夜明け前の明石であったんでしょう、さんざんの不入りで、舞台の袖で涙を流さんばかりの広瀬君を慰める言葉もありませんでした。その後彼は早速移動となり、行った先が、土木課。何という人事であったことか。つい最近役所で出会って聞いたところによると、今は天文科学館で楽しくやっているらしい。
ロビーには早々と紳士淑女が参集。しきりとあいさつを交わしているところを見ると、どうやら永年通いなれたイベントの常連ばかりといった雰囲気。その年齢も後期高齢者前後のカップルが多い。女性連は意外と和装が目立ち、思いっきりおしゃれのいで立ち。圧倒的に夫婦での来場者が多いことが分かる。これはやはりJAZZの影響か。モダンボーイ・ガール達は年を取ってもボールルームにはカップルでお出掛だ。
やおらウエルカム演奏のうちに開場となって席におさまる。舞台右そでの13番テーブル。当日予約にしてはまあまあの席だ。
主催者・末広光夫氏の挨拶・司会で前夜祭の開始となった。のっけから末広氏の声がかすれているのに気づく。歳相応の変化なんだろう。それにしても年寄りばかりだ。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)